忘れられた部屋で

 誰にも会わないまま、人々の生活を窓から見守るばかりの夕暮れに、私は友人と電話の約束をした。陽が沈んでからも、しばらく窓辺のベッドに腰掛けていると、何も聞こえない夜のはじまりが頬につめたかった。
 質素な夕餉をこしらえて、熱い風呂に入り、それでも少し時間があまったので、文庫本を開いてみたが、活字の群れは目の上を滑り、そうしているうちに約束の時間がきた。
 小さな丸いグラスに氷を落として、安い酒を注いだ。大して美味くもないけれど、今の私にはこんな酒が似合いだろう。それに酒なんて、みんな喉を過ぎれば、胸に火がともる優しい海だ。

 友人との電話は二時間にも及んだ。何気ない毎日の憂鬱から、遠い将来の展望まで。私たちは自分の人生を保ちながらも、付かず離れずの距離で、お互いにここまできた。
 この部屋の窓から見える、懐かしい夕焼けが好きだった。どんなに季節が変わっても、この部屋に戻ってさえ来れば、僕たちはすぐに乾杯できたんだ。いつだってあの頃に戻れると知っていたから、僕は生きてゆくことができた。だけど、もう、僕はこの部屋にはいられない。次の部屋で待っているよ。また逢う日まで……。
 マッチを擦った彼の沈黙が、私にはそんな風に聞こえてならなかった。私は笑顔で泣きながら、彼を祝福した。心からの祝福と、心からの寂しさだった。

 じゃあ、また、春がくる頃に。そうして電話を切った。部屋には静寂が戻った。流しで空いたグラスを洗い、かじかんだ手で涙をぬぐった。幸福なんて、早いでも遅いでも、誰かと比べるものでもないけれど、なんだか私だけが、永遠に春の訪れない季節の隙間に置き去りにされたみたいで、たまらなく恐ろしかった。このままずっと夜が明けないのなら、いっそ誰にも忘れられたまま、夜に溶けてしまいたい。
 けれどもきっと朝は来て、私の寂しさは陽射しの中に透明になるだろう。そうして幸福の背広を着て、また明日に立ち向かうのだ。何もかもを隠してくれる、この夜を待ち詫びながら。

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