『失われたイスラエル部族』が建国した「新羅」ー2~3世紀に日本に大挙渡来したユダヤ人:銅鏡に刻まれた『年号』とは?
新羅は、『ローマ文化』の国であった(「ローマ文化王国ー新羅」由水常雄著)。
新羅は、文字を持たず、ローマ暦を使っていた。中国とも交渉をほとんど持たなかった。3世紀後半から4世紀後半に至るまで中国との外交の空白期間であった。
『大洪水』による『海面上昇』によって、朝鮮半島から日本列島へ新天地を求めて、渡来する際に、東アジアに共通する暦(こよみ)を銅鏡に刻ませて(中国の鏡作士)、かれらユダヤ人たちは日本列島に押し寄せた。新羅という国名は後につけられたもので、3世紀頃には、下図弁韓・辰韓が後に言う新羅である。
新羅(弁韓・辰韓)の民の渡来の際に、暦としての銅鏡を持参した。後に、日本の古墳から出土した年号の刻まれた銅鏡(紀年鏡という)が近畿各地の古墳から出土している。一般に中国で制作された銅鏡には年号は刻まれていない。下表は古代史勉強会に示されたものを転載。後に出土した紀年鏡は含まれていない。
恐らく朝鮮半島から海路、日本海若狭湾などの海岸線に上陸した民が遺したものであろう。