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二十年の片想い 80

 80.
「前に進もうと、したんだけどな……」
 一人取り残された大野は、ため息をついた。異常とも思える二人のしつこい人間(美咲の恋人である盗撮男、別れたばかりの泉美)を相手に、疲れがどっと出た。時計を見ると、夜十二時近かった。都心へ向かう電車はもうないだろう。隣県の遠くにある自宅へ帰ることはできない。お金をおろしておいてよかったと、こんな時に妙な運の良さを思った。大きな町まで歩き、ビジネスホテルやカプセルホテルを探して泊まることができる。大野はそう決めて、駅までふらふらと歩いた。自動販売機だけが煌々と明るい光を放っていた。ひどく喉が渇いていることに気づいた。引かれるように、自動販売機へ向かった。盗撮写真の入った大きな茶封筒のことを思い出した。ちょうどよかった。あの下に隠してあるのだ。明日にでも場所を見つけて燃やしてしまおう。財布から小銭を出して、あたたかいブラックコーヒーを買った。ガチャンと缶の落ちてくる音が、静かで鈍い夜空に、やけに大きく、侘しげに響いた。手に取ると、そのあたたかさにほっとした。想像以上に身体が疲れていた。そのまま地べたに座って足を伸ばし、自動販売機に背中をつけて寄りかかった。美咲の顔が思い浮かんだ。本当に無事に、家に帰れたのだろうか。電話をしてみよう。無事を確認できれば、それでよい。缶を開けて、コーヒーを一口飲んだ。やっとひと息つけた。周りには誰一人として歩いていない。俺はなぜ今、こんなところにいるのだろう。何をしに、こんな見知らぬ町へ来たのだろう。コーヒーを飲み終えると煙草に火をつけ、ゆっくりと吸った。星の一つも見えない、嫌な色をした曇り空だ。昼間は雨が降っていたが、それが何日も前のことのように感じた。煙草を吸い終えたちょうどその時、一人のみすぼらしい格好をした老婆のような姿が目の前に見えた。夢か幻か。
「大野くん?大丈夫?どうしたの?こんなところに一人で……」
 なぜか、美咲の声がした。空耳か幻聴か。
「あたしだよ。美咲。あれからどうしたか気になって、様子を見に来たんだ。ごめんね。すごい迷惑かけて。あ、これ、暗くて怖いから、貧乏オバチャンの格好をしてきたの。楓がサークルの劇で使った舞台衣装なんだけど、もういらないって言うからもらったんだ。夜遅くコンビニとか行く時に使ってる。これなら変質者も襲わないしね」
 老婆はそう言ってかつらを取った。夢でも幻でもなかった。白く光る美しい女神が、そっと微笑んでいた。そうだ。美咲のために、俺はここにいるのだ。
「大野くん。大丈夫?すごい疲れて……」
 心配して顔を覗き込んできた美咲を、大野は思わず、きつく抱きしめた。
「ちょっと大野くん……何があったの?」
 美咲は戸惑った様子だったが、そのまま大野の腕の中に身体をうずめた。美咲はあたたかかった。やわらかくて、いい匂いがした。美咲は確かに、ここにいる。
「美咲ちゃん……無事だったんだね」
「あたしは無事だよ。ちゃんと送ってもらったから。それより大野くんは?」
 美咲のやさしい声がする。美咲は確かに、この腕の中にいる。
「よかった無事で……」
 美咲がこうしていてくれるだけで、荒れていた心が、静かに凪いでゆくのを感じた。
「大野くん。わけは後から聞くから、あたしもちゃんと話すから、とりあえずあたしの家に行こう。もう電車ないでしょう?」
 その声は、天から降り注いでくるやさしい光のように、疲れた身体を、疲れた心を、そっと包んで、あたためてくれた。それまでのごたごたが、ゆっくり浄化されてゆくのを感じた。
「大野くん。大丈夫?あたしのせいで、ごめんね」
 大野はかなり長い時間、美咲を抱きしめていたことに気づき、ようやく腕を離した。
「ごめん。いろいろありすぎて……今日だけで三日分過ごしたみたいな……なんだかもう、覚えてないや……」
「大丈夫?立てる?」
 美咲はそっと手を差し出してくれた。大野はその細い指をした、白く美しい手を、そっと握った。美咲の手はやわらかく、あたたかかった。
「ありがとう」
「行こう。風邪引くよ」
「あ、そうだ……」
 大野は立ち上がろうとして、忌々しいものを思い出した。自動販売機の下に隠しておいた大きな茶封筒を取り出そうとしたが、奥まで入ってしまったようで、腕が入らなかった。
「何か落としたの?」
 美咲が細い腕を入れて、封筒を取り出した。
「これ……!」
 美咲は手に取るなり、それが何かわかったように、顔をしかめた。
「明日にでも、燃やしてしまおう」
「奪ってくれたんだ……ありがとう……」
 美咲は感謝の目を向けてきた。
「大変だったよね。ほんとに、ありがとう……」
 信じられないことに、今度は美咲が、そっと頭を抱きしめてくれた。細い腕が、やわらかい胸が、顔を、身体を、熱くする。大野は思わず、もう一度美咲の身体を、そっと抱きしめた。その目をまっすぐのぞき込んで、やさしく口づけをした。美咲は抵抗することなく、やさしい口づけを返してくれた。形だけではない、本当の想いがこもった、熱い口づけだった。
「ここじゃ寒いよ。早く、家に、行こう」
 お互い、名残を惜しむように顔を離すと、美咲がやさしく言ってくれた。
「いいの?美咲ちゃん」
「歩いて十分ぐらいだから。さあ」
 美咲はそう言って、大野の手を取った。
「ありがとう」
「大丈夫?歩ける?」
「美咲ちゃんは、偉大な力を持っているね。疲れが一気に吹き飛んだよ」
「行こう」
 大野は美咲に連れられて、美咲の家へと向かった。ゆっくり歩く二人の靴音だけが、夜空に響いた。何も見えなかった暗い空が、ぼんやりと白むのが見えた。やがて、厚い雲のすき間から、白い満月の光がさあっと漏れて、やさしく二人を包んだ。二人は月に導かれるように、手を取り合い、身体を寄せ合い、行くべきところへ歩いた。
 月明かりの中に、白く照らされた三階建ての瀟洒な建物が近づいてきた。美咲の住むマンションらしい。到着すると、美咲が先に階段を登り、大野が後に続いた。二階へ着き、美咲は外廊下を奥へと歩いた。大野も続いた。美咲が止まり、大野も止まった。美咲の城は、203号室だった。表札に名前は書かれていなかった。
「外見のわりに中は狭いけどね」
 美咲は鍵を回してそっとドアを開け、先に中に入ると、壁のスイッチを押して照明をつけた。ほのかに花の匂いがした。
「どうぞ。散らかってるけど」
「お邪魔します」
 大野は玄関をくぐって、城の中へと足を踏み入れた。
「背が高いと大変だよね。あたしのお父さんも実家でしょっちゅう頭をぶつけてるよ」
「もう癖になってるから」
 大野はドアに鍵をかけ、チェーンもかけた。
「ありがとう」
 美咲は微笑んで、ぼろぼろのサンダルを脱いで中へ上がった。ぼろぼろのロングスカートから白く細い足首がのぞいた。大野もスニーカーを脱いで中へ上がると、美咲のサンダルも一緒に並べた。玄関脇の棚には、美咲が普段履いているヒールの細い洒落た靴が数足、飾り物のように置かれていた。
「あ、ありがとう。あたし脱ぎっぱなしで……」
「これ、すごいサンダルだね。よくここまでボロくしたよね」
「確かに」
 二人でくすっと笑った。
 入るとすぐ狭いキッチンだった。小さな流しの中には、まだ洗っていないピンクのマグカップと銀のスプーンが置かれていた。一人暮らし用の小さな冷蔵庫の上に電子レンジがあった。食器棚の中には、洒落た皿や器などがちらっと見えた。
「このかつらも重宝してるよ。本格的な演劇サークルなのかな?」
「ほんとにお婆さんかと思ったよ」
 狭いけれどもこざっぱりした部家に入ると、美咲は木目調の三段ボックスの上に白髪混じりのかつらを置いた。その隣には、緑色のガラスの一輪挿しに、淡いピンクの薔薇がさらっと飾られていた。いい匂いのもとはこれだった。
「薔薇が好きなの?」
「ピンクのチューリップが好きなんだけど、活けるとすぐに、くたーって下を向いちゃってだめになるから。今日はたまたま薔薇だっただけ」
「いつも花を?」
「たいていは飾ってる。一輪あるだけで部屋がぱあっと明るくなるから。薔薇だったり、ガーベラだったり、カーネーションだったり、花屋さんで見て、その時気に入った花にしてる」
 言いながら美咲は、毛玉だらけでほつれて穴の空いたねずみ色のカーディガンを脱いで、床に投げた。普段着ている洒落た服がのぞき、華奢な身体の線が浮かび上がった。ぴたっとフィットしたオフホワイトのシャツに、ブラウンのワンピースが見えた。さらに、ねずみ色のぼろぼろのロングスカートを脱いだ。どきっとしたが、見えたのはミニ丈のワンピースと、すらりと伸びる細い足だった。美咲はこちらを向いた。美しい女神は、やさしく艶めかしく微笑んで、身体をそっと近づけてきた。
「美咲ちゃん。好きだよ」
 大野は美咲の目をまっすぐ見て、燃やし続けた想いを、やさしく告げた。美咲も大野の目に、そっとうなずいた。艶のある淡いピンク色をした唇に、大野はやさしく、激しい口づけをした。美咲もまた、激しく返してきた。二人はそのまま抱き合い、ベッドの上に熱くなった身体を倒して、互いに激しく求め合い、自然に溶け合い、天に突き抜けるような声をあげながら、深い夜の彼方へと、何度も昇っていった。
 大野と美咲にとってこの日は、誰にも侵すことのできない、心も身体も深く繋がり合った、大切な秘密の記念日となった。

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