夢見ることだけ許してよ
いつからか朝が、夜を待つだけの時間になってしまった。
目覚めたらすぐにもう、過ぎることを望まれる朝というやつは、かつては希望の象徴ではなかったか。あたらしい朝がきた、なんてラジオ体操の歌詞にあるけれど、朝のまぶしさに心洗われたことなど、もう長いことありはしない。それで洗いきれないほど、ぼくが汚れてしまっただけなのかもしれないけれど。
十年、というと、まだ学校に通っていて、少年だった。たとえば夏休みの一日は、清々しい朝から始まったかと言われれば、ぼくははっきりとそれに頷く自信がない。記憶が薄れているのもあるけれど、十年そこらでは、もう、今と変りないくらいの憂鬱の、せめて半分くらいは持ち合わせていたような気がするから。
色をおぼえたあとの人生にはもう、かつての朝は訪れないのかもしれない。なんてふと思った。
寝だめなんて言って、休日に時計の針の回るのも気にしないで遅くまで布団にくるまっていると、たちまち不健康が背を向けるかと言えばそうでもないし、いつからか眠ることの分類が、不眠と惰眠のふたつだけになってしまっているみたい。
おそろしいのは朝そのものじゃなくて、朝がきて、つまり、逃げられないということなんだと思う。目覚めればぼくを人間でなくさせるものが、あたりまえに居座っている景色を、想像するなという方がむずかしくて、それで良い夢見るなんてことが、もっともっとむずかしい。
ただそれだけのことを長々と書き連ねながら、ぼくはまた、夜の終りを先延ばしにしている。
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