古代の謎・太陽の道34度32分線…開発の基準線 どのように直線を描いたか?
すでに『太陽の道』が、卑弥呼の里からその墓である箸墓古墳に至り、最後には、『皇祖神』として『卑弥呼⇒天照大神』を祀る伊勢斎宮に向かって伸びたことを解説した。
では一体どうやってこの直線『太陽の道』を150㎞の距離で描いたのだろうか?
これに対する答えも意外に容易に分かるのである。
点から点に直線を引こうとすれば、始点からの終点までの方向が分かると終点に線を引くことが出来る。
始点は、淡路島であるので東に向かえば、海上にすぐ出ることになる。海上であるので春分の日に太陽が沈む地こそ、淡路島から真東の地になる。丁度、河内、和泉の中間あたりがその地に当たる。
従って、海を『太陽の道』が渡った地点を求めれば、そこが陸地(紀伊半島)の出発点になる。陸上でも太陽を追いかけて行けば、東に向かって『太陽の道』を描くことが出来る。
陸地で複雑な地形になる場合は、比較的短距離で方向を知ろうとすれば、光線を用いるのが、容易で誤差も少ない。
実際に、後に各地で土地開発が行われる場合にも(現代で言えば)測量に相当する技術があったと想定される。光を使うとした場合には、狼煙なども利用できるが、炎を使うので場所が限定される。
一つの可能性として、朝鮮半島で制作されたとする銅鏡が存在する。『多紐細文鏡』(たちゅうさいもんきょう)と呼ばれる朝鮮半島系の銅鏡 である。この銅鏡は、中国鏡 と異なり鏡面が 凹面鏡 となっているのである。裏面には、その中心を外れた位置に多紐、すなわち2ないし3か所の鈕(ちゅう)があり、直線や円弧、同心円などからなる細かな幾何学文様で飾っている。日本列島からも9点出土している。
多紐とは、把手のようなものが複数あり、紐などを通するために使われる。
凹面鏡は、御承知のように、光学的には、光を集める性質があるためランプやライト、サーチライトの集光鏡に用いられる。これは、凹面鏡に入射する光を散乱が少なくすることによって、離れた二か所を結ぶ光線として利用できるのであろう。これであれば陸地の凹凸にも対応して方向を決定でき、
測量に用いたのであろう。
多紐であるのは、固定したり、取り付けるためであったと想定される。通常の中国鏡では、1か所あれば吊るしたり出来たのであろう。
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