人生迷子 学生時代
自己紹介のところにも書いたように、私は発達障害、毒親育ち、LGBTQ当事者である。
しかし、そのことに気付くのが遅すぎたように思う。
確かに、生きづらさはずっとあったのに、かなり無理をして、傷ついてなどいないような顔で生きてきた。
傷ついていると思われるのが許せなかったのだ。
子供の頃から引っ越しが多く、運悪く、かなり排他的な田舎に父親が根を下ろしてしまい、そこで地獄を見ることになるとは…。
1学年ひとクラスずつしかない小学校だったのだが、クラス全員…つまり、学年全員からのいじめに、2年以上耐え続けた。
中学はおおむね良好だったものの、今度は教師たちに目をつけられてしまったのはあるが。
高校は、自分の努力不足は勿論そうなのだが、希望した高校を、私のことを憎んでいた担任の女教師が、絶対に受けさせてくれなかった。
私は、行きたくない県立より、私立のほうがマシと判断し、高校受験放棄。
これは、よかったのか悪かったのか…?
勉強合宿が嫌、ということで、特進ではない普通科だったのだが、地獄の3年間になってしまう。
東大への進学実績もあることだし…と、この高校なら、そんな酷い学校ではないかと思いきや、甘かった。
特進の中でもトップの子たちは、それなりの大学に進学するものの、それはごく一部のみ。
私の居た普通科の生徒、特に女子は、地元の短大か、ほかの地方の短大や専門に推薦で進学する子ばかりなので、全く受験ムードもない。
言葉は悪いが、勉強できない子たちは大抵タチが悪かったので、もうバカ学校は御免だ!と思いながらも、何しろADHDのせいだけではなくとも、勉強する集中力など持ち合わせていない。
高3の夏休みが終わり、おもむろに、
(流石にヤバイぞ…!)
焦り始めたのだが、そこでラッキーなことが起こる。
中学の頃とは違い、高校では周りが不真面目な生徒ばかりなので、私は教師たちに気に入られた。
孤立していて、クラスメイトとは殆ど口もきかないのに、担任とはよく話したし、その担任のほうから指定校推薦の話を持ち掛けてくれたのだ。
学校に依るようだが、うちの学校では指定校推薦を自分で選ぶことはできず、教師のほうから打診がある。
私は、ある日突然、担任に誰も居ない教室に残るよう言われたので、何か怒られるようなことをしただろうか?と思ったら、指定校推薦の話だった。
卒業するまで、絶対に口外してはならないとのことだったのだが、他の学校の子の話によると全然そんなことはなかったので、うちの学校特有のものだったのかもしれない。
その大学は、都内の私立大学だが、実を言うと私は受験生になるまで、その大学を知らずに居た。
なので、評判やレベルもピンと来ない。
親に伝えたところ、意外なことに、その大学に確実に受かるのなら、そうした方がいいと言われたのだ。
うちの両親は、県内トップの高校出身ということもあり、学歴にはかなりうるさい。
自分たちが高卒なのは棚上げである。
「あの時代は、就職する人が大半だったから」
とのことだが、私には絶対に四大、しかも(親にとって)恥ずかしくないところへ行け、浪人も留年も許さない、と圧をかけられていた。
そんな親がOKを出すなら、悪い学校ではなさそうだし、A判定の大学に落ちることだっていくらでもあることを思えば、本当はもっと上を目指したかったものの、ほぼ確実に合格出来る、しかも悪くはない大学なら…と、私はまた、まともに受験をしないということになる。
進学したその大学は、私にとっては当たりだった。
高校の同級生が民度最悪だったのに対して、大学の友人らは、性格の悪い子など少数派。
ただ、入学式の日に声をかけてきた浪人生の子が、あまりに性格悪かったので、
(この大学もヤバイのでは…?)
と思ったが、卒業後になんとなく知った話によると、その彼女は、性格の悪さで有名だったらしい。
幸い、授業が始まれば必然的に友達も増え、何も、その性格の悪い子と居る必要もないので助かった。
友達も彼氏も出来て、悪くない大学生活だったのだが、入学して割とすぐ、私はある壁にぶつかる。
それは、どうやって勉強していいのかわからない、ということ。
高校の頃、ろくに勉強しなくてもトップで居られたのは、テスト前夜に丸暗記さえすれば、どうにでもなったから。
数学だけはどうにもならなかったものの、3年からは数学がなくなるので、そのお陰で一気に成績も伸びた。
しかし、大学では、講義を聴きながらノートにまとめる必要がある。
それが、どうしても出来ないのだ。
勉強しな行った筈の大学で勉強に躓き、不安がかなり強くなり、ついにうつ病にまでなってしまった。
実際はうつ病ではなく、あとになって判明したADHDによる二次障害なのだが、2000年代前半ではまだ、それを見抜くドクターは、東京にすら居なかった。
テキトーな病名をつけられたり、病気ではなく甘えだと言われたり。
この苦しみは尋常ではなかった。
病気でもない、ノートを取れないなんて馬鹿なこと、誰にも理解されない。
いくら優しい子が多かったとはいえ、当時はメンタルの病への理解も今のようになかったので、やはり甘えだと言う子も居た。
それでも、優しい友人らにいつもノートを借りて、無事、四年で卒業できた。
これでもう、苦しむことはないと思ったのだが、本当の苦しみは、ここから始まるのであった…。
薬の副作用で、4年で約40キロの増量もして、人々の自分を見る目も180度変わってしまったのもある。
続きは、「人生迷子 社会に出てから」にて。