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【追憶】結婚挨拶の口上

「このたびA子さんと結婚させていただくことになりました。二人で力を合わせて幸せな家庭を築いていきます。どうぞよろしくお願いいたします。」

明日は結婚前のご両親への挨拶のため初めて彼女の実家へお伺いする日だ。若干二十代半ばの青年は一世一代の挨拶の場でどのような口上こうじょうを述べるべきか、必死に考えを巡らせていた。

「彼女の事前情報によると、父親はなかなかの頑固者らしい…」

「しかも彼女の家庭はサラリーマンではなく、隣近所も含めて昔からの農家で一時代前の常識世界で生きているそうだ」

「これは下手な挨拶はできないぞ…」

青年は額に汗をかきながら考えた。

「しかし、お母さんと妹さんとは一度会食でお話しているから、きっと味方してくれるはずだ…」

「ここは昔ながらの『娘さんを僕にください!』でいくべきか?」

「いやいや待て待て。『ください』はちょっと違うのではないか?」

「野菜を買うわけでもあるまいし。『ください』はやっぱり言いたくないセリフだなぁ…」

「じゃあ、どうする?」

「『娘さんとの結婚を許してください』はどうだろうか?」

「それはなかなかいいアイディアかもしれない。でも、もしOKしてくれなかった時はどうするんだ?…諦めるのか?」

「いや絶対に諦めたくはない。何があっても彼女と結婚するんだ!」

「なら聞いちゃ駄目だ。二人の決意を伝えないと…」

まだインターネットもスマホも登場していなかった時代、青年は懸命に自分の頭で考えるのだった。

当日彼女の家を訪れた青年は日本間に通され、緊張しながらも当たり障りのない世間話でなごやかに過ごした。

少し会話が途切れた頃、隣に座った彼女からの目配せのサインが出た。

「今よ!」

「よし!このタイミングか」

座布団を外し改めて正座し直した青年が申し述べたのが、冒頭の口上こうじょうであった。

「…」

「ほら、お父さん何か言わないと…」

しばしの沈黙があったが、お母さんのナイスアシストもあって、お父さんの口から「よろしくお願いします」の言葉が聞けた。

「ありがとうございます」(心の中でガッツポーズ)

横を見たら彼女も安堵したようにうなづいていた。

その後は、予想通りにお母さんからの怒涛どとうの質問の嵐、嵐…笑。

酒飲みのお父さんが嬉しそうに注いでくるビールを吞めないともついぞ言い出せずに、青年は次々と胃に流し込んだ。お陰で帰り際には相当にフラフラの千鳥足であった。

小柄で無口で日に焼けたお父さんの赤ら顔が印象的であった。

あれから30年以上の月日が流れたが、不思議と昨日のことのよう思い出される。気がつけば、くだんの青年もあの時の義父の歳をとうに超える年齢になった。

その義父が亡くなった。
あっけない別れであった。

晩年には吞めなくなった大好きだったビールをあちらの世界では心置きなく味わって欲しいとただ願う。

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