83.ひとの価値は死んだ後にわかる?〜一度も会ったことのないおばあちゃんの死から考えたこと〜
今年の2月末、父方のおばあちゃんが亡くなった。
90歳を超えて安らかな死だったようだ。
私は、おばあちゃんのお葬式にも行っていない。
なんなら、生まれてからおばあちゃんに会った記憶がない。
お母さん曰く、赤ちゃんの頃に会ったことがあるそうだが、覚えている由も無い。
おばあちゃんのことは何も知らず21年間生きてきて、
亡くなったという事実だけを知った。
私は、普段よく泣く人間だ。
たくさん可愛がってくれた母方のおじいちゃんのお葬式では大号泣だった。
それでもおばあちゃんの死で、一度も涙は出なかった。
冷淡なのだろうか。
淡白なのだろうか。
とはいえ、思い出もなければ素性も知らない。
それなら他人と変わらないではないか。
涙を流すことはとても難しかった。
実感も湧かないまま、封印して4ヶ月が経とうとしている。
おばあちゃんの死に関して何かしたことといえば、
亡くなってから一度仏壇に手を合わせにいったくらいだった。
遺影をみて、おばあちゃんと初めましてをする。
こんな顔だったんだと知る。
それをきっかけにか、母からおばあちゃんのことをきくことになった。
とてもお嬢様だったおばあちゃん。
90年以上、一度も働かずに人生を終えたこと。
兄弟全員と絶縁でお葬式にも現れなかったこと。
母子家庭ながら、息子二人を医者に育て上げたこと。
息子の病院で老後を過ごしたこと。
嫁をいじめていたこと。
認知症だったこと。
亡くなってから、親族は悲しむよりもホッとしたこと。
いいことが思い浮かばない母を少しかわいそうに思った。
同時に、おばあちゃんは幸せだったのか考えた。
どんな生き方をしていたのだろう。
人生で楽しかったことはなんだろう。
どんな最後を迎えたのだろう。
そして、
私のこと、
どう思っていたのだろう。と。
おばあちゃんに会いにいくべきだったのかな。
死生観や生き方、家族について考えさせられることがあまりに多すぎた。
もちろんいまだに、答えは出ていない。
これからも考えていくもの。
ただひとつ、確かなものは
”死んだ後にそのひとの価値がわかる”ということだ。
生きているうちはあまりのことの多さに気づけないだろう。
けれど、跡形もなく亡くなった後、そのひとのことを残された人がどのように語らり継いでいくのか。
どんな生き方を残し、どのような死を迎えたのか。
死んだ後に、残るものだけがそのひとの価値だとおもう。
ふと、いま自分が死んだら、残されたひとにどんな風に語られるのだろう。
そう考えてみる。
悲しいかな。
けれど、こんな風に考える機会は貴重で本当にありがたい。
それこそが自分の生きたい生き方を、死に方を明確にすることができる手段になるとおもうから。