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二十年の片想い 69

 69.
 そんな楓の痛いぐらいの切なさになど、大野はもちろん気づかない。大野にとって今日の楓は、大雨の中で幸運にも出会えた「傘」にすぎなかった。楓の印象はせいぜい、普段はほとんど喋らず、存在すら忘れてしまいそうな、小さな子供みたいな女の子だが、一対一なら意外と喋るではないか、その程度だった。楓と別れるとすぐに大野の頭は、泉美へと切り替わった。文学部棟に入ると、濡れた髪も服も気にせず、いつものように悠然と歩き、大教室へ向かった。真面目な泉美はすでに教室にいて、席に着いてそわそわしていた。
「おはよう、泉美ちゃん。ごめん、遅くなったね」
 大野はやさしく声をかけた。
「誠治くん。ありがとう。来てくれて嬉しい。遠いのに、わざわざごめんね」
 泉美は大野の姿を見るなり、涙さえ流しそうに、澄んだ目をして喜んだ。そんな泉美を、大野はいとおしいと思った。
「濡れちゃってるね。傘、持ってこなかったの?」
「途中で運良く友達に会って、入れてもらってきたよ」
「友達?」
 泉美の目に、少し嫉妬の色が浮かんだ。
「安心してよ。男だから」
「そう」
 泉美はあっさりと信じた。澄んだ目を騙すことにはちょっとだけ罪悪感があるが、今後も香菜のことを隠すために、嘘をつかなければならない場面がいくつも出てくるだろう。仕方のないことだ。香菜は香菜。泉美は泉美なのだ。
「よかった。タオル持ってきて。誠治くん、風邪引いちゃうよ」
「ありがとう」
 泉美はカバンの中から淡いグリーンのタオルを取り出し、そっと渡してくれた。柔軟剤の匂いがする、やわらかい、やさしいタオルだった。そんな風にさりげなく気づかってくれる泉美を、いとおしく思えた。
「こっちこそありがとうね。哲学、なんとなく興味があって選択したのはいいんだけど、クラスで誰も取ってる人いないし、ぜんぜんわからないし、先生怖いし。前期のテストもすごく大変だったの」
 高村も同じことを言っていたと思い出し、ふと顔を上げると、驚いた顔をした本人が教室の入り口に立っていた。目が合うと高村は、「うまくやれよ」と目で伝え、大野も「サンキュ」と目で返した。泉美が気づかない、ほんの一瞬の目配せだった。高村は気を利かせて離れた席に座ってくれた。
「教科書貸して。ロビーで読んでるから」
 大野は何事もなかったように、泉美にやさしく言った。
「できれば、一緒に授業を受けてほしいんだけど……」
「この大きな教室にたった十人だと、余計なやつがいたらすぐにばれて、怖い先生に怒られるよ」
「それもそうだね。じゃあ、お願い」
 泉美はその教授が書いた、難解で意味不明だという分厚い学術書の本を、大野に渡した。
「授業が終わったらすぐ行くから」
「じゃあ、俺は一旦退散するね」
 授業開始五分前になると、大野は泉美の本を手に、急いで教室を出た。奇跡的に三つの必修科目の授業が全て休講となったこの日、大野がわざわざこの時間にキャンパスへ来たのは、泉美が難しくてわからないと嘆く、一般教養科目(選択制)の哲学の授業の内容を、教科書(教授の書いた学術書)を読んで理解して、泉美に教えるためだった。もちろん、その後はデートだ。泉美への「授業」が終わったら、昼食を学生食堂で食べて、都心へ出て、いつものように、映画を観て、泉美の買い物につきあい、少しだけ豪華な夕食を共にして、楽しくお喋りする、そんな予定だった。大野は文学部棟内のロビーに来ると、自動販売機で温かいブラックコーヒーを買った。ソファに腰掛けて濡れた髪をざっと拭き、コーヒーを飲み、煙草を吸いながらゆっくりと本を開いた。もともと頭脳明晰な大野は、どんなに難解な本でも読むのが速く、内容もおおよそ把握できた。九十分もあれば余裕で読み終え、二本目の煙草を悠然と吸いながら、泉美が来るのを待った。
 やがて授業を終えた泉美がロビーに姿を現し、大野を見つけると笑顔で駆け寄ってきた。
「お待たせ。あ、タオル……」
 泉美は大野が使ったタオルを受け取ろうとした。
「洗って返すよ」
「そんな堅苦しいことしなくていいよ。まとめて洗濯しちゃうから」
「ありがとう。悪いね」
 泉美はタオルを受け取ると、丁寧にたたんでカバンの中にしまった。
「あ、わかった?っていうか、読めた?その本」
「読んだよ。今日はどの辺りを?」
「全部読んだの?九十分で?ほんとに?」
「ほんとだよ」
「すごい。誠治くん、やっぱり頭いいんだね。あ、今日はね……この辺りかな。ぜんぜんわかんなかった」
 泉美は本の目次のページを開くと、ノートに書いた言葉が載ったタイトルを指差した。
「ああ、ここ……要は、こういうことだよ。つまり……」
 大野は泉美の指定するページを開くと、勉強熱心な泉美のために、ゆっくりと説明を始めた。高村の姿が見えた。目が合うと、「俺にも教えろ」「了解」と目線を交わし、高村は傘置き場から自分のを取ると、黙ったまま文学部棟を出て、強くなった雨の中を歩いていった。この間一秒、泉美は何も気づかない。大野も何事もなかったように、泉美に丁寧に教えていった。泉美は大野のわかりやすい「授業」を真剣に聴きながら、新たにノートを書いていた。
「ありがとう。助かったよ。すごい。よくわかるね、こんな難しいの」
「ポイントを押さえれば、だいたいわかるよ」
「私なんて、どこがポイントかもわかんないよ」
「わかんなければ、また聞いて」
「ほんとにありがとう。意味不明だった暗闇の世界に、一筋の光が見えたよ」
 個人授業が終わると、大野は今度は泉美と一緒に傘に入って、文学部棟を後にした。もう一人の恋人、香菜は経済学部であり、同じ棟にはいないので安心だ。今日の奇跡の休講のことは、香菜には言っていない。四年生である香菜は卒業論文が忙しいため、月曜日から図書館か研究室にこもり、勉強に集中するという。もうすぐ図書館前に差しかかる。読書家の泉美は、おそらく立ち寄るだろう。
「ねえ、ちょっとだけいい?私、借りたい本があるんだけど」
 予想どおりだった。
「じゃあ、俺はその間、デート代をおろしてくるよ。財布に二百円しかなくなった」
 大野はさりげなく言った。香菜が図書館にいた場合、鉢合わせなどしたら面倒なことになる。
「二百円?それじゃあ、何もできないね。わかった。私も一緒に行くよ」
 泉美はくすっと笑いながら言った。
「待ってる時間がもったいないよ。早く本を借りておいでよ」
 大野はキャンパス内のATMの前に十人近くの学生が並んでいるのを指した。
「そうだね。わかった。じゃあ、傘、使ってよ」
「ありがとう」
 泉美は笑顔を残し、走って図書館へ入っていった。大野は泉美の傘を差してATMまで行った。泉美とつきあい始めて二週間になる。香菜との二股は今のところばれておらず、順調だ。美咲が近くにいると、どうしてもまぶしくて、美咲ばかりを見てしまうが、泉美と二人だけでいると、時に「美咲だったら」と比較してしまうこともあるが、基本的には泉美は泉美で、美咲とは違った安らぎを感じて、落ち着いた二人だけの空間を作ることができて、美咲を思い出すこともほとんどない。ATMでしばらく待って、高校時代から続けているアルバイト代の貯金の中から一万円だけをおろした。二百円などもちろん嘘で、図書館へ行かないための口実にすぎなかった。財布の中にはすでに二万円が入っていた。多くても特に困りはしないので、とりあえずおろした。明細書は捨て、お札を財布に入れて外へ出ると、図書館から出てくる香菜の姿を見つけた。ぎくりとして、急いで傘で顔を隠した。泉美の傘は群青色で、裏面に星空と星座らしきものが描かれた洒落たものだったが、表面は無地だった。表面だけを見る限り地味で、それでかえって助かった。明らかに女物とわかるようなピンクや花柄などの傘を男が一人で差していては奇妙に映る。ピンク色の花柄の傘を差した香菜はATMへ来ることはなく、経済学部棟へと歩いていった。大野はほっとした。それから図書館前まで行ってしばらく待っていると、泉美が走って出てきた。
「ごめんね、待たせちゃって。なかなか見つけられなくて……」
「慌てなくてよかったのに。何冊借りたの?ずいぶん重いね」
 大野は泉美に傘をかけると、さりげなく泉美の手からカバンを持った。
「ありがとう。ハードカバーのを五冊と、レポート提出用の本……」
「相変わらずよく読むね」
「あ、そうそう。今さっき、図書館の中で香菜先輩に会ったよ」
 泉美はそう言い、一瞬、大野の反応をうかがうような目をした。香菜と何を喋ったのか、二股を知って探ろうとしたいるのか。
「ああ、藤田さん?一回だけ、部室に行った時に喋ったことがあるよ」
 大野はとりあえず、さりげなく誤魔化してみた。
「卒論がすごい大変だって。これから教授のところに行くんだって。せっかくできた新しい彼氏ともあんまり会えないって、嘆いてたよ」
 泉美はじっと反応をうかがっている。彼氏という言葉に心臓が少しぴくっとしたが、動揺を悟られるような大野ではなかった。ポーカーフェイスにも、冷静さにも自信があった。
「卒論か……俺たちも四年の今頃は嘆いているのかな。原稿用紙五十枚って言ったっけ?」
「がんばらなきゃね。卒論のテーマは早く決めておいて、早く取りかかるに越したことはないってよ」
「でもまだ、俺たちは一年だよ。卒論のことなんて、四年になったら考えればいいよ」
「そんなこと言ってると、あっという間に四年生になるんだってよ。学年が上がるにつれて、時間の経つのが早く感じるようになるんだって、香菜先輩、言ってた」
 泉美は香菜の話題を変えない。確かに、何か感づいたようだ。それでも、泣いたり怒ったり責め立てたりする様子はない。澄んだ目が、まっすぐ、すがるように、こちらを見ている。二股を知っても、構わずにつきあいたい、そういうことか。
「とりあえず、メシ行こうか。昼は学食でいいの?」
 とはいえ、泉美が問い詰めない限り、わざわざ自分から言う必要はない。適度な間を置いて、大野は話題を変えた。
「うん、行こう」
 泉美はいつもの笑顔に戻り、香菜の話をやめた。そしていつものように、軽く腕を組んできた。大野はさりげなく話を続けた。
「今日のおすすめランチは何だと思う?」
「うーん……今日あたり、ハンバーグ定食じゃない?」
「俺はそろそろ、から揚げ定食だと思う」
「から揚げは、つい最近なかったっけ?」
「いや、しばらくなかったと思う。じゃあ、賭けようか?はずれたほうがおごるってことで」
「どっちもはずれたら?」
「その時は、いつもどおり、平和に割り勘」
 会話をしているうちに、泉美が腕を巻きつける力が、いつもより強くなってきた。二度と離れないと、しっかりしがみつくように。ふと、左手に持ったずしりと重いカバンと共に、身体にかかる負荷が急に大きくなったような気がした。正確には、身体ではなく、心に。初めて泉美を「鬱陶しい」と感じた。
「ねえ、誠治くん」
 泉美が突然、腕を強く引っ張って立ち止まった。
「夕ごはん食べたら、今日、私の家に泊まっていかない?」
 泉美の目は懇願するようにまっすぐで、その声にも、決意が込められていた。おそらく、香菜のことを知って焦っているのだろう。
「明日の授業は、二人でサボっちゃおうよ。たまには悪いこともしてみたい」
 青く深い湖に、泉美が自ら飛び込んでこようとしている。泉美とそういう関係になれば、香菜は必要なくなるかもしれない。二股という「不誠実な」ことを、わざわざする必要もなくなる。
「泉美ちゃんがそう言うのなら、喜んで」
 泉美一人で満足できるようになれば、それがベストだと大野は考え、やさしく答えた。泉美は安心したように、腕を握る力を弱めた。
「今日のおすすめデザートは何だと思う?」
 泉美が初めて、少し色のある声を出して、色のある冗談を言った。悪くないと、大野は思った。
「甘さ控えめの、大きなプリン?」
 クリーム色のカーディガンにダークブラウンのスカート。色のイメージで思いついただけだが、泉美は嬉しそうな顔をした。
「よかった。いちご大福とか言われなくて」
「白い帽子をかぶって、色とりどりの花飾りをつけたら、もっと豪華な、プリンアラモードになるね」
 何気なしに冗談の続きを言うと、泉美の手に再び力が入った。
「シンプルイズベスト。普通のプリンでいいのよ」
「そう?」
 大野は、泉美の心の奥のどす黒いもやもやには、全く気づいていなかった。泉美と二人で、やっと前に進むことができる、そう信じて、少しの鬱陶しさには目をつぶった。

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