
短編小説4「湖畔」
*この物語はフィクションです。
レマン湖からローヌ川に流れ込む小川は流れが強く、歩行者転落防止用に素敵にデザインされた金属製のガードレールはあるものの、小川に沿って伸びる遊歩道に沿うレストラン街を歩く人に少しの緊張感を抱かせる。
真冬を迎えた1月が終わろうとしていたある日、昼食を済ませたジョルジュは、気温が氷点下にまで下がり小雪がちらつく中、時計塔を一瞥して旧市街の城郭に向かい、少しだけ中世の街並み散歩を楽しんだ後に、トラムが走るメインストリートに戻り、有名なプライベート・バンクへと向かった。
入り口では連絡を受けたルホンが待ち構えていた。重厚感のある広い個室に案内され、扉を閉めるとすぐにルホンは内線電話でスパークリング・ワインの白を2つ用意するようにとアシスタントに伝えた。
案内された席に座るとすぐにジョルジュは要件をルホンに伝え始めた。
「コモディティ市場で原油と天然ガスと小麦の先物をそれぞれ5億ドルづつ買ってもらいたい。」
「それから、株式市場でこのリストにある企業の株式をそれぞれ1億ドルづつ買ってもらいたい。」
そこには有名な防衛産業企業の名前が連なっていた。
「いつものナンバード・アカウントの資金を使っていただきたい。」
ナンバード・アカウントとはプライベート・バンクでおもに富裕層向けに提供される無記名の銀行口座のことだ。口座番号しかないのでそう呼ばれている。巨額の資産があって資金に違法性がなく厳しい審査を通過できれば開設できる。富裕層が巨額の資産を安全に管理するするために利用することが多い。スイスのプライベート・バンクは顧客情報秘匿能力が高く顧客資産を銀行店舗の地下深くにある核シェルターなどで安全に管理する能力が高いため世界中の富裕層から信頼されていた。
「承知しました。」
「書類を作成しますのでしばらくお待ちください。いつものお飲み物がまもなく届きますので、ごゆっくりしていってください。」
ルホンの言葉を遮るかのようにジョルジュは言った。
「急いでくれたまえ。プライベート・ジェットを空港に待機させている。ここでの用事を済ませたらすぐにロンドンに戻らなければならない。」
「かしこまりました。急いで用意いたします。」
ジョルジュは出来上がった書類に目を通しサインを終えると、スパークリング・ワインを一気に飲み干して席を立った。
「また何か起こりますね。楽しみにしております。」
ルホンの言葉には何も答えず、正面玄関の前にいつのまにか到着していた黒塗りのドイツ製大型高級車に乗り込み、トラム通りを新市街の方へと走り去った。
2月に入り恐ろしいニュースが世界を駆け巡った。
ベラルーシとロシア国内で大規模軍事演習を行っていたロシア軍が、大挙して突然にウクライナ国境を越えてウクライナ領内に電撃侵攻したのである。
このニュースを知ったルホンは、国際商品市況で原油価格や天然ガス価格が急騰し、アメリカやイギリスやドイツなどの防衛産業企業の株価が爆騰する様子をトレーディング・ルームのモニターで確認し、1月下旬のジョルジュの取引指図の意図を深く理解した。
ジョルジュはイギリスを拠点にするユダヤであった。国際金融資本で巨万の利益を手にした知る人ぞ知る投資家だが、警戒心が強く人前にはほとんど現れることはなかった。ルホンにもユダヤの血が流れていた。ジョルジュが銀行口座を開設する際に提示した条件の一つが、口が堅く信用できるバンカーを窓口担当者にするということであった。
アメリカの国務長官がウクライナ系ユダヤになり、おなじく国務次官補がユダヤとアングロ・サクソンの両親のもとに生まれたユダヤになったことで、いつか何かが起こるであろうことをルホンも予感してはいた。
これに先立ち、まだ残暑が残る初秋のことだった。
レマン湖を眼下の望む高級レストランでディナーを共にしたジョルジュは、機嫌がよいのか饒舌にルホンに語りかけた。
「ここは誰もが知るかの有名なフランスの俳優が元気なころによく通った店らしいね。」
ルホンが返した。
「有名なF1レーサーもしばしばお見受けします。」
ジョルジュは続けた。
「ロシアの天然ガスで巨万の利益を手に入れることができる。私は投資家だからそのことにしか興味はない。しかし国務長官と国務次官補は復讐に燃えているようだ。彼らの先祖を窮地に追い込み一族を苦しめ続けたのはまぎれもなくロシアだからその気持ちはわからなくもない。おなじヨーロッパ系ユダヤなら誰もがそう感じるだろうと彼らは思いこんでいるようだが、私はそうではない。彼らが活躍してくれたら儲かるから同じ船に載っただけだ。」
「ウクライナの親しいユダヤには、できるだけ早くウクライナを脱出してポーランドなどに拠点を移すように伝えたのだが、真相はまだ話せなかったので、意図を理解してもらえずウクライナに残った友人もいる。ウクライナの現大統領もユダヤだから、ここで世紀の復讐を自らの手で一緒に実現しようと考えたのかもしれないが、私にはまったく理解できない。イギリスの諜報機関であるMI6と特殊部隊のSASは、ウクライナ大統領にイギリスへの亡命を再三促したようだが、彼は頑として応じなかったらしい。亡命政府樹立まで支援し莫大な活動資金をイギリス政府がアメリカと組んで裏で用意するとまで伝えたそうだが。」
「この戦争でどちらが戦勝国になるかには興味がない。ロシアの天然ガスで儲けさせてもらえればそれだけでよい。ところが国務長官たちはロシアの軍事力と経済力をとことんまで無力化したいようだ。そのためにはこの戦争が早々に終わってはまずい。ロシアが息を吹き返すことができなくなるまで追い詰めるつもりだろう。そのために軍事支援の額や時期を周到に調整しようとしている。ウクライナが早々に負けるようなことがあてはならないが、ウクライナが短期間でロシアを撃退してもまずい。そう考えているのは国務長官だ。国務次官補も同じだ。この件に関しては、アメリカ大統領はただのお飾りでしかない。まあ、国務次官補の方が最先鋒で、国務長官はその素晴らしいアイデアに便乗したのだと思うが。」
ジョルジュはさらに続けた。
「アメリカではいずれ大統領選挙が行われるが、共和党の有力大統領候補の考えは全く違うようだ。彼はユダヤではない。福音派には近いがね。共和党有力大統領候補が狙っているのは今やロシアに代わって軍事力を高めつつあるあの国を今のうちに叩きのめすことだ。そして崩壊させた後に甘い汁を吸うつもりだろう。もちろんその際には私もご相伴に預かるつもりだよ。」
ジョルジュは顔に不敵な笑みを浮かべながら鋭い目つきでルホンを見た。
「いつものように莫大な金融取引手数料を落としてあげるから、楽しみにしていてくれ。あぁいけない。ここだけのお話しにしておいてくれるね。」
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