ブランデーをワイングラスで
ざんげの値打ちもないけれど……
古い歌です。きっとみなさん若者たちは、知っているはずないでしょう。
ぼくはよく仕事をさぼっている。真面目に仕事をするふりをして、先輩に褒められて、その陰で、港に車を停めて昼寝をしているぼくがいる。だって、仕事が早く終わっちゃうんだもの。事務所に戻ってもやることないし、だからって制服姿でうろちょろするわけにもいかないし。
港に車とめて、上着を脱いで、汗をかいて眠った。そうして目覚めて、夕暮れが近づいて、また上着を羽織る。事務所に戻るころには、すっかり汗も乾いているかと思ったが、むしろ下着に染みた汗が、上着の背中にまで滲んできて、それに気づいた先輩が、がんばってるねと呟いた。
でもねえ、自営業でも、歩合制でもない限り、賃金ってのは拘束された時間によって決まるんだ。同じ量の仕事を、さっさと片付けて午後五時に退社した人間より、のろまで、どうにも月ののぼる時刻まで仕事が終わらない人間の方が、たくさんお金をもらえるという現実がある。それでいてそういう人間はがんばっていると思われるのだ。
確かにねえ、昔からそうだったよ。先生たちは、頑張るひとが好きだった。美術の時間にも、ぼくがとてもうまく描けたと思う力作や、センス抜群のあいつの絵より、先生は、過剰すぎるほど描きこんでいて目にまぶしい、ある優等生の絵をいちばんに褒めた。それは一見、うつくしいようでいて、なんだか、結果をまるごと無視されているみたいでかなしい。裏を返せば、結果に価値がないから、過程を評価するわけだ。
ぼくも一度、そうした悪習によって、見当違いの評価を受けたことがある。あれは中学生のころだった。家庭科の授業、担当の怖い女教師に、いつもみんなふるえ上がって、まともにおしゃべりもできやしない。裁縫という、ぼくの苦手なもののひとつである、そのいかにも家庭的な、お勉強らしいといえばお勉強らしい、その時間に、ぼくのつくった小さな人形は、決してよい出来ではなかったし、センスもまるっきりなかった。ただその顔を描くのに、ぼくは布の切り貼りより、糸のみによる刺繍をえらんだのだ。そのことが女教師の目に止まり、彼女はぼくに珍しい笑顔を見せた。がんばったね、と。ぼくは正直がんばったつもりなどまるでなかったし、なんなら嬉しくもなかった。それよりぼくが嬉しいのは、もともとの技術やセンス的なものを褒められたときであって、それこそが自分自身だと感じられるからだ。あとから時間と労力かけて組み立てた、努力なんてもの、褒められたところでたかが知れてる。
そんなことより、今人生でいちばんお金がないと言ってもいい。もちろんすべての資産を鑑みたら、小学生のころ欲しかったゲームを買ってしまったあとなんかよりは、幾分財布の膨らみに幅があるかもしれないけれど、それでも実感としては、今いちばんお金がないといえる。なんでお金がないのかと考えてみても、使ったからとしか言いようがない。旅行に行き、お酒を飲み、今度の井上陽水のライブのチケットを申し込み、そのほか、日々の小さな散財。ああ、ぼくは自らのことをケチだケチだと言いながら、なんて経済の活性化に貢献しているんだ! まったくろくでもないよ。明日だって君、金曜日だから、またお酒を飲むんだろう。ろくでもない。
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