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二十年の片想い 75

 75.
 真央は、部員名簿の楓の欄に記載された住所を読み上げながら、タクシーの運転手に行き先を告げた。真央も瑞穂も、楓の部屋に遊びに行ったことなど一度もなかった。白鷺大学と同じ市内なので、そう遠くはないはずだった。助手席に真央が座り、後部座席に眠った楓を乗せて、隣に瑞穂が座った。
 演劇棟の外でタクシーを待つ間、瑞穂が楓に「逆催眠術」をかけてみたら、楓は再び眠ってしまったのだ。タクシーの中で「だんなさまはどこ?」などと泣かれたりするよりマシだと、眠らせたまま乗せた。身体が小さくて軽い楓を背負って乗せることは難しいことではなかった。
 タクシーは夜の広大なキャンパスを抜け、車の通りも建物の明かりも少ない裏街道を、静かに走っていった。楓は何も知らぬまま、瑞穂の右肩に頭を乗せて、赤子のようにすやすやと眠っていた。
 二十分ほど走ると、密集した住宅街に入った。目的地が近づいてきたらしい。
「住所はこの辺りですが、どこですか?」
「○○ハイツっていうんですけど……」
 運転手に聞かれても、二人とも詳しい場所などわからなかった。一人暮らしの学生向けアパートらしき建物はいくつもあり、歩くほどのスピードで運転してもらいながら、瑞穂と真央は目を凝らし、外灯の明かりを頼りに楓のアパート名を探した。
 真央が不意に、ある一軒家の門柱に書かれた番地を見つけた。
「たぶん、あれだと思います」
 その家の隣には、今まで目にしたどの建物よりも、ボロくて今にも崩れそうな感じの二階建てのアパートが、お化け屋敷のように、夜の闇の中に浮かび上がっていた。運転手は車を止めた。
「もう一度大学に戻るので、ここで待っててもらえますか?」
「わかりました」
 タクシーを降りると、真央は念のため一軒家の住人に楓のアパートの場所を確認しようと、門を入って呼び鈴を鳴らした。中から感じの良さそうな中年の女性が出てきたので尋ねると、「あれがそうですよ」と教えてくれた。礼を言って門を出て、楓をおぶって待つ瑞穂にうなずいた。
「家賃は安いって聞いてたけど、これは相当古いね」
「楓って、すごいお嬢様かと思ってたけど、そうでもないんだね」
 瑞穂と真央は、ところどころにひびの入ったコンクリートの階段を、一段一段慎重に登っていった。
「ここだ。表札は出してないんだね」
 瑞穂は楓の部屋番号を確認した。
「鍵……ちょっと失礼」
 真央は楓のカバンを開けて、ちりんと鈴の音がする辺りを探り、鍵を見つけた。大きめの鈴がついた鍵を、鍵穴に差し込むと、カチャリと音がして、すぐに開いた。
「お邪魔しまーす」
 真央がドアをそっと引いて先に入り、手探りでスイッチを見つけて、明かりをつけた。壁や床そのものは決してきれいではないが、一畳ほどのキッチンは掃除がいき届いていた。流しもきれいに磨かれ、食器の一つも置かれてなく、全てが食器棚にきちんとしまわれていた。靴を三足置くのがやっとの狭い玄関に、真央はそっと靴を脱いで床に足を踏み入れ、瑞穂の背中で眠る楓の小さな靴を脱がせて下に並べ、瑞穂が次いで靴を脱いだ。
「失礼しまーす」
 真央はキッチンと部屋を仕切るドアをそっと開けて中へ入り、部屋の明かりをつけた。
「うわ。すっごいきれいに片づいてる」
 瑞穂が思わず大きな声をあげた。
「ほんと。何一つ出しっぱなしがない。全部しまってある」
「ホコリ一つ落ちてないよ。毎日掃除してんのかなあ?」
「きれいだけど、なんか寂しい部屋だね。花を飾るとか、かわいい置物の一つぐらい飾ればいいのに」
「あっ、夏の公演のポスター貼ってあるじゃん」
「懐かしい感じがするね。これだけが唯一、部屋を明るくしているね」 
 壁も天井も年季の入った、古めかしい六畳の和室だった。冷暖房装置はついていない。窓にはセンスのかけらも感じられない地味なカーテンがびしっと閉められていた。カーテンレールには洗濯ばさみつきの物干しがかけてあったが、洗濯物は一つも干されてなかった。畳も切れているところが目立つが、部屋の中央には二畳ほどの大きさの、これまたセンスのかけらも感じられない地味なカーペットが敷かれ、その上に炬燵を兼ねる四角のテーブルが置かれていた。炬燵の布団はまだ出されていない。襖のところどころが剥がれたり破れたりした押し入れがあった。部屋の奥には、黒のラックの上に十四インチの小さなテレビと、昔ながらの黒のダイヤル式の電話機が置かれていた。ビデオデッキはない。ファスナーで開閉する衣類収納タンスがあった。無駄に高さだけがある大きな本棚が、威厳もなくのっそり置かれていた。ベニヤ板でできた、見るからに安っぽいもので、中は空きスペースが多く、大学の教科書らしき本や辞書、高校時代の教科書らしき本が几帳面に並べてあるだけで、小説や漫画本、雑誌の類いは一冊もなかった。目覚まし時計があったが、それも無味乾燥なものだった。時刻は八時四十五分だった。CDラジカセやオーディオなど、音楽を聴く装置は何もなく、CDやカセットテープも一つもなかった。きれいに片づきすぎて、何もなさすぎて、瑞穂と真央にとっては、居心地が悪い部屋だった。
「布団、出さなきゃね。ちょっと失礼しまーす」
 真央がそっと押し入れを開けて、急いで布団を敷いた。寝心地の悪そうなお粗末な布団だった。敷き布団は二枚あったが、薄くて硬いせんべい布団だった。毛布も掛け布団も薄かった。枕も硬かった。
「楓ー。おうちに着いたよー。おねんねしようねー」
 瑞穂は、背中でぐっすり眠り、一向に目を覚ます気配のない楓を、布団の上にそっと寝かせた。真央が毛布と掛け布団をそっとかけた。
「うふふ……」
 静まり返った部屋の中に突然、楓の笑い声が響いた。二人は驚いたが、楓は寝たまま笑っていた。
「だんなさま……すきです……ふふ、ふふふ……」
「まったく、人の苦労も知らないで、何幸せな夢見てるんだか」瑞穂談。
「腹立たしいけど、一応、勝手に入ったわけだし、何か書き置きしていかないとね」真央談。
 電話機の横にメモ帳もないので、仕方なく、本棚の中からルーズリーフを見つけて一枚取り出し、ペンも見当たらないので、楓のカバンをもう一度開けてペンケースを取り出した。
「なんて書こう?」
 二人で少し考えて、真央が文面を書いて、テーブルの上に紙を置いた。
「あとは、鍵を郵便受けに入れれば大丈夫だよね」瑞穂談。
「じゃあね、楓。ぐっすり眠って、ちゃんと楓に戻るんだよ」真央談。
「うふふ……だんなさま、すきです……」
「心配してんのに、ここまでしてあげてんのに、何なの?この子。もう知らない。いつまでもマリーでいればいいじゃん。行こう。瑞穂」
「そうだね。まだ仕事が残ってるもんね。すやすや眠っている誰かさんのせいで、余計にね」
 瑞穂と真央は、見ているだけで腹立たしくなる楓を部屋に残し、照明を消してドアに鍵をかけて郵便受けに入れ、アパートを去った。
 待たせてあったタクシーに乗り、キャンパスに戻ると、どっと疲れが出た。だが、演劇棟に入ると、廊下で個人練習している部員や、大道具を製作している部員、すれ違う部員が、「お疲れさま」、「大変だったね」と、労いの言葉をかけてくれて、二人はすぐに元気を取り戻した。場面の稽古は休憩に入ったのか、宮本ともすれ違った。麗子に事情を聴いたという宮本は、「ご苦労さま。ありがとうね」と、温かい缶コーヒーをご馳走してくれた。二人はやる気が出て、衣装製作の続きを、より集中して行った。十一時とかなり時間がずれ込んだミーティングが始まる前に、市村と麗子に、楓を無事に家まで送り届けた旨を報告した。タクシー代として麗子が出してくれた一万円は、おそらく後から市村に出させたのだろう。市村におつりを返そうと思ったが、市村はそんな「小さな」お金は受け取らないだろう。市村は大金持ちの息子で、一万円など庶民の百円に等しいと、噂で聞いて知っていた。市村の住所も都内の超高級住宅地だ。なので、麗子が言ったように、瑞穂と真央は、帰りにおいしい夕食を食べに行くことに決めた。「催眠術用」の五円玉は、次回の稽古で楓に会うのはおそらく自分たちが最初だからと、もしかしたら使うことがあるかもしれないと、そのまま受け取っておいた。麗子が労いの言葉をかけてくれたことも嬉しかったが、それ以上に、市村の「ありがとう」に、瑞穂と真央は、ほうっとため息をついた。ただし、楓と違って、あくまでも憧れのスター俳優としてだが。
 良く言えば純真無垢、悪く言えば世間知らずで単純脳細胞の楓は、果たして目を覚ました時、マリーのままなのか、それとも秋山楓に戻るのか。いずれにせよ、フランソワ旦那様であれ、市村雅哉であれ、美しい顔をした王子様を「好き」だと、「恋」を決定づけたことに変わりはない。
「だんなさま、すきです……」
 楓はどんな夢を見ているのか、幸せそうな顔をして眠っていた。十月も終わろうとしている頃、楓は、魔の美貌に魂を奪われ、そうとも気づかずに「恋する幸せな乙女」となった。大野誠治のことは完全に消えたのだろうか。心の奥底に広がる綺麗な青色の湖は、市村の魔術によって、完全に消されてしまったのだろうか。それは、目が覚めた時に初めてわかることだ。

  *    *    *

 この日の恥ずかしい記憶は、二十年経った今でも、確かにある。テレビや新聞を見る度、嫌でも思い出さざるを得ない。市村は決して超能力者や霊媒師の類いではない。生身の人間である。だが、あの絶世的な美貌には、見ているだけで「恋をしている」と思わせる、不可思議な力が確かに潜んでいる。単純な女は、その力に逆らうことなどできない。恋愛術に長けた女でさえ、時に逆らえないこともある。日本芸能界のトップスター俳優、紫咲麗人(むらさきれいと)、本名市村雅哉は、今も昔も、女性の噂が絶えたことはない。泣かされた女優、歌手、タレント、モデルなどは、十代から四十代、五十代までと年齢層も広く、数も計り知れない。大学時代の演劇サークルの同期Aさん(これは麗子のことだが)と、密かに結婚しているとの噂もあるが、真相は定かではない。いずれにせよあの日、いとも簡単に美貌の魔術にかかってしまった私は、情けなくも本当に自分をマリーという架空の人物だと思い込んでしまった私は、元をたどれば大野誠治への恋心を真っ向から否定してしまった私は、救いようのない愚か者としか言いようがない。

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