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7.1メインクエストの感想

黄金のレガシー7.1が実装されましたね。
メインクエストを終えたので、少し振り返っておきたいと思います。
主に自分用の記録です。

全体として見るなら、語られているのは「死の受け止め」と「家族」の話なのだろうなと感じました。7.0でも主軸になっていた部分だったと思っているのですが、たぶん「黄金」自体がそこを見ていこうとする話なのだろうと受け止めています。

そして、その切り取り方がなかなかにえぐい。
特に家族の話は、グルージャの話とコーナの話が対比される形で出てきていたわけですが、これを同時に見せてくるバランスのとり方が、なんだろう……しんどいというかすごいというか。とにかく、安易に「いい気分」にはさせてくれない、怖いものを出してくる作り手さんだなと感じました。


グルージャの物語

グルージャ誕生に至るテーシャジャの話は、率直なところを言えばかなり「嫌な話」でした。
彼女、声や喋り方だけならわりと理知的で感じの良さそうなイメージだったんですが、その情念の向け方とか実際にやったことと言えば、生々しいというか身勝手というか……まあ、肯定できるようなものではないし、はっきり言ってしまうと「ああ、私はこの女嫌い」となりました。
と同時に、ゾラージャの子供が存在していたことの説明としてはしっかり納得できるものだったとも感じました。

そして、この両親の関係を、グルージャは淡々と受け止めてしまった。

グルージャ :
僕は平気だよ、ラマチ。
父さんも母さんも、いっぱい寂しかったんだね。
僕も寂しかったしさ、一緒にいればよかったんだ……。
けど、それが上手くできないことだって、あるよね。
これが幸せかなんて、やっぱりわからない……
でも、知れてよかったって、本当に思うんだ。
ありがとう、みんな……!

7.1メインクエスト 未知との邂逅

まだ小さな子供にこんなことを言わせてしまうのは、大変心がじくじくしてしまうのですが、でも、この「うまくいかなさ」「どうしようもなさ」は非常に現実的です。
コーナの物語で展開された「家族」の物語は美しくて理想的だけれども、「血の繋がった親子」であれば当然そういう愛情が背後にあるものなのだ……とはならず、そうはならない・なれない「親子」をすかさず出してくる。
おそらくですが、「それを示すことによってようやく救われる受け手」がいるからなのではないかと思っています。

現実の問題として、親子の間柄は常に愛情に満ちた理想的なものになるわけではありません。
望まれたわけではないのに生まれてきた、あるいは、愛せればよかったのに愛せなかった、といった、どうしようもなさを抱えながら生きていかなければならない「家族」も現に存在しているはずです。
そういった人間にとっては、コーナの家族の話は猛毒になりかねない。
だからこそ、グルージャの話も必要なのだろうと思うのです。

そうは言うものの、「知れてよかった」と彼に言わせてしまうのは、やっぱりちょっとなんというか……きついなあと思ってしまう。

グルージャの受け止め方が不自然だ、とか、書き手に無理やり言わされている、とは思いません。
ここまで積み上げてきたグルージャの描かれ方から見て、「ああ、この子ならこう言うよね……」と納得できるのですが、納得できてもつらいものはつらい。

グルージャは、廃棄場の中に捨てられていたのをオブリビオンの人間に保護されたものの、バックルームには居つかずに危険に満ちた野外へとひとりで出ていくような子供です。レギュレーターを着けていないので死ねばそれっきりの存在であるにもかかわらず、おそらくはオーティスに会うために、その行動を選んできました。

オブリビオンに保護されたということは、死の記憶から遠ざけられている安全なエバーキープの内側に籠って生きることもできたわけです。少なくとも、衣食住は満たされていた。
エバーキープの外は、落雷が絶えず、魔物が跋扈している非常に過酷な環境です。それでも彼は外に出ていきました。外にあるものでしか満たされない何かを抱えていたのでしょう。

そんなグルージャにとっては、死も残酷さも決して縁遠いものではなかったはずです。ユウェヤーワータで目にしたものが意味するところもたぶんしっかり理解していたはずだし、血縁上の母である女性の遺した記録の内容も、だいたいは理解していたのではないか。

ですので、グルージャの「知れてよかった」という言葉はたぶん嘘偽りのないものなのですが、大人の側に身を置く者としては、大変つらい言葉として響きました。

救いに思えるのは、彼の傍らにいるオブリビオンの女性シェールの存在でしょうか。
彼女ならば、いい距離感を保ちつつ、グルージャが必要としているものを差し出していけるのではないかと感じています。


コーナの物語

グルージャの物語と対照的に描かれているのがコーナの物語です。

自分は実の親に捨てられたと思っていた。だがそれは誤解で、愛していたからこそ、守ろうとしていたからこそ、親は自分を手放したのだ。

コーナの実の親に関する事情を簡単にまとめると、こういった内容になるでしょうか。

実は、今回登場している光の戦士サイドのキャラクターの大半がこれと同じような背景を負っています。
クルルもウクラマトも、おそらくはグ・ラハも、だいたい同じパターンなんですね。アルフィノとアリゼーは実の親の愛を一身に受けて育ってきた子供たちですが、一時的な出来事とは言え「フルシュノによる勘当」をこの形に読み替えることも可能です。
「親子の物語」としては非常に安心できる内容で、だからこそ何度も反復されてきたのだとも言えます。

コーナのパートでは、やや唐突に思えた部分がありました。
ひとつは、ロネークと触れ合うとすぐさまヘイザ・アロの生き方に理解を示すようになった点。
もうひとつは、ヅルヘイゾヒリから逃げ遅れたロネークを、身を挺してかばおうとした点。

まずは、ロネークをかばった問題から見てみたいと思います。問題が提起された順序は前後してしまいますが、こちらからのほうが考えやすいので。

迫りくるヅルヘイゾヒリを前に、コーナは宣言します。

「僕の命に代えても、皆を護ってみせる!」

いやいや、「王たる者」は、そんなことを軽々に口にしてはいけないよ。
指揮を執るのはいいけれど、自分の身を安全なところに置くべきでしょう?

というのがトレーラーを見た時点で真っ先に思ったことでしたし、本編でこのシーンに至った時にも、まずはそう思いました。
けれども少し考えてみて、「ああ、コーナってもともとこういったキャラだったな」と考え直しました。

コーナは一見、計算を重視する理論派に見えますが、実のところはかなり「情の人」です。特に「守るべき存在」であると認識しているものに危険が迫ると、理性を吹っ飛ばして直進してしまう傾向があるようです。

コーナ :
僕は……ラマチのこととなると、いつもこうなんです。
彼女に何かあったらと思うと、冷静になれない……
いてもたってもいられなくなってしまう。
ラマチは、かけがえのない家族ですから……。

7.0メインクエスト Lv92:兄として

7.0でウクラマト誘拐犯に接触する寸前のコーナの言葉です。
逃げ遅れたロネークに対しての感情も、おそらくはこれと同じところに源をがあるように思えます。

前段として、コーナは「ロネークは家族と同等の存在である」というヘイザ・アロの価値観を受け入れています。ですので、「家族」が――しかも、体格が小さいことからおそらくは子供だと思われる個体が――危険にさらされたとなれば、「何としてでも守らなくては」という意識がまず働いたのでしょう。
「このロネークを守ればヘイザ・アロの人々から受け入れられるだろう」とか、そういった実際的な計算が働いてのことではなく、まさに反射的な衝動に駆られての行動なのだろうと、私は受け取っています。
結果として、あの行動がヘイザ・アロの族長からの信頼を勝ち取ることに繋がったわけですが、あれが「理王にふさわしい行動」だったかと問われれば、非常に疑問が残ります。

私の常識に従うならば、「王様はちょっとのことではその身を危険にさらしたりしてはならない」存在です。ちゃんと「みんなを守る」ためには、最後まで立っている必要があるからです。
言っては悪いですが、ロネークの一頭や二頭と引き換えていい存在ではない。

けれどもあそこで危険に身を晒してしまうのが、たぶんコーナの真摯さというか隙というか、人間としてのかわいらしさでもあるのだろうなとも思うのです。そういう「情」の部分が根底にあるからこそ、普段表面に出している「理」の部分が冷たすぎるものには決してならない。
ウクラマトが一見陽気で感情的に見えて、実はかなり抑制のきいた部分を備えていることを思うと、この「理王」と「武王」の取り合わせはうまく運びさえすればかなり「良い」ものになりそうに思えます。
そのためには、いい相談役というか、諫言もできる忠臣がいて欲しいものですが、今のトライヨラによさそうな人材はいるのだろうか。

「王なのに簡単に危険を身にさらしてしまう」のも、彼にとっての具体的な「王様のモデル」がグルージャジャであろうことを思うと、無理もないのかもしれません。グルージャジャならまあ、まずは自分が前線に出てしまったほうが事が簡単に片付いてしまうよね……

それともうひとつ、彼は自分自身が「替えの利かない存在」だとは考えていないように見えます。たとえ自分が死のうとも、ウクラマトが無事ならばトライヨラは安泰だろうと思っていそうです。
ただ、今後は少し変わっていくのかもしれません。
かつて実の親によって身を挺して庇われていたことを知った今なら、「自分は守られるに値する者であった」ことと、「自己犠牲の結果、守られた存在が覚える喪失」を実感できたわけですから。

次に、コーナが実にあっさりとヘイザ・アロの価値観を受け入れていたことについて。

正直、かなり唐突に見えましたし、ちょっと都合がよすぎるように思えてしまいます。
ただ、想像力を働かせてもいいならば、「ああ、そうなる可能性は確かにある」と思える部分はあります。

スクリーンショットを取り損ねたのですが、どこかのタイミングでクエストジャーナルに示されるテキストが、ちょっと興味深いものになっていました。
「コーナはロネークに夢中のようだ」だったでしょうか? とにかく、ロネークに構いつけることに心を砕いていることがわかる内容になっていました。
「なんてチョロいんだ、コーナ」と、ちょっと笑いそうになったのですが、その示唆する内容は意外と重かったのではないかと、後で振り返ってみて感じたのです。

この段落の文章は根拠のない想像です。コーナにちょっと肩入れしている二次創作書きの妄想としてお読みください。
実の親に捨てられたと思い込んでいるコーナにとって、「ロネークと生きるヘイザ・アロの一族」は、触れることさえ苦痛を伴う存在だった。
それでも「サカ・トラルの生活の改善」のために鉄道を敷き、エーテライトを設置したりすることを推進したが、「より深く知る」ことに心を砕きはしなかった。
「王の試練」を経て理王になった今、それが変わろうとしていた。
コーナの過去について聞かされたヘイザ・アロの族長フーワトが「子どもを置いていくなど、普通では考えられません」と即座に否定したのも大きかったのだろう。自分の抱えている「傷」を認めつつ「ヘイゾについて知る」ためにロネークに触れたとき、忘れていた・忘れようとしていた幼い頃の暮らしが、懐かしさを伴って蘇り始めた。
具体的に何かを思い出せたわけではない。ただ、過去に受け取ったはずのあたたかな感触のようなものが、ロネークのにおいや手触りの中に感じられるような気がするのだ。
ロネークの放牧をひととおり見学し終えた後も、コーナはひたすらにロネークを撫で続けていた……

ちょっと感傷的に過ぎる空想ですが、例えばこんなイメージがあったとしたら、コーナの行動の裏付けになるのではないでしょうか。
ジャーナルの一文でちょこっと示すのではなく、具体的な何かをもう少し示していれば、一連の流れの印象はだいぶ変わっていたのではないかという気がしています。


スフェーンの葬儀と蘇り

さて、最後になってしまいましたが、スフェーンのことを。

アレクサンドリアで行われるスフェーンの葬儀、トレーラーを見た段階では、どのような経緯で行われることになって、なぜ光の戦士たちも参列することになるのだろうと不安を抱えていたのですが、蓋を開けてみれば「ああなるほど」といった印象でした。
葬儀の形を掘り起こしたのがオブリビオンだった……というあたりは非常に納得感がありましたし、向こうからの招待ならば行かざるを得ないので、話の運び方もよかったですね。自発的に行くのは、やっぱり「どの面下げて」ということになってしまうので。「だからこそ」行かなければならないかもしれないのですが。

また、献花にまつわるセリフで「もしかしたら古代にルーツがある風習なのかもしれないわね」とクルルが言っていたのには、エルピスでのサブクエを思い出してふふっとなりました。「卵が先か鶏が先か」みたいな話なんですよね。

アレクサンドリアの人々の死に対する認識は、正直戸惑うところも多いし、何をどうするのが正解なのかも、現時点ではまったくわかりません。
ただ、ほんのり感じているのは、「これ、暁月で見たことを立場を変えて体験しているのかも」ということです。

暁月で示された古代人の世界は、人間には「納得できる終わり」しか訪れないものとして描かれていました。
「務めを果たし終えたときに星へと還る」のが人間の生涯であり、だからこそ、「理由もなくただ理不尽に死ぬ」ことに耐えがたい絶望を覚えて、多くの者たちは「過ぎ去った日々を取り戻す」ことに縋ろうとしていました。それを断ち切ったのがヴェーネス派によるゾディアークの封印と世界の分割だったのだ……と解釈しています。
究極的な形で終末に立ち向かおうとするならば、ヴェーネスの決断は必要なことだったと言えるでしょうが、今までの世界を「一度壊す」ものでもあったわけです。

今、アレクサンドリアで起こっていることは、これとまったく同じというわけではありません。
ですが、「理不尽な死」がありうると知らされ、それによってもたらされる苦痛や悲しみを忘れ去ることもできないまま受け容れよと求められているという点では、非常に似た部分があります。

スフェーンによって導かれていたアレクサンドリアのシステムは、もし国民全員に恩恵を与えようとするならば、たとえ鏡像世界の人々を狩りつくそうともどこかでは破綻するしくみにしかなっていませんでした。
ですので、エターナルクイーンを倒した光の戦士たちの行動は致し方のないものとして受け止めています。

とは言え、現状にどう対応するのがいいのかはさっぱりわからないんですよね。
これ以上トライヨラ側が介入するのも望ましいこととも思えず、ならばとりあえずはオブリビオンの人たちに頑張ってもらうしかないのだろうか……といった心持ちでいたのですが。

いきなり「スフェーン」が蘇っちゃったよ!
アレクサンドリアの人々の記憶もおかしなことになってるよ!

今回蘇った「スフェーン」が何をもたらそうとしているのかは、正直なところまだよく見えていません。
おそらくはプリザベーションの仕業であり、今後、その存在や目的が明らかになっていくのだろうとは思うのですが。

今の段階では「このにせスフェーンが!」みたいな見方をしていますが、アルバートのガワを被ったエリディブスやファダニエルが初めて登場したときに彼らに対して覚えた気持ちを思うと、今後、まったく違う見方をする可能性もありそうです。

また、リビング・メモリーで意識を取り戻した「あのスフェーンと思しき存在」も、どういった存在で、どう動いていくのか。
人間の手が見えたことから、姿がないわけでも機械の体を借りているわけでもなさそうに思えますが、主観でしか示されていなかっただけに全身像がどうなっているのかすらまだ謎の状態です。

次に語られるであろう物語を楽しみにしています。



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