金印・漢委奴国王の発見場所…謎解き・博多湾の検問所だ!
前回、国宝の金印についての『読み』の長期にわたる【酷すぎる過ち】について指摘させて頂いた。
次に、金印の発見場所についての歴史界の捉え方についてご紹介しよう。
一例を挙げておこう。
「倭人争乱」(日本の歴史② 集英社)から、
『…現在、金印出土推定値は金印公園として整備されているが、なぜこのあたりに金印が埋まっていたのか、出土後二〇〇年以上経過した今日でも、この謎をうまく解いた人はいない。…』
とある。
僭越ながら筆者が最初に?解いた人になろう。
では、奴国とは地図上でどう表されているだろうか?下図は発見場所である金印公園と南にある(現在の博多市付近にあった)奴国を示している。
要は、金印発見場所は、現在の博多湾の入り口に当たる場所に相当する。
外洋の対馬海峡から(内海に近い)博多湾に船舶が入るわけであるが、停泊や食を料などの補給、九州への上陸のための長期停泊など、現在と変わらぬ湾としての役目があった。
現在の博多湾にも多くの船舶が出入りしているのは地図に多くの航路が描かれているので分かる。そして湾南方の博多市も栄えている。
外洋を行き交う船舶にとってこのような入り江の湾は非常に重要だったことが理解される。
丁度、その入り口にあったのが志賀ノ島であり、金印の発見場所は、『港湾事務所』の置かれた場所であったと容易に想像がつく。
その後の歴史の中で自然災害、国の滅亡や戦争などによって『港湾事務所』も倒壊や火災などがあり、地中に埋まったのかも知れない。
しかし、金印の発見場所は『湾』にとっては重要な入口近くにあり、重要な役目を果たしたのであろう。