朝鮮王朝実録 総序(18)太祖 李成桂14
禑王を退位させて、子の昌が即位し退位させられる直前まで。禑王は明に反逆した首謀者として退位させられたのであるが昌王も廃位されるのである。
禑王は、曺敏修を左侍中にし、太祖を右侍中にした。典校副令の尹紹宗は、 鄭地をたより太祖にまみえ《霍光傳》*1をもって献上した。趙仁沃に命じこれを読み聞かせるように言った。趙仁沃は再び王氏*2を王に立てようとする相談をのべつくした。
*1 霍光は前漢の大司馬大将軍。霍去病の弟。武帝の信厚く、武帝以後の政治を任され、昭帝・宣帝を補佐する。昭帝がなくなったあと、昌邑王が帝位についたが行いが酷いのでこれを廃し宣帝を帝位につけた。霍光伝は漢書の霍光金日磾伝のこと。要するに禑王の廃位の相談に来たと言うこと。
*2 今の王は王氏ではなく辛氏に乗っ取られていると言う設定。
※ 恭愍王十二年に左が右より上位に来るよう改めているため曺敏修が第一功、李成桂が第二功なのである。元は右上位、明は左上位なので、元から明に制度を変更したのである。
夜、禑王は宦官八十余人と鎧を着て太祖と曺敏修、邊安烈の家に向かった。しかし、全員、門外の軍に駐屯して家にいなかったので殺害できずに帰った。
禑王は江華に逃げた。太祖は、王氏の血を引くもの王に擁立しようとしたが、曺敏修は禑王の舅の李琳と親族関係あるので禑の子の昌を立てようとして李穡に聞き、話し合って昌を王に立てた。
※ このクーデターは、禑王を廃位するのが目的だった
もともと神懿王后*3は、抱川の滓甓洞の荘園に居た。康妃*4は抱川の鐵峴の荘園に居た。殿下*5は典理正郞になり、みやこに居て、変を聞き、私邸に入らず、すぐさま馬をはしらせ抱川に向かうと、世話人や奴隷は、すでに全員逃げ去っていた。
殿下は王后と妃に同行し、東北面に向かうと、馬に乗るとき、馬を下りるとき、すべて殿下は親しく手助けし、腰間にみずから、火を通した料理を用意してつくした。慶愼公主、慶善公主、撫安君、昭悼君は全員幼かったので、これに従った。殿下は自ら、これを抱いて馬に乗り、道の険しい所、水の深い所では、殿下は自ら馬を引いた。道を行くのがとても難しく、糧食がつきようとしていたので、食べ物を道ばたの民家から入手した。鐵原関を過ぎ、官吏が捕らえようとしていることを伝え聞くと、夜に潜んで進み、人家に入ろうとはせず、野原に野宿した。伊川から韓忠家が近里の壮丁百四人を集め、伍*6に分けて変を待ちに行った。
「崔瑩は物事に通じている人ではないから、私に絶対追いつけないだろう。例え来たとしても、わたしは恐れていないだろう」
七日留まり、事が定まったのを聞き戻った。このとき、崔瑩は征伐に赴いた諸将妻子を捕らえるように命令をくだしていたが、やがて変事が迫り行為を果たすことができなかった。
*3 李成桂の第一夫人、太宗らの母親
*4 李成桂の第二夫人
*5 李氏朝鮮、三代王太宗のこと
*6 中国に於ける軍隊の最少単位。一般的に五人一組なので伍。
※ 少し遡った部分。太宗の正統化の為のプロパガンダ。
昌王は太祖を東北面朔方、江陵道都統使にし、忠勤亮節宣威同德安社功臣の号を与えた。
太祖は病を理由に辞職しようとしたが許されなかった。
昌王の教を略して記すと
守門下侍中の李成桂は、文武の智により、将軍と宰相の才がある、大臣に参入し、将と軍兵を出し、己亥より兵を用いてから、三十年間、大小いくども戦いで、これに必ず勝利していきた。
この人の大きな戦果は、
辛丑の年、関賊*7がみやこを犯し、国王が逃げたとき、卿は大相をたすけ、凶賊を倒して勝ち、みやこを取り戻したこと、
胡人納哈出が我が国の東北の辺境を侵犯し、諸将が敗走し、勝ちに乗じて、たちまち高州の境まで来た。卿は、鎧を来て昼夜兼行し、国境の外に追い出したこと、
癸卯の年、庶子德興君が挙兵し、西の辺境に入ったとき、卿は軽騎を率いて、その軍隊をくじいた。
丁巳の年、倭奴*8が海州を寇したとき、諸将が壊滅し逃亡したとき、卿は一人、率先して兵卒を率いて、これをいくども打ち払ったこと、
歲庚の年、倭奴が鎭浦の下岸から、楊広道、慶尚道、全羅道の境を横行し、郡邑が焼け落ち、男女が殺され掠われ、三道が騷然した。元帥の裵彦、朴修敬らは負けて殺された。卿は、万死不顧の計を出し、その旗下を率い、引月の駅で戦い皆殺しにし、残さず捕獲し、民は頼りにして平安をもたらしたこと、
その軍の行動は、紀律を順守して動き、わずかな(軍規違反も)犯さず、民はその威をおそれ、民はその徳になついた、かつてこのような名称がいただろうか?卿の豊功偉烈は人の耳目から、光り輝くように出てくるのに、おごり高ぶることなく謙虚に身を引くので、国の人はますます厚く信頼している。
*7 紅巾賊のことだろう。
*8 ウェノムと読むが、現代風に訳すとチョッパリだろう。公文書に侮蔑語を書き連ねる国。
※ 昌王は数え九歲なので、教を書いたのは代筆だろう。
八月、昌王は、太祖を都総中外諸軍事に任じた。
十月、太祖に判尚瑞司事を兼任させた。
恭愍王が薨去してから、天子*9が執政大臣を召し出していたが、誰もが恐れて行こうとしなかった。門下侍中の李穡は昌王に朝貢させようとし、また王を監国にしたかったので、願い出て入朝した。昌王は、李穡と僉書密直の李崇仁を派遣し、京師*10に賀正*11して、王を監国にすることを願った。
太祖は李穡を褒めて言うには「この老人は意気が盛んだ」
李穡は太祖の威徳を日々盛んになるので内外が帰心し戻る前に変事が起きるのを恐れ一子を随行させることを願い太祖は殿下を書状官にした*12。
そして入朝すると、一人の官僚が逆から旅しているのに出会い、李穡に語るには「あなたの国の崔瑩は将精兵十萬ひきい、李成桂が容易く蠅を捕まえるように容易く執政している。あなたの国の民は、李成桂にこの上もない恩を受けている。どうやってこれに報うのだ」
京師につくと、天子はすぐ李穡の名を聞き、落ち着いたまま語った。
「おまえは、元で翰林に出仕していたのか。漢語を理解して答えよ」
李穡は漢語で答えた「親朝*13をお願いします」
天子は理解出来ずに「なんといっているのか?」
礼部官は、これを伝奏した。李穡は長い間、入朝出来ず話すのにとても苦労した。
天子は笑って言う「お前の漢語はまさしく納哈出に似ている」*14
(京師)から戻るとき渤海につくと、二つの客船と同行し、半洋山で大きな強く激しい風に遭い、二つの客船は両方沈没した。殿下の乗船した船は、まだ、いくらも救出できておらず人は皆、転覆に驚き恐れた。殿下は平然として落ち着いており、全てを助け終えて帰った。
李穡が返って人に語るには、
「今、この皇帝は主に無感心*15だった。 私は皇帝にこのことを毎回尋ねたが、皇帝はこの問いを返さなかった。皇帝の所で起きたことは全て私の意思ではない」
その時、論をそしって言うには「大聖人の度量を低俗な学者が知り論じられるだろうか?」
*9 明の皇帝の事。当時は洪武帝朱元璋
*10 京師は宗主国の都のこと、当時の首都は応天府(南京)
*11 この賀正は、正月に行われる臣下及び従属国の使節から受ける新年拝賀の儀式
*12 李成桂の息子を人質として連れて行ったと言うこと。殿下は、三代目の太宗のこと
*13 冊封してもらうことか?
*14 要するにモンゴル訛りと言っている。
*15 心無所主 ≒ 無関心
※この部分は廃立は朱元璋への忖度と読ませる文である。
恭讓王元(1389)年己巳。 (洪武二十二年)、この時、田制が大きく毀損しており、兼幷*16の家は、田地を奪い取られ、山に籠もり、野に絡み、日々苦痛が深くなり、民は互いに恨みつらんでいた。太祖と大司憲の趙浚は私田の改革を議論し、兼幷を防ぐことで、民業を厚くした、これにより内外は大喜び、民心はますますしたがった。
*16 高麗末の土地制度。この時代、相次ぐ戦乱により戸籍はデタラメで、人戸はバラバラになっていた。そのため王族、両班、仏寺、大土地所有者などが持つ私田に近隣の公田を勝手に併合していた。そのことを差すらしい。
この時、(高麗)宗室の永興君の王環が倭の捕虜になっていたのだが数十年ぶりに帰ってきた。国の人でこのことをとても疑うものがいた。
李崇仁は王環の真偽を弁じ、誣告されて逃げた。獄卒は、その子李次若を後ろ手に縛り、父を探すよう背に鞭をうち流血させた。
そして、梨峴を過ぎて丁度太祖に出会うと獄卒は李次若を路傍の家に隠した。李次若が大声で叫んだ「そこの人、私を助けてください!」
太祖は驚き、獄卒を呼び問うと、獄卒にこういった「なぜ子に責を負わせて父を探させるのだ?」
そして釈放するように命じ、そして従者一人を使わし李次若を家に帰した。そこで侍中の李琳啓と言うには、「即位の初めに寬仁を発布すべきで、李崇仁などの赦しをこう。しばらく李崇仁は書筵*17に侍講*18し、何日かその働きぶりをみてほしい*19」
そのため李崇仁は出所した。
*17 書筵堂は、東宮を教育する場所
*18 侍講は、君主に学問を教えること
*19 啓沃有日, 乞令供職 啓沃するに(包み隠さず言えば)有日(いくにちか)、供職しむ(仕事をみて)を乞う か?
昌王は、太祖に剣を帯びて上殿し、参拝(朝廷に行くとき)に名乗らなくてもよいと命じ、銀五十両、あやぎぬを十匹、馬を一頭贈り、教をくだし、表彰した。
十一月、金佇が密かに黄驪府で前王の禑に謁見すると、禑は泣いて言った。
「私は、普段から郭忠輔が仲良しなので、あなたは郭忠輔に遭い、はかってくれ。李成桂を取り除くことは私がすべきことだ」
金佇は郭忠輔に遭い告げると郭忠輔は承諾をいつわり、太祖のもとに行き金佇と鄭得厚を逮捕するよう告げた。鄭得厚と金佇はともにはかり、夜に太祖の館に潜入したが門客*20の所で捕らえられ、自ら首を刎ねて死んだ。金佇が捕まると巡軍獄*21は邊安烈らを連座した。台諫*22が邊安烈を誅そうとしたので太祖は力一杯助けようとしたが、昌王は聞かなかった。
*20 食客や私兵の類
*21 巡軍獄は盗賊や禁乱を司る巡軍万戸府の別名
*22 大元は天子をいさめる職。
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