ice cream_17
17
朝、駐車場に着くと、姫容李さんの車が停まっていた。
流線型の白いエコカー。
遅刻しても、何も言わずに入ってくるから、この時間に来ている事に違和感を覚えた。
中庭の駐車場から、廃屋の研究棟を見上げる。
半開きになった窓から、蛍光灯が明滅している。
出勤すれば、元のヒエラルキーに戻る。
これからの12時間を考えて、気が滅入った。
錆びついた玄関扉を解錠する。
静まり返った廊下にギッと響く。
天井の非常口灯が、不自然な緑を放つ。
すぐとなりに、紙札が吊り下げられている。
ほつれたミシン糸で天井にガムテープで貼っつけてある。
紙は湿気で丸くなっている。
マジックで走り書きされている。
「研究棟はこちら」と書いてある。
茂木は何かを研究しているらしい。
心理学か何かと聞いたが、詳しく聞いたことはない。
女性の来店が多いので、女性に関するものなのだろう。
剥げた階段のタイルを見ながら、ゆっくりと登っていく。
二階の踊り場を通過したあたりから、作り笑いを浮かべるようにしていた。。
その時だった。けたたましい女性の声が響いた。
誰が話しているのかわからない。
慌てて廊下に出ると、奥から光が漏れていた。
男が笑っていた。無理に笑っているようだった。茂木の声だった。
「まあ、いつかはやらかすと思ってたよね―――あんだけ言っといたんだけど」
仮野は足音を立てずに、扉の前まで、歩を進めた。
半開きになって、中から明かりが漏れている。
「うっわ―――マジで嵌められた」
姫容李さんの艷やかな声に動揺が混じっている。
「嵌める嵌めないはともかく―――」
ギシッと椅子から立ち上がる音がした。
「俺の行動記録が公開されちゃったから―――もう警察がここにくるのも時間の問題だよ」
荷物を詰めている音がした。
「どこ行くの?」
「あなたとの契約も、もうここまでだ―――こんな損害を被ってまで、あなたといる理由は何もない。」
一瞬言葉に詰まったようだが、姫容李は冷ややかに言葉を繋いだ。
「―――あなたがどこにいこうと、居場所は手に取るようにわかります」
「執着しますね―――私の中では、あなたも単なるクランケの一人なんですが、それでもいいんですか?」
姫容李の返答は聞こえてこなかった。
革靴の音を響かせながら、茂木が部屋から出てきた。
ロングヘアーは乱れていた。
「うお、仮野君―――このタイミングで」
鋭い眼光を固定させたまま、近づいてきた。
茂木がどんな人と関わっているのか、仮野は想像がつかなかった。
「ここ、もうすぐ警察が来て、使えなくなるから―――急で申し訳ないんだけど」
普段と変わらず、茂木の顔には包み込むような笑顔があった。
「入ってきてくれてから、五年だっけ?―――本当によく働いてくれて、有難う御座いました。」
茂木は一礼した。長い髪が揺れる。
「与えられるものは、全部与えてきたつもりだから―――そろそろ、自分の足で歩いてもいいんじゃないかな」
肩をぽんと叩いた。
「応援してますよ―――何をするのかはわからないけど」
そういって、茂木は足早に立ち去った。
所在なく、仮野は廊下に突っ立っていた。
―――プロジェクトは、崩壊した。
こんなにあっけないものなのかと思った―――と同時に、こないだ入真知の流したファイルの影響力に愕然とした。
五年前―――本当は行きたかった方向があった。
でも、無理だった。
自宅の窓から、切り取られた青空。
雲が悠々と流れていく。
何日も何日も、病床から、同じ景色が続いた。
自分が脱出するためには、仕方なかった。
この道を選ぶより他になかった。
そんな世界に、愛着等、ある訳がない。
それでも、今ここに居ることは事実だからと、無理にでも自分を納得させた。
納得させて、ここまで来た。
心の底から撃ち込んでいる姫容李さんから見ると、自分の様な仮面生活を送っている人間はどう見えるんだろうと、常に気になっていた。
もう、枷となるものは、何もない。
自分が、本当に、心からこうしたいと思う生活をしよう。
今まで行きたかった旅行だって行きたい。
知らない場所にだって住んでみたい。
今まで、必死に働いている横で、散々に見せつけられてきたんだ―――婚活だってしたい。
そして、あの頃できなかった、アートを生業として生きていくことだって―――
荷物をまとめよう。
今まで使ってきた施術着も、ロッカーの中に入っていたファブリーズも、洗顔ペーパーも―――すべてお別れだ。
中に姫容李さんがいることも忘れて、仮野は躊躇もなく室内に入った。
予想に反して、誰もいなかった。
蛍光灯が明滅している。
ホワイトボードに、今月の目標と、グラフ値が書かれている。
入真知のいた頃のものだろうか―――隅にキティちゃんのイラストが書かれていた。
ロッカーの前にしゃがみこむと、中の荷物をリュックに詰め始めた。
サイドポケットから、菓子パンが出てきた。
こないだ、柱田さんからゴルフのときに貰ったものだろう。
入真知の出現で、思考に整理がつかなかったのだろう。
今頃、自分の部屋であいつは何をしているのか―――TVはつけてきてやったが。
詰め終わったところで、背後から風を感じた。
クリーム色に汚れたカーテンがたなびいていた。
引違いの窓が半開きになっていた。
―――姫容李さんはベランダから出ていったんだろうか?
気づいたときだった。
風が大きくなり、カーテンが大きくめくれた。
窓の外が見えた。
姫容李さんが、顔に笑みを浮かべてこちらを見ていた。