朝鮮王朝実録 総序(4) 桓祖 李子春(吾魯思不花)

 李成桂の父親、李ウルス・ブカ。親戚が女真族である。

桓祖諱子春, 蒙古諱吾魯思不花。 齠齕異凡兒, 稍長善騎射, 及其襲職, 士卒樂附。 咬住稍長, 桓祖欲以職事歸之, 咬住讓而不受。 咬住後從桓祖, 來見恭愍王, 王屬之亏多赤, 官至中順軍器尹。


 桓祖は(李)子春と言い、モンゴル名を吾魯思不花ウルス・ブカと言う。幼い頃から他の子どもと異なり*1、少し長じると騎射にたけ、その職を継ぐと士卒はよろこんで付き従った。

咬住ヤジュが少し大きくなると、桓祖は職事を返そうとしたが、 咬住ヤジュはこれを譲りうけなかった。咬住ヤジュは、桓祖の後に従い、恭愍王(31代の高麗王)に来見すると王は亏多赤ウダチ*2に属させ官は中順(大夫)、軍器尹に至った。

*1 齠齕異凡兒 「乳歯が生え替わる前から他の子どもと違いやたら噛みついた」かも知れない
*2 亏多赤 ウダチ。他に於達赤/于達赤/于多赤の表記がある ウダチはモンゴル語のEgüdečiの転訛で門守(陵墓守)ではないか?(村上1976)と言う説がある。高麗では宮殿や都の警備を行う職(近衛)だったと考えられる。

至正十五年乙未, 桓祖來見恭愍王, 王謂曰: "卿祖父, 身雖在外, 乃心王室, 我祖考實寵嘉之。 今卿無忝祖父, 予將玉汝於成矣。"

 至正十五(1355)年乙未, 桓祖は恭愍王に来見した。王が請うて言う。*3

「君の祖父は、身体は外地にあったが、その心は王室にあった。我が祖先がその英華*4を宝とした。今、君に祖父を辱めないため、予は、汝の成すことを玉としよう」

*3 唐突に高麗王に謁見しているが、まだ北元の家臣。翌年から寝返る。都合が悪いのか1346年から1355年の間が抜け落ちている。
*4 寵嘉 栄光華美。

初雙城地沃饒, 吏治闊略, 東南民無恒産者多歸焉。 恭愍王聞于元, 中書省、遼陽省, 皆差官來, 王亦遣征東省郞中李壽山往會, 分揀新舊籍民, 謂之三省照勘戶計。 其後撫綏失宜, 稍稍流徙, 王命桓祖鎭之, 民由是得安其業。 越明年丙申, 桓祖入見, 王迎謂曰: "卿撫綏頑民, 不亦勞乎?"

 雙城の地が沃饒し初めたとき、官吏達は雑に治めていたので、東南の民の財産無きものが多数きた。恭愍王は元に聞き、中書省*5と遼陽省*6に官吏を差配した。王は、また征東省*7の郞中李壽山を派遣し会合をし、 新旧の戸籍を分けた。これを三省の照勘戸計*8と言う。

その後、適切に撫安しなかったので、しだいに民は流れていった。王は桓祖に命じこれを鎭め、民が仕事をしやすくした。年明けて丙申(1356)年、桓祖は入見した*9。 王が迎えて言うには
「君が、かたくな民を撫安したことを労わずにいられようか?」

*5 モンゴルの中央官庁
*6 今の遼寧省のあたりを統括する省
*7 征東行省は、概ね高麗と耽羅を統括する省。東は日本を指す。
*8 照勘戸計 戸籍を検査する計画
*9 この年、李子春が元から高麗に寝返ったとされる。

時奇皇后之族, 倚后勢暴橫, 后兄大司徒轍, 潛通雙城官吏趙小生、卓都卿等, 結爲黨援謀逆。王語桓祖曰: "卿且歸, 鎭吾民, 脫有變, 當如吾命。" 是年五月, 平奇氏。 命密直副使柳仁雨, 往討雙城。 仁雨等次登州, 距雙城二百餘里, 逗遛不進。 王聞之, 授桓祖試少府尹, 賜紫金魚袋, 進階中顯, 遣兵馬判官丁臣桂, 傳旨內應。 桓祖聞命, 卽刻銜枚就行, 與仁雨合兵, 攻破雙城, 小生、都卿等, 棄妻子夜遁。 於是, 收復和、登、定、長、預、高、文、宜州及宣德、元興、寧仁、耀德、靜邊等鎭諸城。 咸州以北哈蘭、洪獻、三撒之地, 自高宗時沒于元九十九年, 今皆復之。 王進桓祖爲大中大夫司僕卿, 賜京第一區, 因留居之。

時に奇皇后*10の一族が、皇后の勢を借り横暴していた。皇后の兄大司徒奇轍は、雙城の官吏趙小生、卓都卿らと通じ潜り込ませ、謀叛をくわだて結党した。
王が桓祖に語るには
「君はすぐさま帰り、我が民を鎮め、変あらば脱し、我が命をなしとげよ」

この年五月、 奇氏は平定された。

密直副使柳仁雨に命じて、雙城を討たせにいかせた。仁雨らは、次に雙城から二百餘里の距離にある登州に逗留したまま進軍しなかった。王は、これを聞いて、桓祖に試少府尹を授け、紫金魚袋*11を贈り、中顕大夫に位階を進め、兵馬判官丁臣桂を遣わし、内応するよう(宣)旨を伝えた。

桓祖は命令を聞いて、即刻密かに兵馬を送り*12仁雨と兵を合わせ雙城を攻め破る。(趙)小生は、(卓)都卿等と妻子を捨て、夜に紛れて逃れたまた、和、登、定、長、預、高、文、宜州及宣德、元興、寧仁、耀德、静辺等鎭の諸城を陥落し咸州以北の哈蘭、洪獻、三撒の地を高宗時に元に奪われた土地(1258年の件)を九十九年ぶりに取り戻した。王は、桓祖を大中大夫、司僕卿に進め、都(開城)の第一区を贈り、そこに留まらせて住まわせた。

この時、倭寇*13が楊廣道*14を寇したので京城(開城)は戒厳していた。

桓祖は、判軍器監事として西江兵馬使になった。このため再度通議と正順二大夫が加えられ千牛衛上将軍*15に任じられた。

*10 順帝トゴン・テムルの高麗人皇后オルジェイ・クトゥクの事。トゴン・テムルの子の代でフビライの家系は断絶することになる。
*11 紫金魚袋は紫衣と金の魚袋(ぎょたい)の組み合わせ。唐制で三品以上。高官に任じたと言う意味。中顕は大夫らしい。
*12 銜枚 (馬に)ばいふくませ→軍隊を静かに移動させること。
*13 倭寇と書いているが時期的に紅巾賊かモンゴル軍であろう。
*14 楊廣道 高麗の行政区画、忠清南北道および京畿道と江原道の一部
*15 高麗史より、千牛衛は西班(武班)の二軍六衛の一。上将軍は大将軍の上の地位で後から追加された様だ。正三品。「千牛衛 常領一領,海領一領。衛置上將軍一人正三品,大將軍一人從三品。每領置將軍各一人正四品,中郞將各二人正五品,郞將各五人正六品,別將各五人正七品,散員各五人正八品,尉各二十人正九品,隊正各四十人。」

至正二十一年辛丑春, 以榮祿大夫判將作監事, 出爲朔方道萬戶、兼兵馬使。 御史臺上疏以爲: "李 【桓祖諱。】 本東北面人, 而又其界千戶也。 不可以爲兵馬使而鎭守。" 王不允, 設宴于忽赤廳, 慰藉之甚厚, 宰樞又餞于會賓門外以慰之。 旣行, 陞爲戶部尙書。 桓祖至北道未幾, 馳報云: "本國人入彼土者, 皆順命出來。" 四月庚戌, 病薨, 壽四十六。 葬于咸興府之信平部 歸州洞, 卽定陵。 王聞訃悼甚, 遣使弔哭, 致賻如禮。 士大夫咸驚曰: "東北面無人矣!"

 至正二十一(1361)年辛丑の春、栄禄大夫判将作監事として朔方道萬戸*16兼兵馬使に任命された。
 御史台は上訴して「李子春は、本来、東北面の人でその界隈の千戸なので兵馬使として鎭守にあてるべきではない」
 王はみとめず、忽赤ケシク庁*17で宴を設けた。はなはだ厚く慰問し、宰枢(門下省と中枢院の官僚のことか)達もまた会賓を門の外*18ではなむけした。

(兵馬使として)行くと戸部尚書に陸した。桓祖が北道に行っていくばくも経たないうちに報告するには「本国人の彼の地の者が入るのをみんなに順命できる」と。四月庚戌に病で亡くなった。享年四十六歳である。咸興府の信平部歸州洞、つまり定陵に葬られた。王は訃報を聞くと大いに悲しみ、使いを派遣し弔問させ礼にのっとる贈り物をした。
 士大夫は一同驚いて言った「東北面に人がいない!」

*16 朔方道は後の江原道
*17 忽赤 恐らくケシク。通常は怯薛と書く。モンゴル帝国における親衛部隊。宿営・宿衛と同義。それに庁がついているのでその建物を指す様だ。 高麗史 卷八十二 志兵二「宿営 元宗十年二月,時誅金俊,以勢家子弟,持弓矢,入衛殿內,稱後壁將軍。金保宜、林惟茂、趙允蕃、崔宗紹等,以後壁,賜紅改銜。十五年八月,忠烈王卽位,以衣冠子弟,嘗從爲禿魯花者,分番宿衛,號曰忽赤。元年正月,以忽赤四番,爲三番。八年五月,以達達人,分屬忽赤三番,依中朝體例,令各番,三宿而代,牽龍等諸宿衛,亦然。九年七月,選衣冠子弟,充世子府宿衛。十三年閏二月,令忽赤、鷹坊三品以下,佩弓箭,輪次入直。」 註:禿魯花トルガクは、質子。モンゴル帝国では領主や将軍の子を人質として大ハンの幕屋に集めていた。それをトルガクと呼んだ。
*18  韓国語訳は、會賓門の外にしている。

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