気鋭の歴史家から【歴史家へのメッセージ】…容易に解けたはずの謎『謎の百済観音』
皆さん、法隆寺に所蔵の美しい長身の『百済観音』(下写真)をご存知だと思います。
しかしこの像については、これまでほとんどの記事には、
『法隆寺の大宝蔵院に安置されている百済観音ですが、いつから法隆寺にあったのか、またなぜ法隆寺に伝わるのか、その来歴は謎に包まれています』
のように書かれています。
筆者4作目の著書「薬師如来像が語る飛鳥女帝王朝」(2021年12月)の中で、この像の由来などを明らかにしています。
それは、法隆寺に所蔵された造像記を調べると、すぐに発見出来ました。
これについては、拙著7章「発見! 百済観音出自」に詳しく記述しています。下に銅板の造像記1枚の表・裏の写真を示しました。
実際、この造像記が付けられていた像はこれまで不明とされて来ました。
記載されている内容は、表が下記になっています。
そして裏が、下記の記述です。
この造像記の注目すべき点は、
(1)申午年三月十八日
(2)鵤大寺
という二つの記載です。
まず、(2)鵤大寺 は、現在の法隆寺が建立される前に存在した、(焼失した)若草伽藍と呼ばれる寺院の呼称です。
この伽藍が存在したのは、607年~643年(炎上)なのです。
皆さんご存知の蘇我入鹿の襲撃で焼失したものです。これによって聖徳太子の上宮一家は滅んでしまいました。
その炎上の際に像は、伽藍から救出されて他の寺院に保管されました。
この救出は突然の出来事でしたので、『像』と『造像記』が離れてしまった訳です。
造像記の写真で分かるように、像からぶら下げて取りつけられていたようです。
ここまで来れば、事は容易です。
さて、(1)の年号ですが、607年~643年に適合するのは、干支年号『甲午』が該当するのは、60年サイクルですが、
634年
だけなのです。
以上が、『謎』解きの主要部分です。
誰が、何のために…造像記に書かれていますので省略します。
これまでの歴史家や評論家達は、真剣に探したのでしょうか?
どうも私には、そうは思えないのです。
誰かが、『謎の百済観音』と書けば、それの【受け売り】
が続いて多くの歴史家や美術・仏像評論家もこれを繰り返しただけでは無いでしょうか。
門外漢でも調べればわかることも多いのが実情でしょう。