秘密

 あの娘は今日も私の家の駐車場に寝転んで、柔らかな白い腹を晒して甘ったるい声を上げる。私は車を飛び降りて、軽く頭を撫でてから抱きかかえ、キッス、それすら迷い心に、切れかけた蛍光灯のように数度ちらついて、消えた。いけない、あの娘は、別の人のもの。
 惜しみつつ背を向けて玄関の戸を開ける、鍵を下駄箱の上に置く、閉まりゆくドアの隙間から、あの娘が見ている。ふたつの瞳のかなしい潤みは、黄金色した宝石箱。ごめんね、家には入れてやれない。私達は、いつも外で、街角で、何も知らぬ旅人同士の振りをして逢うほかないのだ。さようなら、秋風。春先なのに、木枯らし。
 実はいつかの晩に、あの娘の主人が、スーツ姿のままで真夜中まで、あの娘の行方を捜していたことがあったのだ。その様子は、決してあの娘を糾弾するような、傲慢に満ちたものではなくて、ええ、仮にそうだったなら、私はあの娘を隠しただろう。隠して、隠し通して、誰にも渡さなかっただろう。けれどあの娘の主人ときたら、乱れた髪の張り付く頬の湿り気を、汗とも涙とも言い訳せずに、ただ私に尋ねたのだ。「うちの、見ませんでした?」私は、知らなかった。星は、囁かなかった。その頃には、まだ愛していなかったから。
 それからひと月と経っていない。或る休日の昼下がりであった。私は訳あって断ち始めたアルコールの代わりにつくったミルクセーキに、いつかの口づけの模倣をしながら、風鈴、パラソル、雲の陰。夏はもうすぐそこだった。あの娘は当たり前のように私の庭を歩いていた。迷い込んだのでも、逃げ込んだのでもなさそうだった。横目に私を認めても、素知らぬ振りをする。不思議と困惑しなかった。何故だか当たり前のように恋の始まりだった。けれどその想いは決して口にしてはならないのだった。美しく梳かされたあの娘の髪と、首元のガーネットに、目を瞑る事は出来なかったから。
 偶然出逢った見知らぬ娘を、あの娘によく似ているだけのどこかの娘を、私は愛するつもりでいれば良かったのだけれど、時々見かけるあの娘の主人の、思い詰めた顔に引きずられて臆病になった。出逢ったその日は指先さえ触れなかった。あの娘は幻のようだった。
 今夜、あの娘の夢を見た。凛々しくて、どこか儚げな横顔。私の耳をくすぐる、甘ったるい声。柔らかな手触り……。それはもう、私には恋しかった。あの娘は、ただ、陽射しをよりあたたかくするだけの硝子窓でも、庭先を彩るだけの季節の花の一輪でも、食卓に匂い立つ瓶詰めの蜂蜜でもなく、ノスタルジア、私には新しくなかった。恋しくて、懐かしい。たった数度の逢瀬で、もう……。
 すぐにでも部屋を飛び出してあの娘の元へ駆け寄りたかった。そうして、抱き寄せたい。けれどあの娘は、夜に溶けて、見えないから、私は久しぶりに詩を書くのだ。酒も飲まずに、新しい玩具を片手に持った私にとって、詩はぎこちなかった。さよならを言わない別れは、人を永遠に閉じ込める。
 君は今、どこにいますか。

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