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(25)2019年 西海市

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 ここはとにかく一度は来ねばならない土地。何度も言うが大村のことを知るためにはここも訪ねない訳にはいかないのだ。ただ大村から来るには不便としか言いようがない。いろいろルートも探ってはみたが鉄道とバスを乗り継いでも半日はかかる。それにバスの本数も少ないから苦手な早朝から動かねばならない。仮にそうしたとしても下手すりゃ一泊二日は免れない。佐世保まで行って船で戻るというのも考えたがこれも本数が少ない。横瀬になら船の本数は多いのだがそこから先はやっぱりバスに頼ることになる。どう調べてもなかなかスムーズには繋がらないのだ。結局ハウステンボスからタクシーで市役所まで行ったがとんでもないメーターになってしまった。経費とは言っても結構罪悪感を感じる額だった。 
 そうしょっちゅう足を運べる場所でもなさそうだ。こんなに不便で遠い場所なのに何故大村領第二の町なのだ。とにかく回ってみるしかなかった。とは言っても現在の市域は旧西海町を中心として西彼杵半島の北半分がそうなのだ。かなり広いしそれもリアス式の半島ゆえ平地ではない。何度も来れないのも判ってはいるが一朝一夕にもいかないだろう。一佐の指図はさておきここは本当の意味での趣味ということにして「地理オタク」に成りきるしか無さそうだ。
 市役所にはあらかじめ連絡はしていたので学芸員の方が応対してくれた。観光地図で大体の説明をしてもらった後、市の車で名所や史跡を案内してもらった。大合併を機に整備が進んだのだろう、点在する郷を直接結ぶかのように広い道路が張り巡らされている。地理マニアを自負する私ですらあちらこちら回っていて何処をどう走っているのか解らなくなった程である。ただこちらは山の多い田園風景で景色こそ異なるが何だか大村と似ている気もした。行先表示も二股でどちらも同じだったり次の場所へ行こうとする度に同じ道を何度も回ったり。そうなのだ、ここも中浦や多以良を中心とした城下町でかつ要塞都市なのだ。たまたま地形もそれに適したということだ。念を押すように言うが地形があっての歴史である。「たまたま」も「必然」なのだ。
 それに現地を回ってみて中浦の入り江から始まる七ツ釜の「隠し水路」にはその景観の美しさもあって感動を覚えた。地図で想像していたより遥かに綿密な造りになっている。それも多以良とは一本道で繋がっているのだ。ここはやはり水軍を主軸とした軍事都市で間違いはない。
 主要な史跡の記念碑や案内を見ているとどうやら近年になって例の「子孫の会」が整備に協力しているようだ。西海の歴史についてもその会の調査で随分はっきりしたと言う。役所が合併する時期とも重なったのか概ね子孫の会の見解がこの辺りの公式の史実として採用されているようだ。私の頭の中にはまた「諸説あります」の字幕がよぎったのは否めないが。ただ西海市としては七ツ釜鍾乳洞や多以良城址、中浦ジュリアンなどをメインに「町おこし」を考えているのが意図として見える。
 おそらく幕末までの時代に関しては記録と言える記録に乏しかったのだろう。ジュリアンとてここの出身と言うだけで歴史に登場するのは「遣欧使節」以降なのだ。それにここの主が松浦から渡ってきた経緯については大まかな想像はあっても疑問符のままである。判らないことだらけだ。明治以降は石炭産出地として歴史に登場し、軍港となる佐世保と長崎の間の経路として面高まで県道が整備されたなどの記録はあるが確かに私が事前に調べた際も江戸初期に大村直轄領となって以降の記録は殆ど出て来なかった。学芸員の方の話でもそれぞれ地元の話も聴取しながら市域全体の歴史を整理している途上だと言う。
 ついでに地質の話も聞いてみた。が、どうやら専門外ということもあってで深くは解らないらしい。そちらの方面は私とほぼ同じレベルと言うことの様だ。大村湾や西彼杵半島、さらには針尾島の成り立ちについては当面はお預けになりそうだ。ブラタモリフリークとしては少し残念だが目的を考えれば今はそこまでは必要ない。
 最後に崎戸島やその手前に大島が見える高台へ案内された。今は半島側と橋で繋がっているが以前は船しかなかったという。ただ大島との間の海は意外と平穏であの日本海海戦の際に艦船の集結地にもなったと言う。そのことも水軍の歴史がもたらせた功績なのかも知れない。
 今回の訪問ではここまでだった。市域の南半分の西側だけしか回れなかった。半島の大村湾側の町も気になったが次回は半島の先っぽ部分にしようと思った。開港してすぐ焼き討ちにあったという横瀬もちょくちょく名前が出る面高も気になった。面高には江戸期以前から砲台があったり地元の方の話では純忠の娘の御殿があったと言う。ただ交通に関してはさらに不便になるのだ。西海市営バスが日に数本しか無かったりする。とても私一人では回り切れない。
 聞けばこの学芸員の方は普段は黒口にある歴史資料館に居ることが多いと言う。黒口とてその同じエリアなのだ。それを聞いて後悔したのだがタクシーで市役所まで行く必要は無かったのだ。資料館で待ち合わせすればもっと安く上がった筈だ。税金の無駄遣いをしてしまった。合併後の市の中心部は西海市とは言いながら旧西海町ではなく旧大瀬戸町になる。やはり多以良城を中心としてその南側の海への出口になる市役所のある樫浦あたりと北側で旧西海町の中心だった中浦、このラインが旧大村領の西海での城下町的役割だったのだろう。と考えればやはり大村は「一国二城」なのだ。
 それに合併後の市域割も歴史を反映して判り易い。大瀬戸町と西海町、それに隣接する島の大島町や崎戸町が現在の西海市でこれより南の外海(そとめ)町の合併先は長崎市なのだ。旧大村領と天領、旧鍋島領がはっきり色分けされている。同じ西彼杵半島に在りながら文化圏も含めて「そうだった」と言うことなのだろう。
 いずれにしても次回は黒口、天久保、面高あたりを重点的に回ることにした。日程は未定だが同じ方が案内してくれるとのこと。佐世保から船で行くことにして横瀬で待ち合わせしようと言うことになった。このエリアは歴史的には殆ど記録がなく学芸員さんもこれからの課題だと言う。日時が決まれば地元の方からの聴き取りも調整してくれると言う。面白そうだ。興味が深まった。大村での情報も含めて少しは彼の手助けにもなるかも知れない。そう思った。


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(続く)


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