白い部屋

 月がジュリーをにらみつけていた。お前を逃しはしないぞと。混み合ったホームに歯痒さを憶えながら、ふらつく足取りで人波を掻き分ける。たぶんもうだめだろう。今更走ったところでなにもかも取り戻せないだろう。なんのために走っているのか。なんのために。ここで線路に飛び降りて、バラバラになっちまったら、誰か後悔してくれるだろうか。それとも、つまらない男だったと呆れられておしまいだろうか。酔いのせいか、ジュリーは狂いそうだった。夜空がまっぷたつに裂けて黒い雨が降ってもおかしくなかった。満員電車ごと、このまま地平線の彼方へつきぬけて、星になってしまいたい。そしたら幾分楽だろう。愚かな自分さえも煌めきが誤魔化してくれるだろう。けれどもジュリーが乗っているのは、銀河鉄道でもなんでもなくて、単なる下りの電車である。窓の外、夜の街では、数え切れないほどの人の生活があって、それぞれがかなしみと幸福とを持ち合わせていて、だけど今夜はいやに明るい。きっと瞳の奥がまっくらなせいでまぶしいのだ。
 黄昏は名残もない。真夜中のドアは重く軋み、月光に青白く濡れたヒロコの頬には、微笑の予感さえ見られなかった。問いかけても返事はなく、あわててつけた部屋の灯りはすぐに消えた。昨日で電球が死んでしまったみたいだ。
 心の中にうずまく憂鬱に胃もたれした。こんなとき何を話せばよいのかジュリーには判らなかった。ときどき外を走る車の音とヘッドライトが暗闇を揺らすばかりだ。いっそ死んでしまったら、この部屋はいくらか明るくなるだろうか。思い立ってそれから、自らの命では蝋燭一本の役割さえ果たせないことに気づいて、行き場を失う。死ぬのはきっと正解ではない。ただ、生きてきたのが間違いだったのだ。そんな風にさえ思った。
 明日は来るのだろうか……。ジュリーは息をのんでヒロコに近づいた。「ねえ、ヒロコ、」そう言いながら彼女の肩に伸ばした手は、しかし何にも触れることはない。甘いまぼろしは月が雲に隠れると同時に消えてしまったのだ。あとに残ったのはただ孤独に向き合えない一人の男と、少し散らかった白い部屋だけだった。

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