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二十年の片想い 81
81.
本当は好きでたまらない大野と、本当は憎き恋敵である美咲が、運命的な夜を過ごしているとはつゆ知らず、秋山楓は一人、ニタニタ笑って眠っていた。
「旦那様、好きです」
「マリー。僕も君のことが好きだよ」
美貌の王子様が、すぐ目の前に立っていた。その目をじっと見つめて「愛」を告白すると、王子様も同じように告白してくれた。とても幸せな気分だった。
「旦那様。やっと私の想いが叶うんですね」
「フランソワって呼んでいいんだよ」
「フランソワ……なんだか照れてしまいます」
「かえでちゃん。君はどんどん美しくなるね。美しい白鳥が翼を広げて、大空へ優雅に羽ばたく、そんな光景が今にも見えそうだよ。かえでちゃん。君の成長ぶりは素晴らしいよ」
「そんな……でも、嬉しいです。市村先輩」
「よく似合うよ。その純白のドレス。ダイヤのネックレスも君の輝きにぴったりだよ。化粧もだいぶ上手くなったね。君は、この世で誰よりも美しい、貴婦人だよ」
「ほんとだ……私はなんて美しいんでしょう」
市村雅哉が褒めてくれる。大きな鏡をのぞき込むと、華麗に変身した私が映っていた。
「ヘアスタイルを変えてみると、もっと美しくなるよ。こんな風に」
市村の長い指が私の髪に触れると、ストレートで重かった黒髪はたちまちにして、お姫様のような金髪の縦ロールヘアに変わった。
「これで完璧だ。僕の妻にふさわしい」
「市村先輩と、結婚……?」
「もうすぐ挙式じゃないか。ほら、ウェディングベルの音が、僕たち二人を待っている」
「秋山さん」
ところが、聞こえてきたのはベルの音ではなく、男の声だった。
「秋山さん。どうしちゃったの?ヘンな格好をして。ぜんぜん似合わないよ、そんなひらひらのドレス」
その言葉は私の胸にぐさりと刺さった。だが、男の顔は見えなかった。声がどこから聞こえるのかもわからなかった。
「秋山さん。頭がどうかしちゃったの?まがい物のダイヤなんかつけて、厚化粧して、どう見てもおかしいよ。金髪なんてヘンだよ。くるくるパーマもヘン。顔までブスになってるよ」
声だけが、美しくなった私を無遠慮に責め立てる。
「秋山さん。目を覚まして。外見ばっかり取り繕ってもだめだよ」
「さっきから誰……?私は、この世で一番美しくなったんだから」
今度はがんばって反論した。
「秋山さん。わからない?その男は、秋山さんを着せ替え人形にして遊んでいるだけだよ。そんなの美しくもなんともない」
「かえでちゃん」
再び市村の声がした。
「さあ、式が始まるよ。そんな声は気にしないで、僕と行こう」
上品な紫色のベルベット生地の衣装を身につけた、卒倒しそうなほど美しい市村が、手を差し伸べてくれていた。その手に触れると安心した。男の声は消えた。ウェディングベルの音が、青い空に響き渡った。白い鳥たちが一斉に飛び立った。
「さあ、僕と一緒に羽ばたこう」
今度は市村と二人で、ふわふわした白い雲に乗っていた。緑色の草原、小麦色の畑、赤やピンクや黄色や白や紫色の花畑。メルヘンの世界のような風景を眼下に見て、空を飛んでいた。
「あれが、僕たちの家だよ」
ノイシュヴァンシュタイン城のごとき豪華なお城が見えてきた。
「かえでちゃんのために用意したんだよ」
私は感激し通しだ。
「かえでちゃん。愛してるよ」
「私もです……市村先輩」
「かえでちゃん。君はなんて美しいんだろう。見とれてしまうよ」
市村の言葉に酔いしれた。目の前には再び、大きな鏡が現れた。
「私も、自分で見とれてしまいます……」
レースやフリルがたくさんついた純白のドレスも、きらきら光るダイヤのネックレスも、真っ赤な口紅も、金髪の縦ロールヘアも、私によく似合っていた。本当に美しかった。
「こんなドレスはどうかな」
市村のひと声で、ドレスはあっという間にピンク色に変わった。
「かえでちゃんのために、バラの花びらで作らせたんだよ。かわいい貴婦人によく似合うよ」
私はわくわくして鏡を見ている。
「こんなのはどうかな」
今度は市村とおそろいの、紫色のドレスに変わった。ぐっと大人っぽい印象になった。
「かえでちゃんのために、すみれの花びらで作らせたんだよ。大人の貴婦人によく似合うよ」
そうだ。私はもう子供じゃない。
「かえでちゃん。君はもっともっと、美しくなれる」
楓はそこで目を覚ました。幸せの余韻が残り、顔がふやけたように笑い、よだれを垂らしていた。徐々に現実の感覚が迫ってきた。きらきら輝いていた世界は、真っ暗になった。市村の声も何の音も聞こえず、怖いくらい静かになった。ここはいったいどこなのだろう。ゆっくりと目を開けてみた。やはり真っ暗で、辺りは静まり返っていた。いつもの布団の感触があった。枕の感触もあった。どうやら自分の部屋らしい。いつの間に寝たのだろう。まるで記憶がなかった。ゆっくりと起き上がって、照明をつけるための長い紐を探して、引っ張った。明るくなった部屋を見渡した。カーテンが閉まっている。本棚がある。ファスナーで開閉する衣類収納タンスがある。テレビがある。確かに自分の部屋だ。本棚の中に置かれた時計を見ると、真夜中の三時を過ぎていた。なぜこんな時間に目を覚ましたのだろう。どうも身体が窮屈だと思ったら、パジャマではなく、大学へ行った時の服装のままだった。カバンはこたつテーブルの脇に置かれていた。いつの間に帰ってきたのだろう。必死で思い出そうとした。壁に貼った、演劇サークル「はばたき」の夏の公演のポスターが目に入った。十数人が写った部員の中で、一際美しい顔をした市村に焦点が行った。市村と二人で、大きな鏡の前に立っていたことを思い出した。それは、たった今見た夢でもあり、確かに現実でもそうしていた。場所は確か、演劇棟の外だった。
「旦那様……」
楓は劇中の言葉を呟いた。
「私は、マリー」
今度は自分の役名を呟いた。そうだ。演劇棟内の広い部屋、通称「舞台の間」で、一生懸命マリーを演じていたら、突然市村がやさしく手を取って、連れていってくれたのだ。二人きりで、どきどきして、とても幸せな気分だった。今見た夢を思い出した。市村が言ってくれた言葉を思い出した。
──かえでちゃんは、この世で誰よりも、かわいい貴婦人だよ──
夢だけではない。現実でも確かに市村は、そう言ってくれた。その甘い言葉に再び酔いしれて、楓はのへーっと笑った。布団から出て、洗面所へ行った。ところが鏡の中には、ぼさぼさの髪をして、ぼんやりした寝ぼけ眼で、口元にはよだれの跡が残る、なんとも間の抜けた顔をした子供が映っていた。楓はぶるんぶるんと頭を振った。
「違うもん。こんなんじゃないもん。この世で誰よりもかわいくなったんだもん。もっと美しくなるんだもん」
夢と現実をごっちゃにした独りごとを言い、服を脱いで風呂に入ろうとした。ところが浴槽のふたを開けると、冷たい水だった。
「はくしょん」
何も考えずに真っ裸になってしまった楓は、ようやく寒いことに気づいた。泣きそうになりながら、追い焚き式のスイッチを回して種火をつけ、風呂を沸かした。真夜中の部屋の中に、ゴオーと燃える、激しい音が響いた。沸き上がるまで時間がかかる。
「はくしょん」
このままでは風邪を引いてしまう。楓は脱いだ服をもう一度着て、しゃがんで丸まった姿勢で、風呂が沸くのを待った。やがて沸き上がると、張り切って浴槽のふたを開けた。あたたかい湯気が立ちのぼった。洗面器を入れ、浴槽の下部からかき混ぜた。お湯を身体にかけると気持ちが良かった。それだけで美しくなるような、魔法のお湯のように思えた。浴槽に入った。
身体がぽかぽかとあたたまり、のぼせそうになったところで浴槽を出て、洗面器にお湯を汲んで、石けんで丁寧に顔を洗った。お湯ですすぎ、頬を触ってみた。きゅっきゅっと、はじけるような音がした。やっぱり私は美しくなったのだと、楓は上機嫌になった。タオルに石けんをつけて、首から足の指先まで、ごしごしと丁寧に洗った。お湯ですすぐと、ぴかぴかの美しい肌になったと、満足した。シャワーが無いので、髪を洗うのは面倒で嫌いだったのだが、今日は違った。洗面器にお湯を汲み、目に入らないようぎゅっとつぶって、頭にかけた。三回繰り返すと、毛量の多い楓の髪も、全体が濡れた。リンスインシャンプーをいつもより多めに手に取り、髪につけて泡立てた。目をつぶったまま、ごしごしと丁寧に洗った。お湯を汲んで流し、それを十回繰り返した。タオルで拭いて洗髪は終了だ。
頭のてっぺんから足の先まで美しく生まれ変わったのだと、楓は上機嫌で風呂から上がり、身体を丁寧に拭いて、パジャマを着た。喉が渇いたので、歯磨き用のコップで水道水を一杯飲むと、急いで髪をバスタオルで拭いて、ドライヤーをかけた。楓はいつも髪を洗った時は、歯を磨くよりも何よりも、真っ先に乾かしている。五分でも頭を濡らしたままにしたおくと、たちまち風邪を引いてしまうからだ。乾くのにも最低二十分は要するので、いつもは面倒くさいと思いながら乾かしていたが、今日は違った。鼻歌さえ交えて、ブラシで梳かしながら、丁寧に丁寧に時間をかけて、おかっぱ頭を整えていった。髪は驚くほどつやつやになり、「天使の輪」ができていた。なんて美しくなったんだろうと、鏡の中の自分に見入った。確かに髪は美しいが、何かが足りなかった。顔が子供のままなのだ。
──かわいい顔を隠さないで、耳を出してみたらどうかな──
市村の言葉を思い出して、そのとおりにした。
──それから、ただ前髪を垂らしておくんじゃなくて、分け目を作ってみたらどうかな──
今度は前髪だけを水で濡らして、ブラシで丁寧に、右から左へ流すようにブローした。右斜めにきれいな分け目ができた。
楓は鏡の自分を見て、笑顔を作った。
「かわいい貴婦人。かわいい貴婦人。かわいい貴婦人」
自分を美人にする呪文が、前より少し長くなった。真夜中であることも忘れ、口紅を塗りたくなって、部屋に戻った。ふと、こたつテーブルの上に、何かが書かれた一枚のルーズリーフが置いてあることに気づいた。次のように書いてあった。
あなたの名前は秋山楓です。
ちゃんと覚えてますか?
正気に戻りましたか?
あなたの名前は秋山楓です。
具合はどうですか?
記憶は戻りましたか?
あなたの名前は秋山楓です。
間違えないでね。
忘れないでね。
稽古で熱演して、倒れて眠ってしまったので、大学から送って、勝手に部屋に上がりました。ずっと眠り続けたので、そのまま寝かせて失礼しました。
鍵は郵便受けの中です。
川井瑞穂
菊地真央
意味のわからない置き手紙だった。どうしてわざわざ三回も、名前を確認するようなことを書いたのだろうか。楓は、瑞穂と真央に迷惑をかけたことに気づいて謝罪する気持ちになるどころか、馬鹿にされているのかと、怒りさえ感じた。市村と二人で幸せな気分でいたのに、どうして倒れたのだろう。だとしたら、家に送ってくれるのは市村ではないかと、楓は不満さえ抱いた。
知らず知らずのうちにかけられた市村の「催眠術」は、半分しか解けていなかった。楓はマリーという劇中の人物そのものになって、現実に戻らなくなり、部員たちを心配させていたのだが、そちらのほうは解けて、現実世界の秋山楓に戻っていた。しかしもう一方、自己暗示と、市村の美貌の魔力の強さと、先ほど見た夢の効果も相まって、市村を「好き」という「確信」、市村に「恋をしている」という「確信」は、解けてはいなかった。
楓は置き手紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てると、カバンを開けて口紅を取り出そうとした。ところが、いつも入れている内ポケットの中には、なかった。慌てて別の箇所を探し、カバンの中身を全部出してみた。どこにもなかった。楓は青ざめた。
「かわいい貴婦人」となるべく、最も大切なものなのに、どこでなくしたのだろう。しばらくパニックになって、ふっと思い出した。洗面所へ行って脱衣カゴに入れたズボンのポケットを探ると、口紅と櫛が出てきた。ほうっと安堵の息を吐いた。気を取り直して鏡に向かった。そして、丁寧に口紅を塗った。笑顔を作った。
「かわいい貴婦人。かわいい貴婦人。かわいい貴婦人」
呪文を繰り返した。髪型を、夢で見た金髪の縦ロールヘアにしたいが、パーマをかけるお金はないし、金髪はやっぱり「不良少女」かもしれない。
──アクセサリーをつけてごらん。もっとかわいくなる──
市村はそう言ったが、何ひとつ持っていなかった。ダイヤのネックレスなど買えるわけがない。とりあえず安いガラスのものでも買おうと決めた。
──洋服や靴も、もっと自分に似合う、上品でシックなものを選んでごらん──
部屋に戻り、ハンガーに掛けるブラウスやカーディガン、スカート、コート類の入った、ファスナーで開閉する収納タンスを開けた。押し入れを開け、アイロンのいらないシャツやズボン、下着類の入った二段タンスを開けた。全て引っ張り出してみても、ダサい子供服ばかりだった。色も白、紺、グレーのいずれかで、地味すぎた。夢で見たピンクのばら色や紫のすみれ色のドレスが着たい。ドレスでは通学にはおかしいので、ピンク色や紫色の大人っぽい服が欲しい。安い何かを買おうと決めた。靴も、安くてヒールの高い大人っぽいものを買おうと決めた。早速買いに行こうとして、まだ朝五時で外は真っ暗であることに気づいた。授業が終わってからじゃないと、買い物には行けない。仕方なく、今日着てゆく最もマシな服を選んだ。レースもフリルもない白いブラウスに、胸元に小さなリンゴが刺繍された紺色のカーディガン、一枚だけ持っているグレーの無地のロングスカートに決めた。早速着替えると、普段はズボンばかりはいているせいか、スカートをはいただけでお洒落をしたような気分になって、少しだけ満足した。素足では寒いので、肌色のストッキングに白い靴下をはいた。
楓は高校時代の校則を未だに真面目に守っている。寒くても黒のストッキングは禁止で、肌色のストッキングの上に必ず白い靴下をはかなければならなかった。やむない事情で校則を破る形になってしまい、生活指導の男性教師に厳しく怒られたことがトラウマになっているのだ。高校一年のある雨上がりの朝、楓は登校途中に水たまりに足を踏み入れてしまい、白い靴下を汚してしまった。早朝で、開いている店はなかった。田舎なので、コンビニもなかった。仕方なく、靴下を脱いで、ストッキングだけのまま、恐る恐る登校したところ、校門の前で竹刀を持って威嚇する鬼教師に見つかり、怒鳴られたのだ。臆病な楓は、わけを話すことができず、大泣きした。その時の恐怖が楓を未だに支配し、スカートをはいたら必ず肌色のストッキングに白い靴下をはく、というダサい習慣が身についてしまったのだ。
ともかく、ほんの少しのお洒落がきまり、もう一度洗面所へ行って、鏡に向かった。
「かわいいき……」
──秋山さん。ぜんぜん似合わないよ、そんなひらひらのドレス─
呪文を言いかけて、夢の中で聞いた男の声が、頭の中に響いた。誰の声だろう。本当はわかっていた。大野の声だ。心の奥底には、綺麗な青色をした、魅惑的で深い湖が、消えることなく広がっていた。それだけは、市村の美貌の魔力などに負けることなく、確実に、核心部分を支配していたのだ。
「私には関係ない。関係ない。関係ない」
楓はぶるんぶるんと頭を振って、急いで打ち消した。
「かわいい貴婦人だもん。かわいい貴婦人だもん……」
楓は慌てて、乱れた前髪をもう一度濡らし、必死でブローし直した。記憶がもっと前に飛んだ。昨日は、大野と相合傘をしてキャンパスまで歩いたのだ。左手に、大野の右手の感触が、左肩に、大野の右腕の感触が、あのやさしい魅惑的な微笑みが、あの耳に心地よく響く深い声が、見る見るうちによみがえってきた。カシャーンと、ブラシを落としてしまった。慌ててドライヤーを消して、ブラシを拾って水で洗い、ブローを再開した。今度はなかなかきれいにまとまらなかった。
「関係ない。関係ない。関係ない」
ドライヤーの音に負けないくらい大きな声で唱えた。それでも大野は消えてくれず、楓は必死に唱えながらブローした。ようやくまとまった。長い時間がかかった。
「かわいい貴婦人だもん。かわいい貴婦人だもん。かわいい貴婦人だもん……」
もはや泣きそうな声になっていた。そんな中での救いは、部屋の壁に貼ったポスターだった。市村に焦点を当てて、その絶世的な美貌をじっと見続けた。次第に大野はぼやけて、やがて消えた。胸のどきどきだけが残った。それは間違いなく市村を想っての鼓動だと、楓は「確信」、というより無理やりそうだと決め込んだ。そして、ひとり照れながら呟いた。
「市村先輩……す、す、好き……」
声に出すと、顔が熱くなった。やっぱり私は市村に「恋をしている」と、あらためて「確信」、というか、自分に言い聞かせた。早く市村に会わねば。だが今日は稽古日ではない。それでも演劇棟には必ずいるはずだと、楓はカバンを取った。そしてようやく気づいた。カバンの中には台本とペンケースがあるだけで、今日の授業の準備を何ひとつしていなかったことに。時間もまだ朝六時前だった。慌てて本棚から教科書や辞書を取り出して、予習を始めた。フランス語の文章や単語を見ても、全く身が入らなかった。頭の中は、市村のこと、正確には市村の美貌だけでいっぱいだった。時々、それを突き破って大野が出てきそうになると、ポスターの市村の美貌を凝視して、「恋」を「確信」させた。
予習、市村の美貌、大野、ポスター、市村の美貌、「恋」の「確信」。そしてまた、予習、市村の美貌、大野…………果てしなく繰り返した。