朝鮮王朝実録 総序(15)太祖 李成桂11
この編は短い。――と言うのも次から威化島回軍に関係するので切りが良いので切ったので。
(1385年)九月、大明使の張溥、周倬らが、国境まで来て、太祖と李穡の安否を聞いた。その時、太祖と崔瑩の名は天下に轟いていて、大明使張溥達にこれをみられたくないので、全員外に出て、崔瑩も郊外に駐屯した。このとき、 倭賊*1が百五十隻で、咸州、洪原、北靑、哈闌北*2らを寇し、人民をことごとく殺したり捕らえたりした。
元帥で贊成事の沈德符、知密直の洪徵、密直副使の安柱、靑州上萬戶の黃希碩、大護軍の鄭承可たちと洪原の大門の嶺の北で戦った。将達は全員負けて我先に逃げ、沈德符だけが、一人陣に突入し、槊にあたり落ちて、賊にタコ殴りにされた。旗下の劉訶郞哈が駆けいり、賊を射ると、立てて続けに三人を斃した、賊の馬を奪い、沈德符を助けると転戦し陣を出た。
これにより、沈德符はまた大敗し、賊はますます気勢をあげたので、太祖は賊を討伐に呼ばれ、咸州府署に行った。諸将の営中から七十歩のところに松があり、太祖は軍兵を集めて言う。
「私は、枝と松ぼっくりをいくつか射る、君たちはこれを見ろ」
そういうと柳葉箭で松を射ると、七発七中し、すべてさだめられたようだったので軍中はみんな歓呼し舞い踊った。
翌日、賊が駐屯する兎兒洞に直行し、洞の左右に伏兵した。賊達は、まず洞内の東西山により、遠くから法螺の音が聞こえるので大変驚き「この李成桂のは、シャコ貝の法螺なのか」と言った。
太祖は上護軍の李豆蘭、散員の高呂、判衛尉寺事の趙英珪ㆍ安宗儉ㆍ韓那海ㆍ金天ㆍ崔景ㆍ李玄景ㆍ河石柱ㆍ李柔ㆍ全世ㆍ韓思友ㆍ李都景ら百余騎を率い、手綱を締めてゆっくりと行った。その間が過ぎるつと賊は兵が少なくゆっくりと行くのを見て、何をしているのか分かないので攻撃しようとせず、東賊は西賊ところに行き一箇所に駐屯した。
太祖は盗賊の駐屯所に登り、胡床に座り、軍兵に鞍を解き馬を休ませるように命じた。しばらくして、将は馬にのり、百歩ほどの距離に朽ちた筏があるので、太祖は矢を三連射し、すべて真ん中に当てたので、賊はあいかえり驚いて感服した。太祖は、倭語*3が理解出来るものを呼び命じた「今の主将は、李成桂万戸だ。おまえたちは速やかに降伏しろ。拒否すれば公開することになるぞ」
賊の酋長は答えて「ただ、その命令に従います」とはいえその部下との降伏の話し合いが定まらなかった
太祖は行った「彼らがだらだらしている間に、これをうつべし」
そう言うと馬に乗り、李豆蘭、高呂、趙英珪らを使わし、これを連れて行くと先鋒数百が来た。
太祖は追われているようにみせかけ自らしんがりをつとめた、伏兵のいるところに入ると兵を回し賊二十人を自ら射た、弓が返る音がする間もなく斃れた。
そして、李豆蘭、安宗儉がこれを追撃し、伏兵がさらに追いかけた。
このとき太祖の身体は兵卒の先にあり、単騎で賊の後ろに突撃し、向かうところなぎ倒し、出てはまた入ること十四、手で斃した賊は数え切れないほどだった。
射るところは重甲をつらぬき、あるいは、一矢で人馬ともに射貫いた。賊徒はバラバラに崩壊し、官軍はこれに乗じて、天地が動くほど声で叫び、死体は野を埋め尽くし川を塞いだ誰一人逃げ出した者はいなかった。
この戦で女真の軍は勝ちに乗じて殺しまくったので、太祖は命じた。
「賊が窮しているときは哀れむべきだ、よけいな殺生はすべきではなく、生け捕りにしろ」
残った賊は千佛山*4に入ったので、これをことごとく捕虜にした。
禑王は、太祖に白金五十両、五張の生地、鞍馬を贈り、また定遠十字功臣の号を加えて贈った。
*1 この倭は朝鮮流民の可能性もあり咸鏡北道や沿海州の女真族の可能性もある。日本から行くには北過ぎる上に何も無いので旨味がない。日本では刀伊の入寇と言うものがあるが、これは咸鏡南道あたりに住んでいた東女真ではないかと考えられている。
*2 すべて咸鏡南道の女真の地(この土地の女真族は三十部女真と呼ばれていたらしい)本来、咸鏡道は完全に高麗の外の地なのである。
*3 倭語と日本語は別の概念
*4 咸鏡南道にある山
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