たとえてばかりの一日

 まるで私の頭上を駆け抜けていった花嫁のドレスの裾がかすめるように、白い陽射しが瞼にさわり、私は目醒めた。鉛のように重い身体をどうにか起こして、キッチンへ向かう。レプリカのように硬い蛇口をひねり、途端に叱られた子供の涙のように流れ始めた水の下に、触れないほど透明なコップを置く。たちまちコップの中は水でいっぱいになり、そうしてあふれる。その様子はさながら久方ぶりの酒の席で、愚痴の止まらないオフィスレディのようであった。
 一杯の水を飲むと、身体の中に川が流れる。もう一杯の水を飲むと、そこに海ができる。幸福でつつましい私の朝だ。
 膨れかけた女学生の乳房のように丸い目玉焼きをつくって、怨念のこもった涙のように黒い醤油をかけて食べる。それから顔を洗って歯を磨いて、身支度を整えたら出発だ。
 といっても、今日は休日、特別な用事があるわけでもない。ただ少し、そこいらを散歩しようと言うだけの話なのだ。言うなれば風息にまかせて揺れる菜の花のようなものだ。
 永遠のようにつづく玉川上水沿いを歩いてみる。散ったあとの桜の木に、夏を思わせる緑の葉がついている。大きく息を吸えば、私の心の内は炭酸水でみがいたように爽やかになる。
 木漏れ日を踏みつけながら歩く。ときどき、立ち止まっては、緑の隙間から射し込む春の太陽に、何故だか頬がゆるむ。向こうから歩いてくる若い女性と、眼が合った。すぐに逸らした。恋ではない。ただ、春を共有しているだけだ。それは電車のシートに隣り合って座ったとき、まどろみに肩を貸し合う様子にも似ていたし、バーで偶然同じカクテルを飲んでいるときの気分にも似ていた。
 彼女が通り過ぎたあと、私はふりかえらずに、歩いているような、走っているような、奇妙な浮かれ調子で少しだけ足を速めた。彼女もきっと、ふりかえらないだろうと思った。

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