朝鮮王朝実録 総序(7)太祖 李成桂3
納哈出は、元が北に転じたあとに、満州地方を支配したジャライル部出身のモンゴル人。ただし、満州で独立したのは1370年頃と考えられる。1387年に明に降伏した。高麗史によれば、恭愍王11年(1362年)に三撒、忽面の地に侵入したとあるが、双城総管府長官の趙小生が旧地を取り返すための援軍を出しただけだろう。また同時期、紅巾賊が高麗・満州に侵入しており、紅巾賊に対抗するための軍でもあるだろう。双城総管府は1362年、趙暾と李子春(ウルス・ブカ)の内応により高麗の手に落ちた。双城総管府長官は世襲だったので、この事は、双城総管府の趙氏および李氏の内部で主導権を廻る内紛があったことを示唆している。李氏の内紛に関しては度祖の項に塔思不花と那海の争いが出てくる。また後の項に李成桂のはとこの女真の三善三介や従兄弟の李天桂との争いが出てくる。
この章は、典型的な太祖逸話である。
起 強い敵(異民族や猛獣)が現れる
承 やられ役(高麗人)が敵に負ける
転 李成桂が弓で射殺す。もしくは大勝する。
結 みんなが褒めそやす
(1362年)二月、趙小生*1は元の瀋陽行省丞相納哈出*2を引き込み、三撒、忽面*3の地に進行した。都指揮使の鄭暉は、戦うたびに負けたので*4太祖を遣わすこと請うたので太祖を東北面兵馬使として派遣した。
*1 趙小生は双城総管府の元総管で領地を取り返しに来た。
*2 ナガチュは、ジャライル部の出身の元の将軍で満州を支配していた。1387年明に降伏したのでそれより25年前の話になる。
*3 一説に、咸鏡南道北青郡、洪原郡。三撒、忽面は、女真語だと思われる。
*4 今回のやられ役
※ 高麗史 「二月己卯,趙小生誘引納哈出,入寇三撒、忽面之地。元季兵燹,胡虜納哈出,據有瀋陽之地,稱行省丞相。庚辰,宦者高龍普伏誅。辛巳,東京尹裴天慶來,享王,請幸東京。丁酉,倭焚晉州岳陽縣。减扈從諸司支給,有差。辛丑,王發福州。癸卯,駐駕尙州,牧使崔宰,供進無缺,不行饋遺,爲左右所短,遂罷之。甲辰,東北面都指揮使,與納哈出,累戰敗績,請遣我太祖。乙巳,安祐還詣行宮,金鏞使門者殺之,遣使分捕李芳實,金得培,萬戶朴椿殺芳實于龍宮縣。」
(1362年)7月、納哈出は趙小生と数万の兵*5を率い、卓都卿などと洪原の韃靼洞駐に屯した。哈剌万戸の那延帖木兒*6を遣わし、みな同じく伯顔甫下*7の指揮で千余兵を率い先鋒にした。
*5 おそらくかなり数字を盛っている。高麗の全力が遼出兵時の号10万。
*6 モンゴル語で、ナヤンは首長、テムルは鉄。首長の鉄と言う意味か?
*7 伯顔甫、伯顔甫下、伯顔甫下指揮のどこまでが人名かはっきりしない。伯顔はモンゴル語で《裕福な者》と言う意味がある。バヤン・ブカで《裕福な雄牛》なのだろうか?
太祖は德山洞*8院平で遭遇し、これを撃ち走らせた。咸関、車踰*9の二嶺を越え幾度も殲滅した。遺棄された武器や鎧*10は、数え切れないほどだった。
*8 咸鏡南道徳山郡。今の咸興市の一部
*9 咸関、車踰。咸鏡北道にある嶺。この一帯は東女真の居住地。
*10 韓国語訳では旗(軍器)になっていた。
この日、太祖は、答相谷に退いて陣取った。納哈出は怒り、德山洞に陣を移すと太祖は夜に乗じて、襲撃し、これを撃ち破った。納哈出が韃靼洞*11に戻ると太祖は、舍音洞に陣取った。太祖は斥候を車踰嶺に遣わし、賊は沢山の衆を木を切らせるために山を登らせていた。斥候が帰って告げると太祖は言う。「兵法とは、先手をとって相手の弱点を攻めることだ」
*11 韃靼洞、舍音洞 詳細不明
そこで命令をくだすと、大抵の兵を切り捨て、自ら精鋭六百騎をもってこれを追い続けた。嶺や嶺下をこえたところで賊は反撃しようとした。太祖は、十餘騎を率い賊にあたり、その裨將一人を射殺した。
この時点になって、太祖は、諸将に負け続けた理由を問うと諸将は言った。
「毎回戦の最中に賊将の一人が、あかい旄尾を飾った鉄甲を身につけ、槊*12をふるって突進してくるので、兵が恐れて敵から逃げていくのです」
太祖は、その人を物色し、単騎で攻撃をしかけて敗走したようにみせかけると、その人は、すぐさま槊をむけて前に向かってきた。太祖は、身を翻し馬にへばりついたので、賊将は槊を振るったが狙いを外した。太祖は、すぐさま鞍にまたがると射殺した。それをみた賊は狼狽して敗走した。太祖は、賊の駐屯地まで追撃したが、日が暮れたので帰った。納哈出の妻は納哈出に言った。「公が国中をうろうろしている間に、この将軍の様なものが現れたらどうするのですか?戦を避けて、すぐ帰ってくるべきです」
しかし納哈出は従わなかった。
*12 槊は長い柄のほこ。馬上槍を差す場合もある。
その後、数日、太祖は咸關嶺を越え、真っ直ぐ韃靼洞に向かった。
納哈出はまた、向かい合って陣をひき十余騎を率いて人の前にでた。太祖もまた十余騎を率い陣の前に出て相対した。納哈出は嘘をついて「わたしの出陣は、本来、沙劉、關先生、潘誠等などを追って来たもので国境を侵犯するためでない。今、我が軍は負けをかさね、万余の兵を失い、裨將数人がなくなったので、その勢いは窮蹙している。戦を辞めることを願う。申し出を受けるならばそれに従おう」と言った。
その時、賊兵の勢いは、まだまだ盛んで、太祖は戦を辞めるように言ってくるのは騙しだと気づき、納哈出の傍らにたっているの一人の将を太祖は射ると、すぐにたおれた*13。また射納哈の馬を射ると斃れ、馬を乗り換えると、これも斃した。それから長く大きな戦になって、互いの雌雄を決めた。太祖が、納哈出を追い詰めると納哈出は急に言った。「李万戸だ。二人の将は必ず組んで迫れ!」
そして馬を回したので、また太祖はその馬を射て、これも斃した。旗下の兵が馬を降りて、馬を与えて納哈出を助けたので取り逃がした。日が暮れたので、太祖は旗下の軍を下がらせ、自らしんがりを務めた。嶺の道は幾層にも曲がりくねっていたが、宦官の李波羅實*14が一番下にいて急に叫んだ。
「助けて!助けて!」*15
*13 原文は、應弦而倒 弦が戻ると倒れた から すぐ射斃した(定型文)
*14 多分モンゴル名
*15 原文は、「令公救人!令公救人!」令公は、中書令の尊称。ここでは単に「助けて!」の意味だろう
太祖が上から見下ろすと、銀色の鎧を着た賊将が李波羅實を追っていて、槊を振りおろそうとしていた。太祖は馬を回し、二将を射て、さらに連射し二十余人を全部斃した。それから更に馬を回し、馬を走らせ兵を射ると、太祖を追っていた賊一人が槊をあげて刺そうしてきたので、太祖は、咄嗟に横に少し身に捻ってかわすと、その腋を下から射て、即座に馬に戻った。また、賊一人が進んできて太祖を射ようとしたので太祖は即座に馬の上に起ち矢を股下に通した。それから太祖は、馬を躍らせながら射ると、その膝にあたった。また川の中で賊将一人に出会ったが、その将の甲冑は、頭を護り、顔を覆っていた。さらに顎を覆い、口の開け閉めが出来る様にしており、その面の護りもかたく、射るべき隙が無かった。そこで太祖は、馬を射ると、馬は興奮して飛び跳ねたので、賊はたづなを引こうとし、力を出すため口を開いたので、太祖はその口の中を射た。
※ ついに曲芸を始めた。
このように三人を斃すと、それをみた賊は大慌てで逃げた。太祖は、鉄騎で踏みにじり、賊は互いに踏みつけ逢ったので、多数を殺したり捕獲したりした。
定州の駐屯地に戻り、そこに数日留まり兵卒を休ませた。先にある要衝に伏兵をおき、軍を三分し、左軍は城串*16に向かわせ、右軍は都連浦*17に向かわせ、自らは中軍を率いて松豆*18などにあたった。
*16 城串……渤海の南京のあった咸鏡南道咸興市付近か
*17 都連浦……咸鏡南道定平郡都連浦か?
*18 松豆……不詳。中軍とあるため、城串と都連浦の中間あたりか?
納哈出と咸興平で遭遇したので、太祖は勇気をふりしぼり単騎で突進し賊を試した。賊の勇将三人が、眼の前に馬を並ばせたので太祖は敗走を偽り、その轡をひいて馬に策を弄した。その馬の様子に促されて三人の将は争ってこれを追い詰めた。(そこに)太祖が突然飛び出してきたので三将の馬は怒り、引いても止まらなかった。前に直進したところを太祖が後ろから射て、即座にすべて倒した。転戦し要衝に賊を引きこむと左右の伏兵が発動し、合わせて攻撃し賊を大いに破った。納哈出は敵にすべきではないと知り、敗残兵をまとめると遁走した。銀牌、銅印などの献上物やそのほか鹵獲したものは、数え切れないほどであった。
これにより東北の辺境はことごとく平定された。後に納哈出は人を使わし、通好し馬を王に献じた。そして、鞞皷を一つ、良馬一匹を太祖に贈り、礼意をとどけたのである。恐らく 心服したのだろう。納哈出の妹は在軍中に太祖の神武を見て心を悦ばせて言った。「この人は、天下無双だ」
桓祖がかつて元朝に入朝したとき、納哈出に出会い太祖の才を称えた。そして、納哈出が負けて帰ってくる時に言った。
「李子春は、以前、我が子に才能があると言ってたが、これは嘘ではなかったのか」
大明の洪武九(1376)年丙辰の冬に、辛禑*19が、開城尹の黃淑卿を使節として使わせたとき使わしたとき、納哈出は言った。「私は、本当に高麗と戦すべきでなかった。伯顔帖木兒王*20は、年少の李将軍を使わし私を撃ったので、ほうほうの体で逃げた。李将軍は、元気だろうか?年少なのに用兵は神のごとくであった。真に天才だ。大事において貴方の国を任せれられるだろう」
*19 32代高麗王 王禑の事。廃王。李朝では、恭愍王ではなく辛旽の子とされたため、高麗王の姓(王)ではなく、辛禑と記している。
*20 高麗の恭愍王の事。
※ この戦も含め東北面の戦は、ほぼ咸鏡南道のみで行われており、この地の支配権を李成桂を含めた複数の女真勢力が争っていたのだと思われる。
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