手を動かしてことばを書き記す、ということ
俳句と暮らす vol.18
パソコンやスマホなどのデジタルデバイスを使うことが多くなり、「ゆっくりと文字を書く」機会が減っている現代。
今この記事もパソコンの画面に向かい、キーボードをカタカタと打ち込んで文章を綴っています。
ひらがなを入力すればパッと漢字にしてくれて、誤字や脱字を親切に教えてくれて。
書いたり消したりコピペしたりも自在で、「やっぱりさっきの状態に戻したいな」と思ったらすぐに時間を巻き戻せて。
私の「書く」というお仕事においては、パソコンやスマホは必需品です。
でも、趣味でずっと続けている俳句だけは、私は「ノートにペンで書いてつくりたい派」です。
もちろん、俳人の中にはスマホやパソコンの画面上でつくる人もたくさんいます(最近はスマホ派が多いかも?)が、私はなぜかそれがうまくできなくて、俳句をつくるときは必ずノートに書きながら考えています。
頭の中で浮かんだ言葉が、いつでもささっと書き記せるように、必ずノートと歳時記と万年筆を持ち歩いています。
書いて、並べて、思考を整理するノート
私は俳句を、縦書きで書き記します。
でも、世の中に溢れているノートは横書きや方眼のものが多く、縦書きで俳句を書いて気持ち良い仕様のものに出会えませんでした。
「縦書きの、俳句を書くのがうれしくなるようなノートが欲しい」。
それが、俳句のための文具ブランド「句具」をつくろうとした、一番大きなきっかけでした。
縦書きにスラスラと書きたい。
でも、頭の中で考えていることを感覚的に、気兼ねなく、書き殴るように残したい。
自由さと美しさのあるノート、いつも連れて歩きたくなるノートがいいな、と思って作ったのが、句具の「作句ノート」です。
春夏秋冬に新年をプラスした、季節をイメージした5色展開の表紙。
「花筏」「薫風」「月暈」「凍雲」「初凪」と、色名に季語をお借りしています。
私は、この5冊を季節ごとに分けて使っています。
季節が春から夏へ切り替わる頃に、ピンク色の「花筏」のノートを片付けて、グリーンの「薫風」をバッグにしのばせます。
そんなちょっとしたきっかけも、季節の移り変わりを教えてくれています。
ガイドライン1本だけの、自由な縦書きノート
ノートは80ページとたっぷりありますが、持ち歩きに便利な薄さと軽さ。
手帳用紙を使っているのでさらりとした書き心地がとても気に入っています。
中面のデザインは、とてもシンプル。
罫線やグリットに邪魔されず、思いつくままに自由にのびのびと書けるように、線と点の組み合わせによるガイドラインを一本だけ、上部に入れています。
使い方に難しいルールはありませんが、点ではなく線の部分を「俳句を書くところ(=定位置)」として定義しています。
思いのままに書きながら作品をつくっていくこともできますし、ガイドラインに沿って書けば、1頁に7句を等間隔に並べることもできます。
罫線やグリットのノイズのない、真っ白な紙面で落書きをしたり、その流れのまま作品に仕上げたり、完成したものをさらに推敲したり…と、自由に使えるノート。
「こんなふうに使いたいな」という思いを詰め込んだ、句具オリジナルガイドラインの縦書きノートです。
なぜ私は、書かないと俳句をつくれないのだろう
俳句を楽しんでいる友人に話を聞くと「最近はスマホでつくってばかりだよ」とか、「パソコンに文字を打ち込みながらつくってる」とか、デジタルデバイスをフル活用しているケースをとてもよく聞き、少し羨ましく感じることもあります。
もちろん、咄嗟に思いついたフレーズやアイデアをスマホにメモしたり、作品群をスプレッドシートで管理したり、連作をプリントアウトして確認したりと、デジタルも使っていますが「俳句をつくろう」と思うと、やはりペンと紙でないと浮かんでこなくて、結局いつもそのスタイルです。
同じように手紙や日記も「手書き」にこだわりがちで、日記を書くのは好きなのに、スマホアプリの日記は3日と続かなかった記憶があります。
なぜ私は「文字を書く」ことで、俳句をつくっているんだろう。
よく考えてみると、ライターとして日々を書くことを生業としている私にとって、業務として文章を書いているときと、俳句をつくっているときでは、使っている脳が少し違うことに気がつきました。
パソコンに向かってタイピングをはじめると、一気に脳がONモードになります。
でも俳句をつくるときはもう少し落ち着いた、どちらかというとOFFのような気持ち。
仕事のときのような使命感はゼロで、ゆっくりとノートと向き合いながら、自分の中にいる誰かと対話しているような、とても落ち着いた気持ちです。
自ら書いている文字にも、いい影響を受けます。
たとえば「紫陽花」という文字を一文字ずつ書いていると、「紫」や「陽」からも、アジサイの花やその空気感のインスピレーションを受けます。
それをかすかに感じ、受け取りながら、その先に続くことばを一音ずつ探しています。
自分の俳句ばかりではなく、大好きな俳人の句を書き写すことも多いですが、万年筆でひと文字ずつ書いていると、とても心穏やかな気持ちになり、とても満たされます。
ああ、やっぱり私は手を動かして言葉を「書く」ことが好きなんだなあ、と。
そんなことを考えていて改めて、私にとっての「道具」の存在の大きさに気がつきました。
ノートをひらく。
万年筆の蓋をしゅぽっと開ける。
すうっと小さな深呼吸をして、さらさらと思ったことを文字にして、目の前にことばとして残していく。
自分の癖字も、思い出せなくてぐちゃぐちゃになった造語のような漢字も、あとから見るとちょっとだけ愛おしくて、それがその言葉のひとつの記憶になってくれる気がします。
忙しい日常に追われて萎れてしまった心に水を与えるように、目に見えない何かで満たされていくような、豊かな時間。
そこにスイッチを入れてくれるのが、私にとって「道具」なのだと思います。
そんな大切なスイッチだからこそ、お気に入りのものが欲しい。
いつも連れて歩きたくなるようなノートを持って、さらに書き心地の好きなペンに出会えたりすれば、飛びあがるほどにうれしくなる。
私がそんなふうに道具を使っているように、誰かの暮らしにも句具がそんな存在になってくれていたら、とてもうれしいなあと思っています。
暮らしの一句
暑中見舞の隅に癖字の母が居る 麻衣子