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二十年の片想い 76
76.
十月も終わろうとしている、雨上がりの匂いがする秋の水曜日の夜、大きな変化が起こったのは秋山楓だけではなかった。この夜は、大野誠治にとっても、生涯忘れることのできない劇的な一夜となる。
午後十時すぎ、大野は新しい恋人、川畑泉美とともに、都心でのデートを終え、再び郊外の白鷺大学方面へ向かう特急電車に三十分ほど乗り、大学最寄り駅で各駅停車に乗り換えてさらに十分、泉美の住むアパートの最寄り駅に到着した。ホームに降り立つと、時間も遅いせいか、降りる乗客はまばらで、吹き抜ける風もどこか寂しげだ。泉美と腕を組んで階段を降り、改札口で超過分の運賃を支払った。通学用定期券は自宅の最寄り駅から大学の最寄り駅までで、泉美の最寄り駅にはそこからさらに数駅、郊外のほうへ行くのだった。
駅を出た。駅前には店という店もなく、ひっそりと静まり返った住宅街だった。家路を急ぐ数少ない靴音が、雨上がりの鈍い夜空に響き、やがて遠くへ消えていった。
「家まで歩いて十分ぐらいよ」
「いいね。電車一本で、大学に近くて」
「誠治くんも一人暮らしすればいいのに。いつもおんなじこと言うけど、二時間以上かけて通学するなんて、私には信じられないよ。すごく大変でしょう?」
「俺もおんなじこと言うけど、慣れればどうってことないよ。電車で寝てればあっという間だから。訓練の甲斐あって、最近はつり革につかまって立ったままでも寝れるようになったよ」
「ごめん。そうだったね。それが特技の一つになったんだもんね。誠治くんは、自分の町が好きなんだもんね」
「ああ。何もないけど、東京と違って空気が澄んでるし、星が綺麗に見えるし」
「東京って言っても、ここは郊外だし、何もないよ。家賃が安いから決めたんだけど、ちょっと不便。一番近いスーパーまで、歩いたら二十分ぐらいかかっちゃう」
「確かに、静かな町だね。夜遅くなった時、一人で歩くのは危ないんじゃない?」
「だから、駅から近いところにしたの。なるべく早く帰るようにはしてるけど、今日は誠治くんがいてくれるから安心」
映画好きで、読書家で、勉強熱心で、真面目で頭の堅いイメージの泉美だが、今日はいつになく、わざとらしいぐらい色のある声で話し、大野の右腕にしっかりと自分の左腕を絡ませていた。初めて男を家に招き入れる、そのことに気分が高揚しているのか、緊張しているのか、どきん、どきんと、大きく早打ちする泉美の心臓の音が、腕から伝わってくる。
泉美はいつも地味な服装をしているが、今日買った服は、胸元が広く開いているシャツだったり、丈の短いスカートだったりした。泉美にはあまり似合わない気がしたが、本人はいたく気に入ったようなので、「よく似合うよ」と言ってあげた。いつもは食事代を割り勘にしているが、今日は「たまにはご馳走してよ」と、おねだりするので、違和感はあったが泉美の分まで支払った。いつもは酒を飲まないのに、今日は「意外と強いのよ」と、ワインを二人で飲んだ。
泉美は今、ほろ酔い加減だ。大学の図書館から借りたハードカバーの本が数冊入った泉美のカバンと、都心のデパートで買った服などが入った大きな紙バッグは、大野が左手に持っていた。正直、荷物はかなり重い。泉美は傘だけを持って、映画「ティファニーで朝食を」(1961年アメリカ)の主題歌「ムーン・リバー」をハミングしながら歩いていた。
大野はそんな泉美を眺めながら、そっと聞いた。
「コンビニはある?」
今日になって泉美の誘いを受けて、泉美の部屋に泊まることになった。なにかと買うものがある。
「コンビニはちゃんとあるよ。それだけは助かってる。もう少し行けば……」
泉美がそこまで言った時だった。暗い前方から、男女が言い争う声が聞こえた。しばらくして、一人の女がこちらに向かって走ってきた。
「助けてください……!」
怯えたその声の主の顔を見た時、いつも冷静な大野の心臓も、さすがに飛び出しそうになった。どんな偶然なのか、それは、この世で誰よりもまぶしい、愛しくてやまない女(ひと)、佐倉美咲だった。大野は危うく名前を呼びそうになったが、泉美の手前、かろうじて声を抑えた。内心は美咲に何があったのか心配で、震えるその身体を抱きしめたい衝動に駆られたが、まさかそのようなことはできない。ひと呼吸置いて、見知らぬ人物を装って、美咲に尋ねた。
「どうしたんですか?追われているんですか?」
美咲も一瞬驚いた顔をしたが、大野が恋人と腕を組む姿を見て遠慮したのか、大野と同じように見知らぬ人物を装って答えた。
「はい、ちょっと……」
美咲の後方から、大声で美咲の名を呼ぶ男の声と、追ってくる足音が聞こえた。おそらく美咲と同じテニスサークルの彼氏だろう。だが、美咲の怯え方を見ると、ただの喧嘩ではなさそうだ。美咲の身が危険だと感じた。美咲を助けたい。大野はすぐにそう思った。その瞬間、大野の頭の中は美咲で溢れ、腕に絡みつく泉美が邪魔となった。
「ひとまず隠れて」
大野は知らず知らずのうちに、泉美の腕を振り切るように離して右手を自由にして、美咲を電柱の陰に隠した。そこはちょうど、人ひとりがやっと通れるぐらいの狭い道になっていた。急に腕を離された泉美が泣きそうな顔をして立っていたことに気づき、「危ないから隠れて」と、取ってつけたように、泉美を美咲と同じところに隠した。美咲をこんなに怯えさせるとは、いったいどんな男なのか、すぐにでも直接対決してもいいが、事情も知らずに早まった行動は取れない。ひとまず自分も隠れて様子を見ることにした。狭い路地に、大野を先頭に、美咲、泉美と、三人が縦一列に並ぶように隠れた。
「美咲、どこ行ったんだよ……」
美咲の恋人らしき男が、探しながらうろうろ歩いていたが、隠れた三人には気づかず、離れていった。一七〇センチほどの痩せた男だったが、顔はよく見えなかった。男が遠くに離れてから、大野は美咲にそっと気づかうように言った。
「大丈夫ですか?」
「すみません。ありがとうございました」
「これから、どうしますか?」
こんなにそばにいるのに、見知らぬ他人でいなければならないことが、もどかしい。抱きしめて、「もう大丈夫だよ」と言ってあげたい。美咲を守るためならば、なんでもしてあげたい。
「警察に行けばいいじゃないですか」
泉美が突然、美咲に向かって、今まで聞いたことがない、棘のある冷たい口調で言った。大野は驚くと同時に、泉美に対して激しい嫌悪感を覚えた。
「いえ、そこまでしなくても大丈夫です。家はすぐ近くなので、隙を見て逃げて帰るつもりなんですが……」
美咲は困惑した様子で答えた。
「だったら、さっさと行ってくださいよ。私たちは関係ありませんから」
「そういう言い方はよせよ」
大野は思わず泉美を窘めた。
「困っている人に対して、そういう冷たい言い方はないだろ」
感情的になってしまった自分を訂正するように、大野は冷静に言い直した。
「彼氏なんですよね。名前で呼んでましたもんね」
それでも泉美は口調を変えず、無遠慮な質問を美咲に浴びせた。
「ええ、まあ……」
「喧嘩でもしたんですか?」
「ちょっと……」
「だったら逃げるなんておかしいじゃないですか。こそこそ隠れてないで、ちゃんと話し合ったらどうですか?」
「それがちょっと……」
「彼氏を放っておいていいんですか?」
困惑する美咲をおもしろがって見るように、泉美は次々と聞いた。
「知らない人に向かってあれこれ聞くのも失礼だろ」
大野は耐え切れず怒鳴った。大野の知っている泉美は、こんな意地悪な人間ではなかった。電車ではお年寄りや妊婦に席を譲ったり、券売機で切符を買う順番を、急ぐ様子の人には先に譲ったりと、他人に親切なはずだった。今、このような本性を見せられて、イメージは急降下した。
「あの、邪魔をしてすみませんでした。大丈夫ですので、なんとか見つからないように帰りますので……」
美咲も耐え切れなくなったのか、申し訳なさそうに言い、立ち去ろうとした。だが、ミニスカートからのぞくすらりとした細い足は、まだ震えていた。泉美など無視して家まで送ってあげたかった。
「みさきー。どこ行ったー」
その時、美咲の恋人なる男がこちらに戻ってくるのが見えた。美咲はびくっと肩を震わせ、走ろうとしてよろめき、民家の塀に手をついた。
「泉美ちゃん。その人を家まで送ってあげて。俺はあの男を引き止めるから」
大野はとっさに命じた。男の様子が正常ではなく、美咲に危害を加えかねなかった。事情は美咲に後日聞くとして、今日はとりあえず、美咲を男から引き離し、逃がしたほうが安全だと判断した。意地悪な女と化した泉美に預けるのは気がかりではあるが、誰かの支えがなければ美咲は倒れてしまいそうだった。泉美は不躾なことを言うかもしれないが、手を上げたりはしないだろう。
「わかったわよ。さあ、行きましょう」
泉美は棘々しく言い、美咲の腕を支えた。
「……ありがとうございます」
「こっちでいいんですか?」
「ええ……」
答える美咲の声は明らかに不愉快そうだったが、「少しだけ我慢して」と、ほんの一瞬だけ美咲の目を見て、美咲も「ありがとう」と目で返してくれた。この間コンマ一秒、泉美は気づかない。
「みさきー。どこだー。みさきー」
男の声が夜の住宅街に響くと、美咲は心配そうな目を向けてきた。
「知り合いのふりをして声をかけますから、安心してください」
大野がそう言って歩き出そうとすると、美咲が不意に声をかけた。
「あの、気をつけてください。ちょっと危ない人かもしれません……」
美咲は切羽詰まったような顔をして言った。
「大丈夫ですよ。面識のない人なら、どうにでも誤魔化せますから」
大野はあくまでも見知らぬ他人を装いながら、美咲を安心させるように言うと、電柱の陰の狭い道から広い通りに出て、ついに対面すべく、美咲の恋人なる男に向かって、勝負を挑むように歩いていった。