僕が君の思い出になってあげよう
やまない雨はない、というけれど、ジュリーにはそれが希望の言葉には聞こえなかった。
「だったら、あの人の流したどんなに美しい涙でさえ、いつかは乾いてしまうんだな。」
駅からの帰り道、歩道に敷きつめられた桜の花弁を踏みつけながら歩いた。ジュリーにはそれがいたたまれなかった。春を殺しながら歩いているような気がしたのだ。
暗い部屋のベッドの上に横たわって、ジュリーは考えた。
「人は一生のうちに何度、さよならを口にするのだろう。」
眼を閉じて思い返してみる。幼稚園の頃のこと、小学生の頃のこと、中学生の頃のこと……。数えきれなかった。ひとつずつ、懐かしくなって、ひとつずつ、恋しくなった。
「もしも、さよならが必要のない世界だったら、人はみな未来におびえる心配はなくなるだろう。そして、思い出には、見向きもしなくなるだろう。そうしたら、この、懐かしいとか、恋しいとかいう感情は、消えてしまうのかな。それは、ちょっと、いやだな。」
テレビを点けた。いつもと変わらずげらげらと騒がしい。その、うるさくて、つめたいのが、ジュリーには、あたたかかった。無関係でいてくれる人の存在が、欲しくてたまらなかったのだ。
或る晩、友人の麦と酒を飲みながら、こんな話をした。
「桜が散ったら、もう春が終わったような気がするよ。」
「かといって、まだ夏がきたわけでもないし。」
「今は一体、何という名前の季節なんだろう。」
名前のない季節の中を歩くのは、奇妙な心地だった。卒業式のあと、永遠に入学式が行われない廃校の中を歩いているような気分がした。
酔い疲れた二人は、海辺で花火をすることにした。麦が去年の夏の残りをかばんの底から見つけたのだ。全部で十本ほどの、線香花火がある。二人は砂浜にしゃがみこんで、火をつけては、踊る光の玉を眺め、最後には落ちて消える。その繰り返しだった。
ジュリーはつぶやいた。
「花火って、きれいだけど、やっぱり消えたあとが淋しいよ。なんだか、花火をする前より、暗闇がずっと暗く感じるんだ。」
「同感だね。」
だったら始めから花火なんてしなきゃいい、そんな言葉は、二人とも云わなかった。
二十五階の窓からは、さっきまで花火をしていた浜辺が見える。ジュリーは、誰もいないその家で、ひとりいつまでも海を眺めていた。そのうちに夜が明けるだろう。明けない夜はない、だなんて、だったら夜はどこへ消えてしまうんだ。そんなことを考えながら、やがて陽がのぼるはずの水平線を見つめていた。
どうせ、朝焼けなんて見られやしない。すぐに眠ってしまって、知らぬ間に夜が明けてしまうのだから。判っているけど、もう少しだけ夜の中にいたかった。
もしも僕が科学者だったら、タイムマシンを発明できたのに。もしも僕が腕利きの花火師だったら、消えない花火をこしらえたのに。もしも僕が魔法使いだったなら、明けない夜さえ作って見せたのに……。泣きながらジュリーは眼を閉じた。
幾つ夜が過ぎただろう。二十五階の窓から見える景色は、雨だったり晴れだったり、波の高い日、海の青い日、星の夜や、月の夜と、様々だった。海なんて、ふたりで見ればロマンスだけど、ひとりで見ればセンチメンタルだ。
この家の留守番を始めて開けたウイスキーの壜が、いよいよ空になりそうなその日、雲はゆらりと水平線に影を落として、太陽の照り返しが水面を煌めかせて、窓を開ければ潮風が頬にべたついた。きっともうすぐ夏がくるのだ。
からからと、幽かに風鈴の音がした。それは玄関の扉に下げた、渚模様の風鈴だ。ジュリーのいる二十五階まで、吹き抜けの天井を伝って響いてきたのだ。次いで、とんとんと螺旋階段をのぼる小さな足音がする。足音はだんだんと大きくなってくる。確かに近づいてくる。
「おかえり。」
眼が合った恋人の、とんと変わらぬ姿に、ジュリーの心の内で永遠のように待ち侘びていたその瞬間が、たちまち一瞬へと変わっていった。
「ただいま。」
ヒロコは上着も脱がないままに、ジュリーの身体を抱きしめた。
「待たせてごめん。」
「待っていたことなんて、もう、忘れたよ。」
ジュリーは微笑んだ。
それからふたりは屋上へ出た。波は騒ぎ、太陽は吠え、ふたりのつながった影をコンクリートに灼きつけようとする。
「夏だね。」
「そうね。」
ふたりの汗がひと粒ずつ落ちて、それが乾いて空へのぼり、からまり合った水蒸気は風になってどこかへ旅立った。
「ゆうべ、君の夢を見たんだ。君の涙がぐんぐん溜まって、世界を海に沈めてしまう夢だ。夢の中でも、僕はヒーローになれなかった。」
それを聞いてヒロコは笑う。
「ヒーローなんて、なれっこないわ。貴方には、ロマンチスト以外の職業なんて向いてないんだから。それに、世界が海に沈んじゃうなんて、素敵だわ。そしたら、海の中で一緒に暮らせばいいだけの話じゃない。」
そう云ってヒロインは、もう一度笑った。
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