ブラジルに於けるイエズス会の奴隷使役の実態はスペイン圏ほど分かっていない様である。論文もかなり少なくネットにはイエズス会シンパの嘘やものみやエホバの怪しげな話がながれている。日本語版Wikipediaは嘘だらけなので読まないように。そして、ブラジルのイエズス会が行っていた教化村の存在や現地民を雇用して使役するアシエンダが混じり混んでいるために実態を調べるのにはさらに困難を極めた。なおスペイン圏ではスペイン語の論文が多いがブラジルは英語の論文が多いようだ。
イエズス会は先住民を奴隷狩りから守るために教化村に集めてた。そして教育を施した。イエズス会は先住民の奴隷化に反対し、それが故に、農場主やポルトガル政府と対立しブラジルから追放された。
ブラジルに於けるイエズス会と奴隷に関する記述は、ここで止まっているものが多い。これは悪質なプロパンガである。 見つけ次第駆除して欲しい。
実はその先がある。その理由の一つは西アフリカの奴隷貿易がイギリスによって行われた西ギニアから中北米への貿易のみが強調され、ポルトガルによるアンゴラーブラジル間の奴隷貿易が無視されていること大きいだろう。英語の資料ばかり参照しているから資料にバイアスがかかっているのだ。東アフリカのザンジバルやモザンビークの奴隷貿易にいたっては無視されている。
これらは大元がブラジルによるプロパガンダらしく、それゆえスペイン圏においてスペイン語の論文が多いにもかかわらず、ポルトガル圏でポルトガル語の文献が少なく英語の論文が多い理由はこの当たりに起因している可能性がある。
Since its beginning, the Estado Novo embraced a few of the theories suggested by Brazilian politician, sociologist, and historian Gilberto de Mello Freyre (1900-87), practically adopting Luso-tropicalism to justify the specificity of Portuguese colonialism. Renowned British historian Charles Richard Boxer (1904-2000), who in response to Freyre’s theories published Race Relations in the Portuguese Colonial Empire (1963), proved that the nature of the Portuguese colonial regime, far from being an idealized version of peaceful coexistence between races, ethnic groups, and civilizations, had to be analyzed by looking at different socio-economic factors, whereby discrimination, violence, slavery, and colonialism were its driving forces. Both Freyre and Boxer strongly influenced subsequent analyses. エスタード・ノーヴォはその初期から、ブラジルの政治家、社会学者、歴史家であるジルベルト・デ・メロ・フレイレ(1900-87)が提案した理論のいくつかを受け入れ、ポルトガル植民地主義の特殊性を正当化するために、実質的にルソ・トロピカリズムを採用した。 著名なイギリスの歴史家チャールズ・リチャード・ボクサー(1904-2000)は、フレイレの理論に対抗して『ポルトガル植民地帝国の人種関係』(1963年)を出版し、ポルトガルの植民地体制の本質が、人種、民族、文明の平和的共存という理想化されたものからはほど遠く、差別、暴力、奴隷制、植民地主義がその原動力となったさまざまな社会経済的要因に着目して分析する必要があることを証明した。フレールもボクサーも、その後の分析に強い影響を与えた。
"Maria de Deus Beites Manso" LA COMPAÑÍA DE JESÚS Y PORTUGAL: 1540-1773. DEL ESTABLECIMIENTO A LA EXTINCIÓN. UN ENFOQUE HISTORIOGRÁFICO ブラジルに於いてもイエズス会が奴隷を所有していたのは紛れもない事実である。
例えば、
セルジペ・ド・コンデに259人
メム・デ・サに698人
――と言った感じである。しかしコングラマリット化していたブラジルのイエズス会の全体像自体はよく分かっていない様である。
また、前回のべた"The Popes, the Catholic Church and the Transatlantic Enslavement of Black Africans 1418-1839"と言う本にもブラジルでの奴隷売買関与について記載されている。イエズス会はアンゴラから直接奴隷を仕入れていたようである。
このページはPortugal in Africa, by James Duffy, Penguin African Library, 1963がソースらしい。
Ships owned by the Jesuits were engaged in the shipment of slaves from Luanda to Brazil.
――とあるのでブラジルまで奴隷を運ぶ奴隷船をイエズス会が所有していたと解釈せざるおえないが、更なる継続調査が必要だと思われる。
教化村の実態も先住民をプランテーションの労働力として使役していたのである。そもそも教化村は先住民から言語、文化、歴史、宗教を奪うしろものである。つまり実態は奴隷となんらかわらないとも受け取れるのだ。しかし、彼らは自由民の労働者とされ奴隷と定義されていなかっただけである。この教化村には最大3万4000人の先住民が住んでいたとされる。
しかもイエズス会は先住民の奴隷も所有していたのである。つまりイエズス会が先住民の奴隷化に反対して居たと言うのは半ば嘘なのである。
Practically speaking, the Jesuits in Brazil employed both Native Americans and Africans as slaves as Carlos Moura Ribeiro Zeron has shown. His study untangles the controversy over whether the Jesuits had indigenous slaves 実際には、ブラジルのイエズス会は、Carlos Moura Ribeiro Zeronが示したようにアメリカ先住民とアフリカ人の両方を奴隷として雇っていた。彼の研究は、イエズス会が先住民の奴隷を持っていたかどうかをめぐる論争を解きほぐしている。
https://brill.com/view/journals/jjs/8/1/article-p81_81.xml#FN000016 イエズス会が入る前のポルトガルは分権制を引いており、地域ごとにバラバラな支配を行っていた。ブラジルのプランテーションは最初は先住民を奴隷として確保し、労働力としていた。しかし、反発した先住民が反乱を起こし、植民地そのものを失うような状況に陥ったとされる。特にフランス人の介入に対する対処は急務だったと考えられる。そのため1550年頃、ポルトガル政府はブラジル植民地を直轄とし、むやみやたらに先住民を奴隷にしないように管理することに決めた。イエズス会がやってきたのもこのタイミングになる。それからイエズス会はポルトガルから追放される1759年までのおよそ200年の間ブラジルで布教活動をしていた。
しかし、この段階ではポルトガル政府もイエズス会も先住民を奴隷にする事に反対していた訳ではない。無差別的な奴隷狩りに反対して居ただけである。実際にはポルトガル政府は政府に有効的な部族と敵対的な部族を区別し、敵対的な部族を攻撃することを正戦と定義し、敵対的な部族から得た捕虜は奴隷としても良いとしている。以前も書いているが、当時のイエズス会は正戦による捕虜を奴隷とする事は合法とし反対したことはない。違法な手段で入手した奴隷に反対しただけである。そもそも、合法とされる奴隷はイエズス会は当初から所有していた。さらに奴隷狩りを恐れた一部の先住民は奴隷狩りから逃げるためイエズス会に逃げこんだ。これらの先住民を集めて作ったのが教化村である。禁令に対しポルトガル人はこのわざと先住民をけしかけ、それに対する報復を正戦と称して奴隷狩りを行っていたようだ。奴隷狩りが酷くなるほど教化村の人口も増えたと言う。
先住民の奴隷化は1570年頃がピークになり、1596年にはポルトガル政府が先住民の奴隷化自体を禁止したようである。しかしイエズス会が先住民奴隷化自体に反対したとはいえない。単純に正戦の悪用を禁止しただけなのである。奴隷狩りがイエズス会の活動の邪魔になることを危惧しただけであり、ポルトガル政府は奴隷狩りで先住民との交易が阻害されていることを憂慮しただけである。つまり奴隷そのものに反対したわけではない。1609年にポルトガル国王により正式に先住民の奴隷化が禁止され、既に奴隷にされている先住民も解放することを告知した。ただし先住民が自由民として扱われた訳ではない点は注意すべきである。実質的に政府やイエズス会の管理下に置かれただけである。しかも現地のポルトガル人の反発が大きく暴動がたえず上手くいかなかった。
この頃になると原住民の奴隷化に関する実態もよく分からなくなる。
現地人奴隷の減少は西アフリカのポルトガル商人から黒人奴隷の流入が始まったことと先住民の間で天然痘が流行したことが起因しているらしい。特に天然痘により先住民の人口は1/3以下に減ったとされている。またプランテーションにおける黒人奴隷の生産性は先住民の三倍以上あったため、三倍の価格で取引されていたにもかかわらず農場主は黒人奴隷を購入することを好んだ。そのため先住民奴隷はほとんど居なくなり、黒人奴隷に置き換えられたとされる。イエズス会も黒人奴隷を入手し自らのプランテーションで使役している。
ブラジルの初代イエズス会管区長のノブレガは、1557年と1558年にギニア(西アフリカ)から奴隷を連れてくることの重要性を進言している。さらにブラジルのイエズス会は1568年に奴隷所有を推奨する付則を出している。イエズス会は奴隷反対どころか奴隷貿易の推進者である。弥助が信長に面会したのは1581年であるが、それ以前からイエズス会は黒人奴隷貿易を奨励し自らも使役している。この点に於いて擁護の余地は一分も無い。しかも奴隷貿易に直接関与していた。 イエズス会内には黒人は奴隷にしないと魂の救済が出来ないと言う論説すら存在した様である。イエズス会は現代の人文アカデミアと異なり言論の自由が存在したから、この様な黒人奴隷制を擁護する意見だけではなく奴隷制に反対する意見も当然だが残っている。
[os] escravos da terra não nos parece bem tê-los por alguns inconvenientes. Destes escravos de Guiné manda ele trazer muytos à terra この土地(ブラジル)の奴隷(先住民の奴隷)には不都合な点があり、私達にとってあまり良くないようだから、ギニアから来た奴隷をこの土地に沢山連れてくるよう伝えている
ノブレガの1557年の手紙の一部 Nóbrega quem, numa carta enviada da Bahia, em setembro de 1557, ao então Provincial de Portugal, padre Miguel de Torres, recomendava, com a mesma desenvoltura com que pedia favores a EL-Rei, o aviamento de certas regalias para melhor atuação da Companhia de Jesus no Brasil. E lá estava entre as regalias, o negro de Guiné: """ [...] digo que se aceite tudo ata [até?] palhas; e digo que se S.A. nos quisese mandar dar huma boa dada de terras, onde aynda não for dado, com alguns escravos de Guiné, que fação mantimentos para esta Casa e criem criações, e asy pera andarem em hum barquo pescando e buscando o necessário, seria muyto acertado. """ ノブレガは、1557年9月にバイーアから当時のポルトガル管区長ミゲル・デ・トーレス神父に送った手紙の中で、エル・レイに便宜を図ったのと同じように、ブラジルにおけるイエズス会の業績向上のために、ある特典を与えるよう勧めている。 そして、その特典の中にはギニアから来た黒人も含まれていた。 「(中略)私は藁をも掴む思いですべてを受け入れると言っている。もし殿下が、まだ与えられていない土地にギニアから来た奴隷を何人か連れてきて、この家の食料を作り家畜を育て船に乗って漁をし必要なものを探すようにと命じられるなら、それはとても適切なことでしょう」
Raimundo Agnelo Soares Pessoa "O ESCRAVO NEGRO NOS PRIMEIROS ESCRITOS COLONIAIS (1551-1627)" イエズス会の中には奴隷制に反対するものいたがそれは常に少数派であった。
And yet Jesuit reliance on slave labor—a practice that began during Ignatius’s lifetime and apparently without his objection—continued for centuries despite these denunciations and protests. When two Jesuits in Brazil in the 1580s protested the slaveholding practiced by their Jesuit community, Superior General Claudio Acquaviva (1543–1615) sent a visitor to investigate the matter. After the visitor consulted with other Jesuits who decided in favor of the legitimacy of slaveholding, the two dissenting Jesuits were recalled to Europe. Furthermore, other Jesuits, like Luis de Molina (1535–1600), were permitted to publish works that, while admitting the injustices of the trade, rationalized the purchase of enslaved Africans. When in the 1680s the Spanish Council of the Indies examined the morality of the trade after two Capuchin priests preached against it, the Council referred to the works of Jesuit theologians like Molina to justify the trade’s continued existence. 1580年代にブラジルにいた2人のイエズス会士が、彼らのイエズス会共同体によって行われていた奴隷所有に抗議したとき、総長クラウディオ・アッカヴィーヴァ(1543-1615)は、この問題を調査するために訪問者を送った。訪問者は他のイエズス会士と協議し、奴隷所有の正当性を支持する決定を下した後、反対する2人のイエズス会士はヨーロッパに呼び戻された。さらに、ルイス・デ・モリーナ(1535-1600)のような他のイエズス会士は、貿易の不正を認めながらも、奴隷にされたアフリカ人の購入を合理化する著作を出版することを許された。1680年代、2人のカプチン会司祭が貿易に反対する説教をした後、スペインのインド評議会が貿易の道徳性を検討したとき、評議会は貿易の存続を正当化するためにモリーナのようなイエズス会の神学者の著作を参照した。
GREGORY C. CHISHOLM, SJ WILLIAM D. CRITCHLEY-MENOR, SJ TIMOTHY P. KESICKI, SJ "Day of Reckoning: Essays on Racism and Slaveholding in the Society of Jesus" 17世紀に入ると効率よく奴隷を使役・調達するため宣教師たちをアンゴラに派遣するほどの力の入れようだったようである。宣教師は奴隷船に乗り込み黒人奴隷への洗礼を行っていた。この洗礼は黒人奴隷を効率よく働かさせ、キリストの真の教えから遠ざけ、暴動を減らすために行われたとされる。イエズス会は修道士をブラジルからアンゴラに派遣し奴隷を調達していた。
ブラジルにおいてイエズス会は先住民を利用したアシエンダと黒人奴隷を中心にした近代奴隷制プランテーションの二本立ての経営を行っており、アシエンダの労働力の方はしばしば奴隷狩りに狙われたとされる。そのためブラジルのイエズス会の奴隷使役研究はいくつかの点で厄介な問題を抱えている。一つは教化村に関する資料が少ない点。二つ目はイエズス会が奴隷庇護者と奴隷使役者の側面の両方を持っている点。三つ目は、研究者が先住民から信教の自由を奪い、特定宗教団体の管理下に置くことを奴隷化と考えずむしろ良いこととしている点。
このような前近代的な大規模荘園経営を続けていた上に強大な自治権を有していたイエズス会は独立国家状態だったという。そのため近代国家の成立の障害になり国外追放されたのである。ただし、ブラジルからイエズス会を追放したポンバル侯爵は病的なまでのイエズス会嫌いだったらしく、怪しげな文書もばら撒いていたらしい。その効果は大きく、未だに陰謀論で使われているらしい。
Due to a special privileged status as a religious order granted by the pope, the Jesuits enjoyed complete autonomy from the Crown, and therefore circumvented royal controls on their earnings. Increasingly, such privileges provoked animosity among local landowners and government officials, who perceived the Jesuits as monopolizing labor and resources. Relations between the Jesuits and royal authorities soured throughout the 1750s, culminating in the religious order’s expulsion from the Portuguese Empire. 教皇から与えられた宗教団体としての特別な特権により、イエズス会は王室からの完全な自治を享受していたため、彼らの収益に対する王室の統制を回避することができた。このような特権は、イエズス会が労働力と資源を独占していると受け止めた地元の地主や政府高官の反感をますます買うことになった。イエズス会と王室当局との関係は1750年代を通じて悪化し、ついにはイエズス会がポルトガル帝国から追放されるに至った。 The Crown ended Indians’ state of legal “dependency” on ecclesiastic authority, thus releasing indigenous peoples from mandated Jesuit tutelage. 王室はインディアンの教会権威への法的「依存」状態を終わらせ、イエズス会の強制的な指導から先住民を解放した。
James N. Green, Thomas E. Skidmore "Five Centuries of Change" 3rd edition(2021) Oxford University Press
この手の資料には改宗ユダヤ人がよく出てくる。これは、レコンキスタの終了により、ポルトガルとスペインで宗教醇化が始まるとユダヤ人は国外追放もしくは改宗を迫られた。しかし改宗だけでは許されず、常に異端査問におびえなければならなかった様だ。そのために改宗したあと海外の新天地を求める改宗ユダヤ人が多くいた。しかし、ドミニコ会やフランチェスコ会などはその改宗ユダヤ人を海外まで追いかけてその財を奪うために異端査問をやたらと行っていたのでその記録が多く残っているのである(つまり資料自体にバイアスがある)
一方、ブラジルに日本人奴隷がいた可能性はかなり低く、居ても極少数だったと思われる。スペイン圏はルソンから太平洋を横断する奴隷輸送ルートがあったのに対し、ポルトガルからブラジルへの奴隷輸送ルートは、西アフリカからの直行便だったためコスト的に難しい。つまり、奴隷を連れて移動している商人や修道士が元々日本人奴隷を所有しているケースに限られると考えられる。
資料: 布留川正博 ブラジルにおける奴隷制の起源
https://www.faje.edu.br/periodicos/index.php/perspectiva/article/viewFile/2305/2583
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/79983/joufsns_33_131.pdf
植民地時代初期ブラジルにおける先住民奴隷制に関する一考察 東明彦
Pius Onyemechi Adiele "The Popes, the Catholic Church and the Transatlantic Enslavement of Black Africans 1418-1839"
Anne B. McGinness "The Historiography of the Jesuits in Brazil Prior to the Suppression"
Raimundo Agnelo Soares Pessoa "O ESCRAVO NEGRO NOS PRIMEIROS ESCRITOS COLONIAIS (1551-1627)"
Ivonne del Valle, Anna More, and Rachel O’Toole. Nashville "Jesuit Networks and the Transatlantic Slave Trade: Alonso de Sandoval’s Naturaleza, policía sagrada y profana (1627)"
James N. Green, Thomas E. Skidmore "Five Centuries of Change" 3rd edition(2021) Oxford University Press
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