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どこから歩いてきたのか―――裸足で足が血まみれになっていた。
髪がざんばらんになって、表情を覆っている。
ピタピット足音を立てて、玄関を入ってきた。
小声で何か言っているようだが、聞き取れない。
「来ないで!」
入真知が仮野の前に立ちはだかった。
姫容李は目を見開いた。
「邪魔だ!」
叫んで、手で払い除けた。
入真知は床に跳ね飛ばされて、動かなくなった。
仮野はいよいよ動けなくなった。近づく度に、金縛りがひどくなる。
この指輪をしていれば、助かるんだろうかと、妙なことを思った。
効能については、全く聞いていない。
「どうして見えないんだろう―――」
至近距離で、彼女は言った。
外の居酒屋で、サラリーマンの号令が聞こえた。
商店街のど真ん中で、企業理念を大声で唱えている。
「ここにいるはずなのに―――匂いでわかる。」
眼球が陥没して、深遠な闇と化していた。
「みんな私のものになったんだ―――みんな私のものだ―――何でこいつだけ、私のものにならない―――何故」
姫容李の声が耳に入った瞬間、脳裏に母親の顔が思い浮かんだ。
これまで蓋をしていた意識が溢れて、時系列もぐちゃぐちゃになった。
―――あんな子はやめておいたほうがいいわよ
―――あんな子たちとは関わっては駄目
―――こんな下層の仕事はやるもんじゃありません
―――そっちへいくと危ないから駄目よ
「どうしたら、喜んでくれるの?」
見えない筈の姫容李の目が、自分の僅か数センチ手前まで迫っていた。
自分は―――今こそ、自分の闇に打ち勝つことができるのだろうか?
自分が認められたいがために、今外で騒いでいる連中の様な生き方をするのは御免だ。
明らかに異常だ。
自分は、芸術をやって生きていくんだ―――
行けなかった旅にだって行きたい―――
機会を奪われていた婚活だって―――
そして―――目の前のこの女と関係を持つことだって―――
「俺は―――」
姫容李は能面の様な表情でこちらに顔を向けている。
「お前を―――」
入真知が気がついたようで、軽く唸った。
投げてしまえばいい―――何も思わずに。
「自分のものにしたい―――」
意識は完全に飛んでいた。これで、世界線は変わったんだろうか?
姫容李はしばらく表情を崩さなかった。
「そうなんだ―――」
小さな声が、薄い唇から漏れた。
仮野は小さく、はいと答えた。
しばらく間があって、姫容李は急にいつもの笑みを浮かべた。
「じゃあ―――また探さなくちゃね」
仮野は呆気にとられて、呆然としていた。相手の言葉の裏に何か意味があるのかと思ったが、どう考えても、わからなかった。
「安らぐのは、一瞬だけ―――私のものになった途端、いつかは裏切られるから」
ずっと、一緒に居たい―――と、言う前に、姫容李は眼の前から消えていた。
玄関の古い木戸が、秋風に揺れて、キイキイと音を立てている。
すべてが終わったんだろうか?
世界線は変わったのか?
姫容李は一体どこへ消えたのか?
「今、あいつになんて言ったんだ?」
入間知がふらつく頭を抑えて口を開いた。
仮野は言い淀んだ。
「まさか、付き合って欲しいなんて言ったんじゃないだろうな?」
入間知は怪訝そうな顔をした。
「お前、もうここから離れろ―――何となく、この後ここが使えなくなるような気がする」
入間知は予知能力めいたことを言った。
仮野は冷静になって、部屋を見渡した。
「家財道具なんて、生きてりゃいくらでも買えるから―――早くしろ」
握れないくせに、入間知は仮野の手を引っ張って、廊下へ出た。