朝鮮王朝実録 総序(15)太祖 李成桂11

 この編は短い。――と言うのも次から威化島回軍に関係するので切りが良いので切ったので。

九月, 大明使張溥、周倬等, 至境上, 問太祖及李穡安否。 時太祖及崔瑩威名聞天下, 不欲使溥等見之, 皆出于外, 瑩出屯于郊。 是時, 倭賊百五十艘寇咸州、洪原、北靑、哈闌北等處, 殺虜人民殆盡。 元帥贊成事沈德符、知密直洪徵、密直副使安柱、靑州上萬戶黃希碩、大護軍鄭承可等, 與戰于洪原之大門嶺北。 諸將皆敗先遁, 唯德符突陣獨入, 中槊而墮, 賊欲復刺, 麾下劉訶郞哈, 馳入射之, 遂連斃三人, 奪賊馬以授德符, 轉戰出陣。 於是德符軍亦大敗, 賊勢益熾, 太祖請往擊之, 至咸州府署。 諸將營中有松在七十步許, 太祖召軍士謂曰: "我射第幾枝第幾箇松子, 汝等觀之。" 卽以柳葉箭射之, 七發七中, 皆如所命, 軍中皆蹈舞歡呼。 明日直至賊所屯兎兒洞, 伏兵於洞之左右。 賊衆先據洞內東西山, 遙聞螺聲, 大驚曰: "此李 【太祖舊諱。】 硨磲螺也。" 太祖率上護軍李豆蘭、散員高呂、判衛尉寺事趙英珪ㆍ安宗儉ㆍ韓那海ㆍ金天ㆍ崔景ㆍ李玄景ㆍ河石柱ㆍ李柔ㆍ全世ㆍ韓思友ㆍ李都景等百餘騎, 按轡徐行, 過其間, 賊見兵少行緩, 不測所爲, 不敢擊, 東賊就西賊爲一屯。 太祖登東賊所屯處, 據胡床, 令軍士解鞍息馬。 久之, 將上馬, 百許步有枯槎, 太祖連射三矢, 皆正中之, 賊相顧驚服。 太祖令解倭語者呼謂曰: "今主將, 卽李 【太祖舊諱。】 萬戶也。 汝其速降。 否則悔無及矣。" 賊酋對曰: "唯命是從。" 方與其下議降未定, 太祖曰: "當因其怠而擊之。" 遂上馬, 使豆蘭、呂、英珪等引致之, 先鋒數百追來。 太祖陽被逐, 自爲殿, 退入伏中, 遂回兵親射賊二十餘人, 莫不應弦而斃。 與豆蘭、宗儉等馳擊之, 伏兵且起。 於是太祖身先士卒, 單騎衝突賊後, 所向披靡, 出而復入者數四, 手斃之賊無算。 所射洞徹重甲, 或有一矢而人馬俱徹者。 賊徒分崩, 官軍乘之, 呼聲動天地, 僵尸蔽野塞川, 無一人得脫者。 是戰也, 女眞軍乘勝縱殺, 太祖令曰: "賊窮可哀, 勿殺生擒之。" 餘賊入千佛山, 亦盡擒之。 禑賜太祖白金五十兩、五表裏、鞍馬, 又加賜定遠十字功臣號。


 (1385年)九月、大明使の張溥、周倬らが、国境まで来て、太祖と李穡の安否を聞いた。その時、太祖と崔瑩の名は天下に轟いていて、大明使張溥達にこれをみられたくないので、全員外に出て、崔瑩も郊外に駐屯した。このとき、 倭賊*1が百五十隻で、咸州、洪原、北靑、哈闌北*2らを寇し、人民をことごとく殺したり捕らえたりした。

 元帥で贊成事の沈德符、知密直の洪徵、密直副使の安柱、靑州上萬戶の黃希碩、大護軍の鄭承可たちと洪原の大門の嶺の北で戦った。将達は全員負けて我先に逃げ、沈德符だけが、一人陣に突入し、槊にあたり落ちて、賊にタコ殴りにされた。旗下の劉訶郞哈が駆けいり、賊を射ると、立てて続けに三人を斃した、賊の馬を奪い、沈德符を助けると転戦し陣を出た。

 これにより、沈德符はまた大敗し、賊はますます気勢をあげたので、太祖は賊を討伐に呼ばれ、咸州府署に行った。諸将の営中から七十歩のところに松があり、太祖は軍兵を集めて言う。

「私は、枝と松ぼっくりをいくつか射る、君たちはこれを見ろ」

 そういうと柳葉箭で松を射ると、七発七中し、すべてさだめられたようだったので軍中はみんな歓呼し舞い踊った。

 翌日、賊が駐屯する兎兒洞に直行し、洞の左右に伏兵した。賊達は、まず洞内の東西山により、遠くから法螺の音が聞こえるので大変驚き「この李成桂のは、シャコ貝の法螺なのか」と言った。

 太祖は上護軍の李豆蘭、散員の高呂、判衛尉寺事の趙英珪ㆍ安宗儉ㆍ韓那海ㆍ金天ㆍ崔景ㆍ李玄景ㆍ河石柱ㆍ李柔ㆍ全世ㆍ韓思友ㆍ李都景ら百余騎を率い、手綱を締めてゆっくりと行った。その間が過ぎるつと賊は兵が少なくゆっくりと行くのを見て、何をしているのか分かないので攻撃しようとせず、東賊は西賊ところに行き一箇所に駐屯した。

 太祖は盗賊の駐屯所に登り、胡床に座り、軍兵に鞍を解き馬を休ませるように命じた。しばらくして、将は馬にのり、百歩ほどの距離に朽ちた筏があるので、太祖は矢を三連射し、すべて真ん中に当てたので、賊はあいかえり驚いて感服した。太祖は、倭語*3が理解出来るものを呼び命じた「今の主将は、李成桂万戸だ。おまえたちは速やかに降伏しろ。拒否すれば公開することになるぞ」

 賊の酋長は答えて「ただ、その命令に従います」とはいえその部下との降伏の話し合いが定まらなかった

 太祖は行った「彼らがだらだらしている間に、これをうつべし」

 そう言うと馬に乗り、李豆蘭、高呂、趙英珪らを使わし、これを連れて行くと先鋒数百が来た。

 太祖は追われているようにみせかけ自らしんがりをつとめた、伏兵のいるところに入ると兵を回し賊二十人を自ら射た、弓が返る音がする間もなく斃れた。

 そして、李豆蘭、安宗儉がこれを追撃し、伏兵がさらに追いかけた。

 このとき太祖の身体は兵卒の先にあり、単騎で賊の後ろに突撃し、向かうところなぎ倒し、出てはまた入ること十四、手で斃した賊は数え切れないほどだった。

 射るところは重甲をつらぬき、あるいは、一矢で人馬ともに射貫いた。賊徒はバラバラに崩壊し、官軍はこれに乗じて、天地が動くほど声で叫び、死体は野を埋め尽くし川を塞いだ誰一人逃げ出した者はいなかった。

 この戦で女真の軍は勝ちに乗じて殺しまくったので、太祖は命じた。

「賊が窮しているときは哀れむべきだ、よけいな殺生はすべきではなく、生け捕りにしろ」

 残った賊は千佛山*4に入ったので、これをことごとく捕虜にした。

 禑王は、太祖に白金しろがね五十両、五張の生地、鞍馬を贈り、また定遠十字功臣の号を加えて贈った。

*1 この倭は朝鮮流民の可能性もあり咸鏡北道や沿海州の女真族の可能性もある。日本から行くには北過ぎる上に何も無いので旨味がない。日本では刀伊の入寇と言うものがあるが、これは咸鏡南道あたりに住んでいた東女真ではないかと考えられている。
*2 すべて咸鏡南道の女真の地(この土地の女真族は三十部女真と呼ばれていたらしい)本来、咸鏡道は完全に高麗の外の地なのである。
*3 倭語と日本語は別の概念
*4 咸鏡南道にある山


倭寇咸州、洪原、北靑、哈蘭北等處,我太祖自請往擊,與戰于咸州之免兒洞,大敗之,禑喜賜白金五十兩,段絹各五匹、鞍馬,又加定遠十字功臣號。

高麗史 列傳第四十八 辛禑十一年九月

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