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二十年の片想い 77

 77.
「さあ、行きましょう。早く逃げないと、危ない彼氏が追ってきますよ」
 大野の恋人なる女はさっきから棘々しい。
「……ありがとうございます」
 それでも美咲は痛みを堪えて、女に礼を言った。女は腕を支えてくれているのではなく、腕に爪を立てて、肉を千切らんばかりに強く握っているのだ。この夜、劇的な変化は、美咲にも訪れようとしていた。美咲ももちろん、この偶然には驚いた。凶暴化して手を上げようとした恋人、坂本竜平からとっさに走って逃げて、狭い裏通りを抜けて自宅マンションに帰ろうとしたのだが、突然目の前に、腕を組んで歩くカップルらしき人影が見えた。邪魔をする気などなかったが、身体が恐怖で震えており、すがるように助けを求めた。男のほうの顔を見上げて驚き、思わず名前を呼びそうになったが、恋人らしき女に遠慮した。と同時に、大野ならきっと助けてくれると、瞬間的に安心したことも否めなかった。大野は恋人に遠慮しつつも、必死で助けてくれて、私はそれに甘えた。大野は坂本を知らないが、坂本のほうは大野を知っている。坂本は大野に危害を加えたりしないだろうか。万が一、喧嘩のようになっても、見た目は大野のほうが強そうだが、そんな暴力沙汰にはならないことを祈るばかりだ。
「ここはどっちですか?」
「左です。ありがとうございます」
 大野の恋人が、つんけんした口調で聞いてきたが、大野が世話をしてくれた手前、礼を言った。女の爪はさらに食い込んできて、痛みのあまり涙が出そうだった。それにしてもなんという女だろう。邪魔をされたことがそれほど腹立たしいのだろうか。見知らぬ者に対して、憎しみを込めたようなこの仕打ちはなんなのだろうか。あるいはこの女も、坂本のように、盗撮とまではいかなくとも、陰からこっそり爪を噛んで見ていて、異常な嫉妬の炎を燃やしていたのだろうか。外灯に照らされて、ようやく女の顔がはっきり見えた。大野の恋人は確か四年生で、背が高くて、オードリー・ヘップバーンに似た美人だと聞いていたが、そのイメージとは似ても似つかない。身長は私と同じぐらいだし、スタイルは悪くはないが良くもない。顔立ちも、醜いわけではないが美人とも言い難い地味なものだ。そして年上には見えない。同じ歳か、私服を着た高校生ぐらいに見える。
「大変ですね。危ない彼氏だなんて。ほんとに好きなんですか?」
 初対面の者に向かって、こんな質問をする女がどこにいようか。美咲は、腹立たしいのは私だと思いながらも、大野の精一杯の好意を慮り、ぐっと堪えて答えた。
「好きですけど、今日はいろいろあっただけです」
「私の彼は、すごくやさしいですけどね」
「それはよかったですね」
「その帽子、素敵。よく似合ってますね」
「……ありがとうございます」
「赤い花飾りでもつけたら、いちごのショートケーキってところでしょうか」
「は?」
「プリンといちごショートケーキ、見た目はケーキのほうが豪華だし、おいしそうですよね」
「はあ……」
「だけど私の彼は、甘いものは苦手だって」
「そうですか……」
「ほんとに、よく似合うこと、その帽子」
「……ありがとうございます」
「危ない彼氏に買ってもらったんですか?」
「……ええ、まあ……」
「何が危ないんですか?」
「……あの、そこまで答えなきゃいけないですか?」
 我慢にも限度がある。美咲は不愉快さを声に出して聞いた。
「あら、あたしったらごめんなさい。あたしと彼はすごく仲がいいのに、あなたは喧嘩してて、かわいそうになってしまって、ついあれこれと。お節介でしたね」
 嫌がらせ以外の何物でもなかった。やっと自宅マンションが見えてきて、ほっとした。これで坂本からも逃げ果せて、この爪立て女からも解放される。
「あの、ここで大丈夫です。本当にありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
 美咲は最後にもう一度、申し訳なさそうな顔をして、低姿勢で礼を言った。
「だめですよ。部屋までちゃんと送り届けないと安心できません」
 ところが女は、美咲の腕を離そうとしなかった。美咲は前方に見える三階建てのマンションを指して、もう一度言った。
「あのマンションですから。ご親切に、ありがとうございました」
 それでも女は腕を離さなかった。牙を剝いた蛇のように、ぎっちり巻きついていた。
「すごいお金持ちなんですね。あんないいマンションに一人で住んでいるんですか?」
「……外見だけですよ。狭いワンルームマンションです」
 美咲は仕方なく、腕に蛇をくっつけたまま、マンションの階段の下まで歩いた。
「ここで結構ですので、本当に、ありがとうございました」
 今度は声を少し大きくして、「離れろ離れろ」と念じながら言った。
「部屋までお送りするって言いましたよね。何階ですか?」
 無駄だった。蛇は離れようとしない。美咲はあきらめて、女の気の済むようにさせようと思った。
「二階です」
 美咲が答えるなり、女は美咲を引っ張るように階段を登った。
「ここです。ほんとにもう大丈夫ですから。あなたの彼氏のほうが心配ですよね」
 部屋のドアの前に来て、今度こそ解放されると思った。それでも女は腕を離さず、表札をじっと見ていた。名前は書いていないが、「203」という部屋番号を覚えようとしているらしい。ぞっとした。今を最後におさらばしたい女なのに、今後も嫌がらせに来ようというのか。
「あの、本当にありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
 女が立ち去ることだけを強く願って、美咲は表面上は丁寧に礼を言った。
「私も地方の田舎から出てきて一人暮らしをしていて、ここからだったら歩いて五分ぐらいですよ。ここと違ってすごく古いアパートですけどね」
 ところが女は急に親しげな、丁寧な口調になった。まさか、部屋に上がろうというのか。もちろん、いきなりこんな異常な見知らぬ女を招き入れるつもりはない。
「そうですか。ほんとにありがとうございました。ではこれで……」
 美咲は二度と関わり合いは御免と淡々と言ったが、それでも女は離れなかった。
「ねえ、もしかして、同じ大学の方じゃないですか?どこかで見たことがあるような気がするんですけど。私、白鷺大学なんですけど」
 やはりこの女は、どこかに隠れて見ていたのだ。美咲はふと、他の大学名を言うか、学生ではないと言おうとしたが、やめた。この先キャンパス内で出くわした時、面倒なことになる。
「私もです。偶然ですね」
「何学部ですか?」
 どこまでしつこい女なのだろう。ふと、逆に聞いてみた。
「あなたは?」
「私があなたに聞いてるんですけど」
 女の口調は再び棘々しくなり、こちらの質問など一蹴された。女の答えによっては別の学部を言おうとしたが、無駄だと気づいた。同じ文学部の場合、棟内で出くわしたら面倒なことになる。
「文学部です」
「学科は?」
「仏文科です」
「あら、そうなんですか。私は英文科。何年生ですか?」
「一年生です」
 美咲はため息をつきながらも、正直に答えた。ふと気づいた。隠れて見ていたのなら、大野を含むクラス仲間六人で一緒にいるところを見ていたのであれば、全てを知っているのではないか。それをわざわざねちっこく聞いてくるとは、私の狼狽ぶりを見て楽しんでいるのか。美咲は怒りと屈辱を感じた。
「あら、私も一年生ですよ。なあんだ。同じ大学の同じ学部で、同じ学年だったんですね。今まで会っていたかもしれないですね。般教(一般教養科目)の授業も、同じのを選択しているかもしれないですね」
 女の声が白々しい。美咲は「あれ?」と思った。大野の恋人は四年生ではないのか。聞き間違えたのだろうか。いや、確かにそう聞いた。「いち」と「よ」を聞き間違えることはないだろう。最初に感じたように、女はヘップバーン似の年上美人にはとても見えない。女が嘘を言っているようにも見えない。大野は恋人を新しく替えたのだろうか。それとも二股をかけているのだろうか。大野はこんな女のどこが良くてつきあっているのだろうか。大野から好きになったのではないことは確かだ。女のほうが、綺麗な青色をした深い湖に吸い寄せられるように、大野に惹かれていったに違いない。大野は年上の美女とはどうなったのか。別れたにせよ、そうでないにせよ、このしつこい蛇女を大野が本気で好きとは思えない。
「そうですか」
 美咲は投げやりな返事をした。
「よかった。近くに同じ境遇の人がいて。ねえ、友達になりましょうよ。今度ここに遊びに来てもいいかしら?」
 冗談じゃない、と思ったが、あからさまには言えない。
「そうですね。いつか……」
「あらいやだ。あたしったら名前も言わないで。川畑泉美です。同じ学年だったら敬語を使うことないわよね。泉美ちゃんって呼んでね」
 女は勝手に嫉妬して、勝手に浮かれて、勝手に名乗った。
「イズミちゃん、ですね」
「私が名乗ったんだから、あなたも名乗ってよ」
「佐倉美咲です」
「サクラ、ミサキちゃん、ね。よろしくね」
「あの、彼氏が心配じゃないですか?すごい迷惑かけて、なんか、あたしが邪魔しちゃったみたいで、ほんとにすみませんでした。助かりました。ありがとうございました」
 美咲は心の中で「いい加減に帰れ」と怒鳴りながら、口では丁寧に言った。
「敬語は使わなくていいって言ったじゃない。それにしても偶然が多いわね。あたしの彼氏もミサキちゃんと同じ、白鷺大学文学部仏文科の一年生よ。大野誠治くんっていうんだけど、知らない?」
 女はついに大野の名を出した。この女のために、この女を気づかって、見知らぬ他人同士を演じたのに。
「仏文科はわりと人数が多いから、全員は知らないかも……」
「三十人しかいないんじゃないの?彼も、ミサキちゃんを知らないみたいだったけど、おかしいわね。たった三十人のクラスにこんな美人がいたら、絶対に気づくと思うけど」
「クラス仲が良くないんですよ。みんなそれぞれ独立してるみたいな感じで。しかもあたし、授業を結構サボってますし」
「ほんと、帽子が似合うわね。ミサキちゃん」
「ありがとうございます」
「じゃあ、彼が待ってるから行くわ。ミサキちゃんのこと、話してみるわね」
「じゃあ、これで」
「仲直りできるといいわね。危ない彼氏と」
 ようやく、やっとのことで、泉美が腕を離した。ドアの前から立ち去り、階段を降り、そして走り去ってゆく音が聞こえた。美咲は力が抜け、ドアの前に崩れるように座り込んだ。ほーっと大きなため息が出た。腕が痛みのあまり麻痺して、感覚がなくなっている。泉美の姿が見えなくなり、気配もなくなったのを確認してから、立ち上がって、鍵を開けて部屋に入った。ドアを閉めて鍵をかけ、チェーンをかけて、もう一度大きくため息をついた。喉が渇き、おいしくない水道水を一気に飲んだ。疲れて部屋のカーペットの上に座り込んだ。
「カワバタ、イズミ」
 女の名前を呟いてみた。ここから徒歩五分のところに住んでいる。今後はきっと、近所でも、キャンパスでも、頻繁に顔を合わせることになるだろう。こちらが無視しても、必ず声をかけてくるだろう。この部屋に勝手に来る危険性もある。
「痛い……」
 腕の感覚が戻り、袖をまくると、真っ赤な爪痕が深く刻み込まれていた。時刻は夜十一時になろうとしていた。
 あれから一時間近くが経つ。大野と坂本はどうなったのだろうか。
 

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