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ヨーロッパとアフリカのイエズス会の奴隷


(近代奴隷制に関して)
It is no coincidence that a Jesuit provided this new frame. As an order with global pretensions and an extensive network of correspondents, it is quite possible that the Society of Jesus was the only early modern institution capable of systematically documenting the transatlantic slave trade. Jesuit practice combined the Christian and economic motives for engaging with chattel slavery: Jesuits not only served as missionaries along the path of the capture, commodification and sale of African slaves, but also the order itself owned slaves for both personal and plantation labor (Olsen 16)
イエズス会がこの新しいフレームを提供したのは偶然ではない。世界的な権威と広範な通信員ネットワークを持つ教団として、イエズス会が大西洋横断奴隷貿易を体系的に記録できる唯一の近世機関であった可能性は十分にある。イエズス会の実践は、キリスト教的動機と経済的動機を組み合わせて動産奴隷制に関与した: イエズス会は、アフリカ人奴隷の捕獲、商品化、売買の過程で宣教師としての役割を果たしただけでなく、教団自体も個人的労働とプランテーション労働の両方のために奴隷を所有していた(Olsen 16)。

Ivonne del Valle, Anna More, and Rachel O’Toole. Nashville "Jesuit Networks and the Transatlantic Slave Trade: Alonso de Sandoval’s Naturaleza, policía sagrada y profana (1627)"

ヨーロッパ ー 全ての始まり

 イエズス会は設立時からアメリカで奴隷解放令が出るまで奴隷を所有し続けた組織である。アメリカの奴隷解放令でイエズス会が奴隷所有をしなくなったのは成り行きに過ぎない。イエズス会は18世紀後半にポルトガルとスペインから追放されたためそれまで所有していた1万を越える奴隷をすべて失っていただけであり、最後に残っていたプランテーションがアメリカだったに過ぎない。

In the 16th, 17th and 18th centuries, the Society of Jesus (Jesuits) and the Catholic Church were among the largest slaveholding institutions in America.
16世紀、17世紀、18世紀において、イエズス会とカトリック教会は、アメリカ最大の奴隷保有団体のひとつであった。

Descendants Truth & Reconciliation Foundation
https://www.descendants.org/who-we-are/history

ちなみにDescendants Truth and Reconciliation Foundationとは

The 2016 discovery of the sale of 272 men, women and children enslaved by Jesuits led to the creation of the Descendants Truth & Reconciliation Foundation. A partnership between the Descendants of the enslaved and the present-day successors of the Jesuit enslavers. The Foundation in partnership with the GU272 Descendants Association has a goal of One Billion dollars with key objectives to support the educational aspirations of present and future Descendants; to invest in the aforementioned core programming plans.
2016年にイエズス会によって奴隷にされた 272 人の男性、女性、子供が売買されたことが発覚し、 Descendants Truth & Reconciliation Foundation.が設立された。これは、奴隷にされた人々の子孫とイエズス会の奴隷所有者の現在の後継者とのパートナーシップである。財団は GU272 子孫協会と提携し、現在および将来の子孫の教育への熱意を支援し、前述のコア プログラム計画に投資することを主な目的として、10 億ドルの目標を掲げている 

https://www.prnewswire.com/news-releases/descendants-truth--reconciliation-foundation-announces-scholarship-applications-open-for-descendants-of-jesuit-slaveholding-302037562.html

 どこかの国のビジネスモデルを真似たにおいがする。

 ちなみにイエズス会はヨーロッパにおいても奴隷を所有していた。もっとも当時のポルトガルで奴隷所有は当たり前なので別段おかしくない。奴隷制がおかしいと言う考えがおかしいとされた時代に、世俗よりの判断をしていたイエズス会が奴隷を禁止していたと解釈する方がむしろおかしい。

It would not be surprising to find enslaved people ministered to by Jesuits and working at Jesuit colleges and schools in southern Europe from the earliest days of the Society.

イエズス会の初期から、奴隷にされた人々がイエズス会によって奉仕され、南ヨーロッパのイエズス会大学や学校で働いていたとしても驚くことではない。

Yet at the same time, Jesuits came to justify and participate in the Atlantic slave trade that carried ten million captive Africans to the Americas, and they worked thousands of African and African-descended enslaved people on their own haciendas and plantation
(南米の先住民の奴隷化に反対する一方)
しかし同時に、イエズス会は、捕虜となった1000万人のアフリカ人をアメリカ大陸に運んだ大西洋奴隷貿易を正当化し、それに参加するようになり、何千人ものアフリカ人やアフリカ人の血を引く奴隷化された人々を自分たちのハチエンダやプランテーションで働かせた

Adam Rothman "The Jesuits and Slavery"

 こういうプロパガンダのおかげでイエズス会は奴隷にして良いか駄目かを人種で決めていたと言う話になり、現代アメリカにおいてイエズス会が先住民の奴隷化に反対した件は良い話ではなく黒人に対する人種差別の事例になりWokeの金づるにされてしまったのだろう。

 この論文はイエズス会系のジョージタウン大の歴史学教授のものになる。一連の顛末は日本やイギリスのイエズス会擁護者がイエズス会に噛みついたと言う面白い構図になっている。

Simão Rodrigues (1510–79), Francis Xavier (1506–52), Matteo Ricci (1552–1610), and many other Jesuits relied on indigenous and African enslaved people in Portugal, India, Japan, and China.

シモン・ロドリゲス(1510-79年)、フランシスコ・ザビエル(1506-52年)、マテオ・リッチ(1552-1610年)やその他多くのイエズス会士が、ポルトガル、インド、日本や中国で先住民やアフリカの奴隷に頼っていた。

Kelly L. Schmidt "A National Legacy of Enslavement: An Overview of the Work of the Slavery, History, Memory, and Reconciliation Project" by Journal of Jesuit Studies

 ここにはフランシスコ・ザビエルやマテオ・リッチが奴隷をつれていたと書いている。マテオ・リッチが黒人奴隷を有していたのはほぼ確定で、ザビエルは二人の奴隷を有して日本に来ているがそれが黒人奴隷かまでは分からない。一人はチーナと言う姓からアジア系、恐らく中国人の可能性が高く、もう一人はマラバールと言う姓からインド系の可能性が高い。

The recruitment of slaves to serve at the Society of Jesus in Japan began in the first years of the Jesuits’ arrival. For example, the Jesuit Francis Xavier, as he was preparing to travel to Japan, wrote from the port of Malacca, between and 22 June 1549, saying that he was accompanied by the priest Cosme de Torres, Brother Juan Fernandez, the Japanese Paulo de Santa Fé, and his brother Joanne, one of his Japanese servants named António, and two slaves: Manuel China and Amador Malabar.

日本のイエズス会で奉仕する奴隷の募集は、イエズス会が日本に到着した最初の年に始まった。例えば、イエズス会のフランシスコ・ザビエルは、日本への渡航を準備していた1549年6月22日の間に、マラッカ港から手紙を書き、司祭コスメ・デ・トーレス、修道士フアン・フェルナンデス、日本人のパウロ・デ・サンタ・フェとその弟ジョアン、日本人の使用人の一人アントニオ、そして2人の奴隷が同行していると書いている: マヌエル・チーナとアマドール・マラバールである。

Lúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan"

 フランシスコ・ザビエルは、イエズス会のコメス・デ・トレース、ファン・フェルナンデスと3人の日本人と2人の奴隷を伴って来日した。イエズス会がその最初期から奴隷を使役していた証拠の一つである(この部分、日本語版で訳されていないのだよな作為しか感じない)

 またフランシスコ・ザビエルは以下の様な記録を書き残している。

Many other instances could be given to show how the Portuguese sometimes used force, or the threat of force, at certain times and places in order to forward their conversion policy in the East, but one more example will suffice. Padre Alexandre Valignano, the great reorganiser of the Jesuit missions in Asia during the last quarter of the sixteenth century, wrote that the saintly Xavier:
realised with his spirituality and prudence how incapable and primitive is the nature of this people in the things of God, and that reasoning does not make such an impression on them as does force. Therefore he considered that it would be very difficult to form any Christian community among the Niggers,! and much more difficult to preserve it, unless it was under the rule of the Portuguese, or in a region whither their power could be extended, as is the case with the sea coast, where the fleets of His Highness can cruise up and down, dealing out favours and punishments according to what the people there deserve.
ポルトガルが東方における改宗政策を推進するために、時と場所によっては武力や武力による威嚇を用いることがあったことを示すには、他にも多くの例を挙げることができるが、もう一つ例を挙げれば十分だろう。アレクサンドル・ヴァリニャーノ神父は、16世紀の最後の四半世紀の間、アジアにおけるイエズス会宣教の偉大な再編成者であったが、聖人ザビエルはこう書いている:

聖人ザビエルは、その霊性と思慮深さによって、この民族が神のことに関していかに無力で原始的な性質を持っているか、また、理性は力ほどには彼らに感銘を与えないことを悟った。それゆえザビエルは、黒人の間にキリスト教の共同体を形成することは非常に困難であり、それを維持することは、ポルトガル人の支配下に置かれるか、あるいはポルトガル人の権力を拡大できる地域でない限り、さらに困難であると考えた。

Charles R. Boxer "The Portuguese Seaborne Empire, 1415-1825"

 このようなザビエルやヴァリニャーノを初めとしたイエズス会の黒人蔑視の考えは近代奴隷制の正統化に貢献したと考えられる。

 中世に於いて、西ヨーロッパに於ける奴隷制は衰退し、北欧やアイルランドでは11世紀頃に法王の命令で奴隷制が禁止されているが、中世末期、ドミニコ会のトマス・アクィナスは奴隷制を神学的に正しいと定義している。トマス・アクィナスの出身地、シチリア王国では奴隷制はなくなっていなかった。イスラムと東ローマの両方の気風を持つシチリアには奴隷だけではなく宦官も居たという。トマス・アクィナスの時代はイスラムの気風が未だ強かった。さらに北イタリアの港湾都市国家が奴隷貿易を行っていたため神学的な折り合いを付ける必要があったのでは無いかと思われる。そのため近世ヨーロッパに於いてキリスト教徒が奴隷所有することは必ずしも悪い行いではなかった。奴隷制に関してその人文知により中世ヨーロッパから人権意識が逆方向に向かっただけである。この一件は人文知が道具に過ぎず、文系の教養が有害になり得ることを教えてくれる。ただし近世から近代のイエズス会が、奴隷を使役し奴隷貿易に参加していた理由を考える場合、キリスト教神学、アリストテレス、ローマ法などの知見が必要になろう。

 イエズス会が成立したときポルトガルは既にアフリカで奴隷狩りを行っていた。イエズス会士はそれを咎めるどころか全力で乗っかる事にした。ヴァチカンの呼びかけも無視したのである。

The Society’s ownership of human beings was controversial from its first acquisition of enslaved Africans in Angola and Brazil in the sixteenth century.
Several superiors general commanded the Portuguese province to desist but priests in the colonies ignored them. The ubiquity of slavery in the colonies, they argued, and the lack of an alternative labor source required the ownership of enslaved Africans. By 1600, Rome gave up issuing remonstrances, making the slaveholding Society a fait accompli. A parallel process of negotiation led to the first Jesuit hacienda in Mexico (Santa Lucía, 1567) and sugar plantation
in Brazil (Mamo, 1601). The order implicated itself further with Atlantic slavery during the seventeenth century. Jesuit theologians Luis de Molina (1535–1600) and Francisco Suárez (1548–1617) penned justifications of slavery, while those who questioned the practice were either reassigned or, in the case of Alonso de Sandoval (1576–1652), discouraged in their investigations.

 16世紀にアンゴラとブラジルで奴隷化されたアフリカ人を初めて獲得して以来、イエズス会の人間の所有は議論を呼んでいた。

 複数の総長がポルトガルの修道院に奴隷制をやめるよう命じたが、植民地の司祭たちはそれを無視した。植民地では奴隷制が至る所で行われており、代わりの労働力がないために奴隷化されたアフリカ人を所有する必要があると彼らは主張した。1600 年までにローマは抗議を断念し、奴隷を所有するイエズス会は既成事実となった。並行して行われた交渉の結果、メキシコで最初のイエズス会農場 (サンタルシア、1567 年) が設立され、ブラジルでは砂糖農園 (マモ、1601 年) が設立された。17 世紀には、イエズス会は大西洋の奴隷制にさらに関与するようになった。イエズス会の神学者ルイス・デ・モリーナ(1535年 - 1600年)とフランシスコ・スアレス(1548年 - 1617年)は奴隷制を正当化する文書を著したが、奴隷制に疑問を呈した者は配置転換されたか、アロンソ・デ・サンドバル(1576年 - 1652年)の場合のように調査を中止させられた。

"Andrew Dial"
Antoine Lavalette, Slave Murderer: A Forgotten Scandal of the French West Indies

1760年にイエズス会が所有していたとされる奴隷の数(出典同上)

  • 管区 数

  • ブラジル 5,686

  • ペルー 5,224

  • パラグアイ 3,164

  • フランス領 1,816以上 ―― 仏領ギニア 509(推測では1500)、サントドミンゴ 380、ルイジアナ 141、グアドループ 312、マルティニーク  200+、カスカスキア 68、ニューフランス 約12 の合計

  • キト(エクアドル) 1,364

  • チリ 1,121

  • ゴア(モザンビーク島のみ) 810

  • マラニャン(ブラジル北部) 736

  • メキシコ (キューバのみ) 406

  • ニューグレナダ(コロンビア) 358

  • イギリス領(メリーランド農場のみ) 192

合計 20,877以上

西アフリカ アンゴラ ー イエズス会奴隷貿易の拠点

 西アフリカの奴隷貿易は古代エジプトまで遡れるらしい。7世紀以降イスラム商人が入りこんできた。ポルトガル人がモーリタニアで奴隷狩りを始めるのは1444年になる。しかしその規模は桁違いだった。それから4世紀の間、根こそぎ奴隷として掠っていたのである。当初ポルトガルは、モーリタニア沖のアルギン砦を奴隷貿易の拠点としていたが、徐々に南下していく。セネガル沖のカーボベルデとアンゴラのルアンダが奴隷貿易の中心になったようである(サントメが中心地だった時代もあるがルアンダに移動した)。アフリカにおけるイエズス会の宣教地域は5つに絞られた様で北アフリカのエジプト、東アフリカのキリスト教国であるエチオピア、ザンベジ川流域(モーリタニア)、西アフリカのアンゴラとカーボベルデのみになる。カーボベルデは、無人島であるがプランテーションに失敗してから中継貿易港として存続していた様だ。そして、しばしば海賊の襲撃を受けていたようだ。

 ルアンダはアンゴラ・コンゴ地域から調達した奴隷を輸出するための港として栄えたポルトガルの都市だ。ここではイエズス会だけではなくフランシスコ会やドミニコ会なども奴隷貿易に従事していたらしい。この地域では15世紀にはポルトガル商人による大規模奴隷貿易が始まっている。そのころポルトガル人は喜望峰にすら辿り着いていない。イエズス会も存在していない。そのため奴隷貿易に参加していた宣教師はドミニコ会やフランシスコ会だった。コロンブスは西アフリカに於けるポルトガル人の黒人奴隷貿易を見て奴隷貿易が儲かることを知ったとされている。

While the Portuguese were present in Africa, India and East Asia, the trade in African slaves attracted Portugal. Non-Europeans, especially the Africans, were considered as pagans and savages. Therefore, the Portuguese tried to benefit from the peoples in lands they came across as they proceeded South. The country found legal justification to enslave Africans through Papal rulings. In the bull Dum Diversas of 1452, Pope Nicholas V gave to the Portuguese King D. Afonso V the right to conquer pagans, enslave them and take their lands and goods. In 1455, the bull Romanus Pontifex extended Dum Diversas, recognizing exclusive rights to Portugal in the African expansion.
1452年ローマ法王ニコラウス5世は、ポルトガル王アルフォンソ5世に、アフリカの異教徒を征服し、奴隷にする許可をあたえた。

https://www.projectmanifest.eu/portugal-and-the-invention-of-the-atlantic-trade-of-enslaved-people-15-16th-centuries/

 アンゴラのルアンダにおいて、イエズス会が奴隷貿易に従事していた件についてはブラジルのイエズス会の件で述べる。ルアンダから奴隷船に乗り込んでいたのはアンゴラのイエズス会ではなくブラジルのイエズス会から派遣されてきた修道士だった。

  しかしアンゴラのイエズス会も負けていない。彼らは以下の様に主張していた。黒人には武力を用いてキリスト教に強制改宗べきであると。

As another pioneer Jesuit missionary wrote from Angola twelve yeats later: *Almost everybody is convinced that the conversion of these barbarians is not to be achieved through love, but only after they have been subdued by force of arms and become vassals of Our Lord the King.’
12年後(1565年の12年後だと思われるので1577年)、別の先駆的なイエズス会宣教師がアンゴラから次のように書いている。「ほとんどすべての人が、これらの野蛮人の改宗は愛によって達成されるのではなく、武力によって征服され、王である我らの主の家臣となった後にのみ達成されると確信しています。」

Charles R. Boxer "The Portuguese Seaborne Empire, 1415-1825"

 しかし、アンゴラ・コンゴ地域のアフリカ人がこのような態度を取るようになったのは概ねそれ以前のポルトガル商人とドミニコ会とフランシスコ会の宣教師の所為だろう。

 イエズス会の記録に1592年にルアンダで保有していた家庭内奴隷の数が152人と言う記録あるようだ(Arlindo Manuel CALDEIRA "Luanda in the 17th Century: Diversity and Cultural Interaction in the Process of Forming an Afro-Atlantic City")。うち62人が結婚しており解放奴隷だったようだ。もっとも近代奴隷制において奴隷解放と結婚の有無は無関係なので慣用的な言い回しなのか本当に解放奴隷かは分からない。ルアンダより奥に入ると1000人単位の記述が見つかる。

A cursory examination of the Jesuits’ properties in the interior of Angola prior to their expulsion gives us an impression of the potential scale of slavery on religious orders’ agricultural estates in the interior. The Jesuits owned 1080 enslaved people of whom 750 lived on arimos in the hinterlands of Luanda. The largest arimo held 294 captives while the smallest one only had one enslaved person.

アンゴラ追放前にアンゴラ内陸部にあったイエズス会の財産をざっと調べてみると、内陸部の修道会の農場における奴隷制度の規模が潜在的に大きいことがわかる。イエズス会は1080人の奴隷を所有しており、そのうち750人はルアンダの後背地のアリモ(農場)に住んでいた。最大のアリモには294人の奴隷がいたが、最小のアリモには奴隷が1人しかいなかった。

"Philipp Hofmann" Christian Missionaries, Slavery, and the Slave Trade

東アフリカ ー モザンビークの大農場

 東アフリカは、もっとも実情を調べるのが難しい地域になる。研究に必要な言語はポルトガル語、英語、アラビア語、スワヒリ語である。西洋史とキリスト教以外にアラブ史とイスラム教の知見が必要になる。つまり極めてハードルが高い。ゆえに妄想が書き流されているのだろう。

 インド太平洋の航海基地としてポルトガルは1507年モザンビーク島(モザンビークの対岸にある小さな島)を占有し、ここを要塞化して基地として利用していた。モザンビークにおいては反キリスト教の先住民の抵抗が大きく、ポルトガル人は当初内陸に入りこめなかったからである。したがって、モザンビーク島はインド太平洋地域の中継基地として使われて居たことになる。ちなみにイエズス会は当初はエチオピアを目指したらしいがイスラム勢力にはばまれて辿り漬けなかったらしい。

 マダガスカル島には既にアラブ商人が入りこんでおり、タンザニアの対岸にあるザンジバルにも拠点を築いていた。そして西アフリカの奴隷貿易の拠点はザンジバルの方になる。アラブ商人は10世紀頃にザンジバルに交易拠点を作り、ここで黒人奴隷を調達し奴隷貿易を行っていた。そしてザンジバルの奴隷貿易は19世紀まで続くのである。

 タンザニアからマダガスカル一帯では、ポルトガルが来る前からイスラム教徒が交易していたのである。

 ザンジバルは1505年にポルトガルが占領したが、イスラム勢力の強いこの地域でポルトガルは占領を維持出来なかった。反乱が相次ぎポルトガル勢力は1631年から1698年の間に叩きだされる。代わりに中東のオマーン帝国が支援する勢力が伸長しオマーン領に組み込まれる。オマーンは1832年にザンジバルに首都を移転している。しかし1890年にザンジバルはイギリスに占領されたためザンジバルとその対岸はタンザニアして1964年にイギリス領として独立することになる。そのためポルトガル人が活動出来たのは16世紀から17世紀間に過ぎない。その存在感も小さかった。

 モザンビーク島は、ポルトガルが維持することに成功していた。そのためモザンビークはポルトガルから独立することになる。ポルトガル人は金鉱脈を目指しモザンビーク島を拠点として内陸に侵略していくことになる。さらにポルトガル商人の退潮によりマダガスカル島から内陸に本拠が移動していく。したがってマダガスカル島の方が資料が手には入りやすいのでマダガスカル島を研究した論文が多い。しかし実際に調べないといけないのはザンジバルの方であろう。

 この地域出身の奴隷がカフル(Cafre)とされている。カフルは、アラビア語で不信心者を指すكافرから来ている。アラブ人がこの地域で奴隷を調達していたことから来ており、概ねタンザニアからモザンビーク近辺出身の非イスラム教徒のバントゥー系奴隷を指している。ただし、カフルのみで奴隷を意味することがあるため文脈を読む必要がある。

"The Portuguese live very great in India, both as to their tables, clothing, and number of Cafres, or Slaves, to serve them ; having some of these to carry them in Palanchines on their Shoulders and other great Umbrelloes of Palm-Tree Leaves."
「ポルトガル人はインドで非常に裕福な暮らしをしており、食卓、衣服、そして彼らに仕えるカフル(奴隷)の数も豊富である。カフルの中には肩に担ぐ駕籠とヤシの葉で作った大きな傘でポルトガル人を運ぶ者もいる。」

ANN M. PESCATELLO "THE AFRICAN PRESENCE IN PORTUGUESE INDIA"

S. N. Sen, ed., Indian Travels of Careri and Thevenot , (Delhi, National Archives of India, 1949), Chapter XL VIII, p. 116. Jean Thevenot (1633 - 1667),
was a Frenchman and a student of geography and ethnology who travelled in the western areas of India
からの引用

THE great Jesuit Padre António Vieira (1608-1697), though a patriotic Portuguese if ever there was one (‘et Dieu sait si Pon est patriote au Portugal as a Belgian writer on Vieira observed recently), in moments of exasperation termed his compatriots os Cafres da Europa, ‘the Kaffirs of Europe’.

Charles R. Boxer "The Portuguese Seaborne Empire, 1415-1825"

 イエズス会士はカフルを侮蔑的な意味合いで使うことが多い。

The terms for various kinds of sub-jection in the Portuguese sources include words like negros, cafres (from the Arabic kafir: infidel, pagan) and escravos (slaves), all of which often refers to clients as well as slaves.

ポルトガル語の資料にある様々な服従関係を表す用語には、negros、cafres(アラビア語のkafir(異教徒、異教徒)に由来)、escravos(奴隷)などがあり、これらはすべて奴隷だけでなく顧客を指すことが多い。

注:
For instance, an account states that “slaves” were offered by the Sofala king to the Portuguese to help them to build a fort. J. Augur, “Conquista de las Indias de Persia & Arabia…” (Salamanca, 1512), extract in DPMAC, 3:612. But J. de Barros indicates that they were “Cafres,” apparently free and remu-nerated. In Da Ásia (Lisbon, 1552), 1-10-2, f.120v.

たとえば、ソファラ王がポルトガル人に砦の建設を手伝わせるために「奴隷」を提供したという記録がある。J. オーガー、「ペルシアとアラビアのインド征服…」(サラマンカ、1512 年)、DPMAC 3:612 の抜粋。一方、J. デバロスは、彼らは「カフル」であり、自由で報酬を受け取っていたと示唆している。Da Ásia(リスボン、1552 年)、1-10-2、f.120v。

Thomas Vernet "Slave trade and slavery on the swahili coast"

 Cafreが奴隷を指す場合とカフル人を差す場合があるため解釈が割れるケースがある。

 東アフリカでは従来のイスラム圏の奴隷貿易網をポルトガル商人が乗っかる形で奴隷貿易が行わていた。交易網はスワヒリにより整備されており、ポルトガルはモザンビーク周辺で収奪行為をしていたもの基本的には片隅に居ただけである。そのため詳細はスワヒリの知見が無いと実態は分からないだろう。ポルトガル語が理解できるぐらいではこの地域について理解できないのである。さらに記録が増えるのが17世紀からのため16世紀に関しては実態もよくわかっていない。

 筆者もスワヒリに関してよく知らないので奴隷貿易については棚上げするしかない。東アフリカにおけるイエズス会の活動のみ調べるしかなさそうである。するとモザンビーク(ザンベジ川流域を差すらしい)の農場で少なくとも5100人の奴隷を所有していたことが判明した。

However, while the Jesuits had seventeen prazos, the Dominicans had at most seven and they were all small. So they could not rely on them to the same extent, and when royal support failed them they were forced to become traders, with the consequences we have seen. The Jesuits, on the other hand, had a sufficiency.
Whilst the Jesuits were not pre-eminent in their holding of land, they were in the number of slaves possessed; no less than 5,100.

しかしながら、イエズス会には17のプラゾ(ポルトガル領アフリカにおける大規模借地。王室から入植者に貸し出されていた)があったのに対し、ドミニコ会にはせいぜい7つしかなく、しかもどれも小さかった。そのため、ドミニコ会はプラゾに頼ることができず、王室の援助が得られなくなると、貿易商にならざるを得なくなった。一方、イエズス会には十分な資金があった。
イエズス会は土地の所有では抜きん出ていなかったが、所有する奴隷の数では5,100人を下らなかった。

W. F. Rea "Agony on the Zambezi THE FIRST CHRISTIAN MISSION TO SOUTHERN AFRICA AND ITS FAILURE 1580-1759"

 この論文によればイエズス会はドナ・イグネス・デ・アルメイダ・カステロ・ブランコに次いでモザンビーク第二位の奴隷所有者だったようである。

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