雨女の酒肴|三題噺
三題噺スイッチ改訂版から出力したお題で三題噺。
'23/12/31出力。
キャプションはStable Diffusionで適当に出力。
コトバンク
「雨」「しるし」「菜っ葉服」
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年が明け、気候も少しは暖かくなりコートが不要になったある日、鹿倉由美絵《しかくらゆみえ》はレンガ造りの花壇の縁に腰掛けたスーツ姿の男を目にして足を留めた。
ようやく日が長くなり始め赤く染まった夕暮れ時を仕事帰りや買い出しの人々がすれ違う。東京は山手線の駅前だ。しょぼくれた姿で座り込んでいるその男、新部高典《にべたかのり》をわざわざ気にしている人影など他になく、皆足早に通り過ぎるか、各々待ち合わせまでスマートフォンをいじくっている。無関心で構築された秩序をかすかに乱すキャッチなど可愛いものだ。
自身もインターンシップの出先から直帰する道すがら、由美絵だけは高典に気を取られた。
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「ねぇあなた、気分でも悪いの?」
ほんの少し自然さを意識して由美絵が声をかけると、高典はくまの浮いた顔を上げた。由美絵にとってはなおさら良い事に疲れは見えるが目には生気がある。高典は由美絵よりは年上に見えるが、おじさんと呼ぶには少し若い。
高典は脱いだ藍色のジャケットと揃いのパンツにブラウンの革靴、短めの髪をふんわりとした清潔感のあるオールバックにまとめたところまで含めて、基本を抑えたクラシックなメンズスーツスタイルだ。
ところがどうしたことだろう。薄青色のシャツだけがまったくいただけない。どうすればそこまでしわを残せるのか不思議なほどによれていて、由美絵は一昔前に聞く菜っ葉服を連想した。
由美絵が一層気にしたのは、シャツのしわ以外の身なりが驚くほど整っていたからだった。しわの印象が強いシャツの袖口はシンプルだが高価なカフリンクスで留めているし、脱がれたジャケットと揃いのパンツも含めて生地は上物で恐らくはどれもジャストサイズのオーダーメイドだろう。ブラウンの革靴も長年磨いてきた独特の風合いがあり、いづれも出費と手入れをおざなりにしていては得られることはないものだ。
「君は」高典は屈んだ姿勢のまま由美絵を見上げて口を開く。「あの人達のご同僚かなにかかな?」指を差したのはさきほどから人混みを見渡しては右往左往するキャッチだった。
「いえいえ、通りすがりの学生ですよ」
体裁としては体調を慮って声をかけたにもかかわらずの言い草だったが、由美絵はあくまで自然体を装った。小洒落たレディススーツではあったが、十分学生で通る身なりだ。
「そんなに変に見えたかな?」高典は訝しげな様子のまま左手でつるりと剃られた右頬を撫でる。
「雨に打たれた子犬、とまではいきませんが、少々気にはなりまして」
高典は子犬と評するには十分大人だったが、由美絵にとってはその周囲は随分と雨が濃く降っている様に見えたのでこれは半分本当のことだった。
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世の中ではインターネットを「情報の海」に例えてウェブサイトを巡ることをサーフィンと形容するが、由美絵にとってはただ生きているだけで「情報の雨」の中に居るようなものだ。
住宅街の道端でさえひさしの影から小雨に手を伸ばしているのに等しく、都会の雑踏などは立っているだけでも道すがらの人々がさめざめと濡らしていく。日常の何気ない事物から人よりも多くのことを拾い上げる特性を持って生まれたのが由美絵だった。ほんの目の端に捉えたことや匂いや音、それら細やかな発見を統合して、物心付いたころには人よりも遥かに高い感度で気づきを得ることができていた。
そんな彼女からすれば妙な情報にまみれた高典は、日に照らされた人混みの中一人ずぶ濡れになっていたのだから気にも留める。
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「心配をかけてすまかったが、ご覧の通りただ座っているだけだから放おっておいてくれて構わないよ」
「そうですねぇ、でもちょっとお疲れに見えますよ」いささか迷惑そうな素振りを見せた高典の言葉を受けて、由美絵は思案しながら心配してみせる。そしてポンと、これはわざとらしく手を叩くと「そうだ、お暇でしたらこれから私と一杯飲みませんか?」と本題を切り出した。
呆けたのは高典である。確かに大なり小なり迷惑に感じてはいたものの一応は親切で声をかけてくれていた女性からいきなり飲みの誘いを受けたのだから、表情を崩して言葉を失った。
「私、鹿倉由美絵と言います」懐から名刺を取り出しながら伝える。
「あ、どうも。新部高典です」社会人に仕込まれた悲しい習性で自身の名刺と半自動的に交換した。「本当に学生さんなんですね」
「はい、専攻は古典建築です」名刺だけで信用するのは本来禁物だが、由美絵の身分に嘘はない。「新部さんは、へぇ、工業デザインをされているんですね。優秀そうです」
高典が肩書で優秀と言われて自嘲気味に微笑むのを見つつ、由美絵は続けた。
「ちょうど今日はインターンの上がりで、少しお酒を飲みたい気分だったんです。近くに行きつけのバーがあるので良ければお付き合い頂けませんか」
高典は困惑してはいるが断る気配はない。単純に意図を計りかねているのもあるが、疲労で思考が追いついていないのもあった。由美絵は今のうちにと高典の腕を引いて「さ、さ。行きましょう」と立ち上がらせる。キャリーバッグを片手にせかせかと手を引く由美絵にしたがって高典はずるずると歩き出した。
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由美絵が高典を連れ込んだのは近場のホテルのバーラウンジだ。価格帯としてはまぁまぁ高額な部類だが、落ち着いた雰囲気とサービスの品質、時折会話もする客層のいづれも気に入っていた。
ジャケットを羽織って、ラペルで縁取られたVゾーンから覗くシャツのフロント以外は整った姿に転じた高典は、されるがままにホールスタッフの案内でカウンターへ着いた。由美絵とはバーへ到着したところでお花を摘みにと一度別れている。
化粧直しもするから先に飲み始めていてもいいとも、改めて先に帰ってもいいとも言われていた。若干思考が整理され始めると女子学生にこうして酒場へ連れ込まれた現状に異常性を感じ始めたが、わざわざこういったホテルのバーを訪れる経験もあまりなく、雰囲気に飲まれたとでも言うのだろうか。バーテンダーに「お疲れのようですね」と声をかけられると自分が周囲からどう見られる状態なのかと今更恥ずかしさを覚え、どうにでもなれという気分になってしまっていた。
流石に由美絵を放おって飲み始めるのは気が引けたので、高典は水とおつまみでお茶を濁すことにした。こういったバーではカクテルを頼むのが常道なのだろうか。普段はビールかウイスキーばかりでカクテルの知識はさっぱりだ。由美絵がやってくる前に1杯目の注文を決めてしまおうと、高典はバーテンダーに尋ねていた。
疲労の気付けにちょうどいい辛口のオーソドックスな1杯としてジントニックはどうかと伺っていたところで、ようやく由美絵が席に訪れた。
「お待たせしてすみません。やっぱりスーツだと味気ないと思って、お着替えをしてきました」
振り返った高典の前にはビジネスライクなスーツ姿から一転、濃い赤色のワンピースドレスに変じた由美絵が立っていた。唇の紅はより深い赤色を引いて、髪をふんわりとアップ気味に纏めた大人の装いである。パンプスは流石にスーツ姿と同じものだろうが、気にならないヒールが組み合わされていた。
「君、わざわざそんな着替えを?」この場のためにという驚きと、手荷物に入れていたのかという驚きの両方の意味で高典は言葉を漏らした。他には何を持っているのやら、ただの仕事帰りにしては大きめの荷を引いていたわけだ。
「はい、職業柄一着は常備しているので。私は結構気に入っているんですが、如何ですか?」由美絵は言いながら高典の右席へ腰を据えた。
ぐっと距離が近づいて楚々とは言い難い程度に開いた胸元が高典の目線を引き付ける。
「職業柄って、インターンとはいえ学生さんでしょ?」年下の女性に手玉に取られている気恥ずかしさを誤魔化しながら、高典は疑問を口にした。
「こういう肩書も持ってるんですよ」由美絵は別の名刺を差し出した。
「――恋愛コンサルタント」
「趣味が高じまして、個人で学生から社会人までアドバイスや出会いの場のアテンドをしています」
なるほど、少し会話をしただけで人付き合いの上手さが伝わる。由美絵の正体に高典は少しの納得感を覚えた。安くないバーを行きつけにしているのは、学生ながらにそれだけの収入があるからだ。
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「それで君はどうして俺をここへ?」由美絵の正体が伺えたところで、高典の次の疑問はその目的に移った。
「お話はせっかくですからお酒を入れながらにしましょう」華やいだ笑顔で由美絵はバーテンダーに声をかける。「少し聞こえていたんですが、高典さんはジントニックにするんですよね。じゃぁ私はマティーニにします」
由美絵が細かいオプションを伝えるとバーテンダーは手早くカクテルを作り始めた。
「新部さんもお疲れでしょうけれど、私も今日は仕事上がりでそれなりに疲れているんですよ。仕事の疲れはお酒で流すのが一番です」由美絵はお冷で乾きを潤した。「明日はゼミもないですし、ちょっと多めに飲んじゃおうかな」
「ひょっとして結構な酒豪なのかな」
「そんなに強くはないんですが、味とふわふわした気持ちになれるのが心地いいんですよね。新部さんは如何ですか?」
「俺はもっぱら居酒屋だよ。質より量、味より食い気かな。こういうおしゃれな雰囲気はあんまり」
「服飾にはお金をかけられている様子なので、少し意外ですね」
「衣類は人に見せるものだからね。今だと相手企業との付き合いもあるから、装いで舐められるのは避けたい。君もそうだろう」
由美絵は「ふふ」と笑ってから同意を示した。自然に右足を組んで高典の方へそっと添えて。ざっくりとスカートの左側に入っていたスリットから、由美絵の白い太ももが覗かれた。
高典は由美絵がちらちらと魅せる誘惑に乱されつつも、軽快なテンポで振られる他愛のない話題にしばらくついていく。
「プライベートの楽しみとしてはお酒は好きなんですけどね。お付き合いの場が多くって、実はこうして自由に飲める日は多くないんです。もちろん友人を誘ったりもしますけど、たまにこうやって行きずりの人と話してみるのもいいものです」
「そうかな。気心の知れない相手と話しても、話題選びに気を使うじゃないか」
「新部さんは、今私と話すのに気を使っていますか?」
高典のボヤキに由美絵はちょっととぼけたように小首を傾げて訊いた。この仕草もまた、どこか計算されたものなのだろうと高典は勘付き始めていた。
「いや、今日はそんなに悪くないな」高典は左手で右頬を撫でながら言った。気づけばただただその場を楽しんでいた。
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そうこうしている内に2人分のカクテルができあがり、バーテンダーがそれぞれの前に置く。由美絵がグラスを手に取って高典の方へ掲げる。高典が応えてグラスを手に取り、カチンと打ち合わせて口をつけた。
「さて」由美絵はこくりと一口目を嚥下してから切り出した。「私がなぜ新部さんをお誘いしたのかでしたね」
そう、それだと高典は頷いた。
「そのシャツの秘密を伺いたくなったんです」
由美絵は高典の身につけているものを一つ一つ指差しながらその価値を指摘して、最後に胸元のしわに触れた。
「立派なシャツに刻まれたしわはなぜつけられたのか。そこまでは私は分からなかった」ピッと指を真っ直ぐに指して「酒のつまみに良さそうなネタじゃないですか」と付け加えた。
「ああ」なんだそんな事かと高典は思わず笑ってしまった。「仕事で失敗してしまってね。取引相手に掴みかかられてしまったんだ。もう挽回で手一杯さ。それでようやく仕事を終えてぼけっとしていたところに君が声をかけてくれたというわけさ」
またも自嘲して笑った高典だったが、由美絵の目を見てハッとした。
「それは嘘ですね」今度の由美絵は鋭く告げる。「掴みかかられたのが今日だとすると、シャツ以外の衣類があまりにも綺麗すぎます。今日より前で、着替えができていなかったとしても同じですし、衣類への意識が高い新部さんがシャツだけしわだらけのものをそのまま来ているとは考えられません。そもそもそのシャツのしわは一度の悶着でできるほど浅いものではありませんので、誤魔化しにしては上出来とは言えませんね」
冷静な指摘に高典は何も返せなかった。
「新部さん、私は誰がそのしわをつけたのかは、駅前であなたに声をかける前から分かっていました」由美絵が人差し指を立てる様はどこか演出めいている。「人につけられたしわである可能性が否定されるなら、あなたはご自分でそのしわをつけて、わざとそのアンバランスな姿を晒していたんです」
「だからそのなぜを私に教えてくれませんか」と言う由美絵の笑みが、高典には小悪魔的に見えた。
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「まぁ、直接仰って頂かなくても結構です。私は勝手に推理するだけですから」由美絵は硬直した高典を横目にグラスへ再び口をつけた。
高典はまたもや左手で右頬を撫でて、由美絵が二口目を喉へ通すまでの間逡巡する。そしてバーテンダーへ問いかけた。
「ここはショットグラスは頼めるのかな」もちろんと応えを受けると、由美絵へ矛先を向ける。「定番のやつ、やってみないかい」
「1杯飲んだら1つ答えるってやつですか?」
「そうそれ。バーテンさん、少しアルコール度数が低めのもので、ショットでちびちびやるのにいいのを用意して欲しいな」
バーテンダーは注文を承って支度を始めた。
「こういうのって普通強いのでやるものじゃないですか」
由美絵が言って、だからさと高典が頷く。
「余興だよ。じっくり楽しもうじゃないか」
由美絵が見つめる高典の目には、確かに生気が強く輝き始めていた。
「いいですね。今夜の席を楽しみましょう」
「まずはこの1杯目を味わってからな」高典もグラスを手に取り二口目を含んだ。
2人が注文の1杯目を味わい終える頃に、バーテンダーがショットグラスを並べた。由美絵は高典の方へ体を向ける。
「先手はどちらにしましょうか」
「もらってもいいかな」
高典が早速と手に取って、由美絵がどうぞと促す。高典はグラスを口に運び、一気に喉へ流し込んだ。1問目だ。
「気になっていたんだ。君、趣味が高じてコンサルティングをしていると言ったけど、どんな趣味でそんなことに?」
「あら」由美絵は口元に手を当て恥ずかしがってみせる。「思いの外直球な質問ですね」
いいですけど、と由美絵は言いながら手で覆うように唇を高典の耳へ寄せていく。
「私、いわゆるパパ活をしていたんです」
甘い囁き声を吹き込まれて高典は思わず身を引いた。その様を見て由美絵はくすりと微笑む。
「後手を頂いても?」
高典がコクコクと頷いて、今度は由美絵がグラスを空にした。
「スーツは何組くらい持っているんですか?」
「普段使いは5組くらいで、冠婚葬祭用が3着かな」
「パパ活ってその、どこまで?」
「お食事くらいですよ。人を見る目には自信があるので、ちゃんと割り切れている人だけを選んだんです」
「ネクタイにこだわりは?」
「本場の人間じゃないし、トレードマークにできるほどではないかな」
「"活動"をはじめたのはお金が欲しかったからかい?」
「あるに越したことはないものですから。でも一番は人に興味があったからです」
「ジャケットは三つボタンがお好きなんですか」
「二つボタンも持ってるけど、段返りのワンポイントは気に入ってるかな。ちなみにダブルはまだ手に入れていないよ」
「メンズスーツの知識は勉強したのかな、教わったのかな?」
「取っ掛かりとしてはある人に随分と教えて頂きました。見るべきところがわかり始めるとおもしろいですし、男性のお相手を推し量るのに便利なので覚えました」
「お仕事は独立されているということでよいのでしょうか?」
「あってるよ。副業として個人で小さい仕事を受けたりはずっとしてたけれど、2年前に退社して起業したんだ」
「その洞察力はどうやって養ったんだい?」
「強いて言うなら生まれつきですね。気づいたときには、そういうのが人よりも得意でした」
「企業での活動は長かったんですか?」
「新卒からだね。世話にはなったし、今でも仕事を紹介されたりはするよ」
「どうしてコンサルティングを?」
「大学に上がってから、それまでのコネでアテンドを始めたんです。不正なことをしている訳でもないので事業化してお金をいただく様になり、という流れですね」
「社会人の先輩として、お仕事をする上でアドバイスを頂けますか」
「説教臭いことはしたくないけれど、強いて言うなら謙虚であることかな」
「インターン先は建築事務所みたいだけど、その特技となにか関係が?」
「本当は史学や考古学に進みたかったんですけどね。私は活字よりも実体のあるものの方が相性がいいので、学びの多い建築や史跡が好きでした」
「今までに付き合った女性の人数は?」
「半年前に5人目と別れて今はフリーだよ」
「行きたかった専攻は諦めたのかい?」
「完全に諦めた訳じゃありませんが、士業の資格は保険が効きますから」
「別れを切り出したのはどちらからですか?」
「相手からだね。まだまだ独立したてで仕事を優先せざるを得ないことも多いんだけど、彼女の我慢を越えちゃってたらしい」
由美絵と高典は時に疑問から、時に脈絡なく、時に相手の質問を返すかの様に問答を続けていった。
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「しかしこんなバーに入り浸れるほど羽振りが良かったなら、君の"活動"は随分前からバレていたんじゃないか?」
「そんなことしてたらおかしいと思われるに決まっているじゃないですか。流石にこういうところを利用し始めたのはお酒が飲めるようになってからです」
何度もグラスを飲み干して、もう聞くこともなくなりつつあった高典は思いつくままに質問の権利を浪費していた。由美絵はそんな様子を怪しげな笑みを浮かべながら見て答えている。
「種明かしをすると、お相手の一人にちょうど割のいいバイトを紹介して頂ける方が居まして、普段は本当にバイトをしていたんです。"活動"の対価はバイト代で収まる程度の衣類とか小物を頂いて、本当のお賃金はまじめに貯金をしていたので、友人はもちろん両親だって貯まる一方だった通帳の金額を見なければ気づきようがなかったはずです」
アルコールで顔が赤くなり始めた高典は、噂に聞くパパ活のあけすけな実態を耳にしてある種の感嘆を覚えてしまった。
「貯めたお金は進学して一人暮らしをし始めてから少しずつ手を付けて、最後には副業の立ち上げ資金にしました。小規模な個人事業主ですけど、これでもまとまった収入になってまして、元手の回収はとっくに終わってますからいいお金の使い方をしましたね」
これまでに比べて由美絵の回答は饒舌で、高典はそれを疑問に思った。
「……今回は随分語ってくれるんだな」
「長々とお付き合い頂きましたし、そろそろサービスをしても良い頃合いかと」
もうじき止めという訳だ。高典は由美絵の言葉を受けて、左腕の時計に目をやった。
「と、いうことは次の質問が君が本当に聞きたかったことなのかな」
由美絵には知りたかった事があったはずだ。高典は本題となる質問が来ると身を固くする。そんな高典を見て由美絵はまたもやくすりと笑う。そのままグラスを手にとって飲み干す姿は、由美絵の1杯目の姿とそのまま重なった。
「いいえ、新部さん。私はもう、あなたが今着ているそのシャツになぜしわをつけたのか、その動機は分かっていると思います」
由美絵の質問ではない開陳に、一拍、ごくりと高典は息を飲んだ。
「今までの問答で何かを掴んだとでも?」答えになるようなことを聞かれたとも言ったとも思っていはいなかった。
「はい、でも一番のヒントはこのカウンターに来て、あなたの姿を見た時に気づきました」
すなわち2人がショットグラスに手を付け始めるその前に、由美絵は秘密の取っ掛かりを掴んでいた。
「自分では気づかないものなのかな。俺の姿がそんなにおかしかったかい」
高典は改めて自分の姿を見回したが、由美絵は首を横に振った。
「おかしくありませんでしたよ。それが問題だったんです。言ってみれば、駅前で声をかけた時に気づけてもよかったはずですが、こうして楽しいお酒に付き合って頂けたのでかえって得をしたものです」
一時目を伏せここで過ごした時間を振り返り、由美絵は続ける。
「ジャケットを着た新部さんはこちらを振り向くまでは身なりの良い男性そのものでした。綺麗すぎたんです。ところが正面からはどうにもVゾーンから覗く胸のしわが目についてだらしなく見える。変ですよね、シャツがジャケットから覗くのはなにもフロントだけではないのにです」
ここまでくれば高典にも由美絵が何に気づいたのかわかる。左手を喉元の横にある部位に添えて、高典は由美絵の次の言葉を待った。
「そうです。襟と袖、スーツスタイルである意味印象の要とも言えるその部位だけはアイロンが丁寧にかけられているから後ろ姿は整って見えたんです」それすなわち、「あなたが日頃からそのシャツを身頃だけわざとアイロンをかけずに手入れをしてきた証跡というわけですね」
高典は正解とも不正解とも示さずに、用意されていたグラスをまた飲み込んだ。
「……それが君の知りたかったことでいいのかな?」
由美絵は再び首を横に振る。
「これでは3割というところでしょうね。最初の新部さんの答えが残りの3割といったところでしょう」
「というと?」
「新部さんは"仕事で失敗して"、"依頼人に掴みかかられた"とおっしゃいました。このうち"掴みかかられた"というのは明らかな嘘でしたが、"仕事で失敗した"というのは本当だったんです」
高典は由美絵の言葉に驚かず、由美絵は続ける。
「私もまだまだ若輩者ですし、新部さんもまだまだこれからの人です。数年前なら尚更失敗もあるでしょう。嘘をつくときは真実を混ぜると信じさせやすいというやつですね」
高典は仕事で失敗したことを機に1枚のシャツをしわだらけにして、以降襟袖だけにアイロンをかけて手入れをし続けている。由美絵が辿り着いた真相の一端だった。
由美絵は手元のグラスをさらに空けて言う。
「ここまでで"なぜ"の6割。どうでしょうか」
「6割ね」高典は質問を受けた。「うん、そんなとこだろうな。残りの4割は"それをなぜ続けたのか"ってところかい?」
由美絵は心底楽しそうにうなずいている。高典は時間をかけてグラスを傾け、頬杖をつくと問いかけた。
「こちらも気分のいい時間を過ごさせて貰ったから、質問によっては答えてもいいかと思えていたんだけれど、このまま君の考えを聞くかどっちがいいかな」
「ぜひ、お話を聞かせてください」
由美絵はにっこりと喜悦を見せた。
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「どこから話そうか」高典は少しばかり言い淀んでから切り出した。「君は俺のことを優秀と言ってくれたけれど、世間一般からすれば頭一つ抜けている自負はあるよ。
「俺もインターンの時からそれなりに仕事を任されていてね。同期の中では多分出世頭ってやつだった。それでも君の言う通り、人間失敗とは無縁じゃいられない。俺もその例外にはなれなかった。
「当時の俺は我ながら傲慢なやつだった。尻拭いを下に見てた先輩にさせるのを恥だと思ったんだ。自分はインターンから成果を出してる鳴り物入りの新人で、方や地味で社員賞なんて縁もなさそうな社歴だけは中堅の先輩社員だ。肩を並べることなんてあるはずなかった。
「問題が発覚した後の先輩の火消しは見事としか言いようがなかったよ。企画のことなんて全然知らなかったはずなのに、上から指示が出たら掌握して八方収めるまではあっという間だった。俺がやったことと言えば一緒に頭を下げたことと、決めてもらった仕事をこなして後始末をしただけだった。
「後から聞いた話だけれど、先輩は段取り上手で人に手柄を立てさせるのが得意だったんだ。プロジェクトを担当すれば適材適所で仕事を振って、着実に高い質の成果を残すタイプだった。毎年何人かは先輩のプロジェクトに携わった人が表彰の候補には上がるくらいで、退職前には俺の上司として随分と世話になった」
「心強い縁の下の力持ちは1人でもいると組織が引き締まりますね」由美絵は高典が一息ついたところで言葉を挟んだ。「そんな人の価値を見抜けなかった"自分自信への怒り"が、そのシャツに現れているんですね」
「"怒り"」高典はつぶやいて独白を続ける。「そうかもしれないな。
「このシャツはやらかしたプロジェクトが終わった日に着ていたものなんだ。やることが全部終わってクローズした後、自宅に帰った俺が鏡を見たら、一流の仕事もできないくせに気取った態度を取ってる間抜けな新人の顔が目に入った。失敗した時は挽回するので頭が一杯だったけれど、とぼけた顔を見たら我慢ができなかった。
「ネクタイを外して脱ぎかけだったシャツをぐちゃぐちゃに丸めてぶん投げて、そのまま風呂にも入らず酒の勢いのままベッドにドスンだ。気に入ってたはずなのにどこにやったかなんてもうしばらく忘れてた。
「隙間に入り込んでたのを見つけたのは引っ越しの時だよ。捨てるかどうか悩んで広げてみたら、身頃に残ったしわがまるでキャンバスに描かれた現代アートみたいだった。まるっきり忘れたわけじゃなかったが、埃まみれになったこいつのしわを見たら当時のことが鮮明に浮かんだんだ。
「以来、こいつは自分が傲慢なやつなんだって事を思い出させてくれる大事な服になった。仕事が一段落した時とか、こうしてたまに着てやると尚更当時の自分が重なって見直せる。変わってない部分に気づくと、俺はまだまだだって思い知れる。
「だから俺には無二のシャツなんだ」
高典が語り終えて、由美絵はパチパチと手を叩いた。
「なるほど、そのシャツはまさに新部さんの歴史の一端を象徴するものなんですね」
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それから2人は気ままにカクテルを注文して、取るに足らない会話をした。お互いの仕事もシャツの秘密も関係なく、映画や音楽、トレンドの話なんかをただただ楽しみ笑いあった。
高典はスッキリした表情で、由美絵は変わらぬ笑顔で、この日に出会ったとは思えない距離感だ。
「そろそろお開きにしましょうか」
やがて由美絵が壁の時計を見て言うと、高典がそうしようと会計をバーテンに依頼した。
「実はこのシャツの事をちゃんと話したのは君がはじめてなんだ。彼女はみんな、俺がこの服を取っといてるのを不思議に思ってても深入りはしてこなかった」
「そうでしょうね。わざわざ言わないでいることを仕事でもないのに掘り起こそうなんて人は多くないですから」
どこか他人事に思える由美絵の口調が不思議で、高典はまた左手を右頬に当てた。
「君はなんでわざわざ聞き出そうだなんて思ったんだい?」
「だって楽しいじゃないですか。人に言えない他人の秘密を知るのって」
高典はしばらく思考を止めた後、おもわず苦笑した。
いよいよ駅前で偶然であった2人の一会は終わりを告げる。会計は相談なしに高典がクレジットで支払ったが、相応の高額になっていた。
「ありがとう。今日はなかなか妙な一日になったよ」
「それはよかったです」
由美絵は相も変わらず可愛らしげに手を振り始める。高典は軽く礼を送ると、しわだらけな青シャツの綺麗な襟を正してラウンジを去った。
終
発想のメモや反省として
一月開いてしまったが思い出しながら書いていく。
「菜っ葉服」をどう処理するかが最初の課題
「雨」や「しるし」などどう扱っても組み込めそうなお題はともかく「菜っ葉服」は変化球として使うにしても真っ当に行こうとすると幅が狭く頭を悩ませた。
そのまま使うとすると少し時代設定を遡って主人公に着せるか、主人公の父や祖父あたりが着ていた思い出にするか。やりようはありそうだけれどストーリーラインが面白くはならなそうだった。
こねくりまわして菜っ葉服の象徴である「藍色」、そして元々「ブルーカラー(ワーカー)」が着る服だったという点からクラシックスタイルとしては代表的な「薄青色のシャツの襟」に繋げのを思いついた。「青シャツの襟を正して男が去る」というシーンが浮かんだのはこの段階だ。
どうやってそこに辿り着くかが執筆過程の軸だったはずだが、書き上がったものを読み返してみるとゴール自体はあっさりとした描写になった。
ゴールに辿り着く取っ掛かりとしての「しるし」
青シャツ自体を「菜っ葉服」に見立てることにしたのは少し後だった。何か「菜っ葉服」に思い入れのある主人公がくじけていて、立ち直った結果として襟を正すという方向を検討敷いていたが、いいアイデアに繋がらなかったのは前述の通り。
であればどうするかというところで青シャツにしわをつけて、そのなぜを探る話しにしてはと進められるのはまぁまぁ筋が良かったのでは。
しわをつけた理由を探偵役が探る話しを考えて、探偵役が主人公に興味を持つ切欠としてしわだらけのシャツも含めた装いを「しるし」として使おうとした。
実を言うと「象徴」という単語を最終的に本文中で使ってしまったのがその場のノリというか勢い任せで、本来は明確に文中で「しるし」と繋がる単語を書く予定はなかった。
情報の「雨」と探偵役
「雨」の扱いを決めたのはChatGPTとの壁打ちの中で、情報の雨という言葉が上がってきたところから。探偵役には少なくとも主人公の服装に対して鋭敏であることが望ましかったので、普段から情報の雨を感じながら生きている人物として描くことにした。
そこからわざわざ主人公に話しかけるような人物像はどんなものかと考えて行き着いたのが一期一会の出会いを求めているナンパ師的なもので、探偵役のナンパ師が主人公に声をかけるところから話しを始めることにした。この時点ではバーラウンジ内で完結する構想だったが、探偵役の才能と、その視点からの主人公の描写を最初に厚くしたいということで人通りの多い駅前に変更、合わせて主人公自体を探偵役へ変更した。
男のシャツはなぜしわだらけなのか?
このWhyとしておもしろいと思えるものが浮かばなかったのが書き始めの遅れた原因で、結局解答へのヒントを散りばめるはずだった一問一答部分を仮で書き上げてから最低限それっぽそうなものをでっち上げた。
ミステリーをちゃんと作り上げるのは難しい。一応完成はさせたものの、もうちょっと上出来なものが思いつけていれば単なる開示っぽくなってしまった解答パートもよくなったのではと思う。
解答編と会話文の難しさ
執筆を通して苦労したのは三人称多元視点(神視点)での地の文のまとめ方と、会話文の書き方で、単純に慣れていない部分の試行錯誤があった。会話文はとくに、筆者自身が決して雑談を転がすのを得意とはしていないので、気の利いた雰囲気を出すのに苦労した。
完結を優先した部分はあるものの、元主人公の半独白として最終的な動機の開示を書くなら探偵役の相槌などを工夫して、会話文として楽しめるものにはしたかった。
アイデアノート
こんかいはChatGPTなどAI相手の壁打ち多め
ChatGPTと壁打ち
登場人物
鹿倉 由美絵 (しかくら ゆみえ)
主人公。語り部。女性。25歳。
「情報の雨」の中を生きる
インターネットを「情報の海」に例えてウェブサイトを巡ることをサーフィンに形容するが、由美絵にとってはただ生きているだけで「情報の雨」の中に居るようなものだ。
身の回りの何気ない事物から情報を拾い上げることが得意な由美絵にとって、住宅街の道端でさえひさしの影から小雨に手を伸ばしているのに等しく、都会の雑踏などは立っているだけでも豪雨のように感じられる。
一級建築士を目指す大学院生
事物から自然体で情報を受け取れる由美絵は史跡や建築物との相性がよく幼少から建築史に興味を持つ。大学では建築学を専攻、院進して一級建築士の合格を目指している。
インターンシップの出先から帰宅する中、高典を見かけて声をかける。
「元」パパ活女子
目端が効き耳年増だった由美絵がパパ活に手を出したのは高校生の時分である。
「そういうお金の稼ぎ方がある」と知った由美絵は極めて信頼できると判断した学校の先輩からだけ紹介を受けパパ活を始めた。相手も実際にあった上でストーカー紛いのプロファイリングを行い「過剰な行為」を求められない相手を選んだ。
知り合った男性の一人に紹介されたごく一般のバイトを始め、見返りは分相応なほどほどの衣類や物品だけを受け取ったため、両親や周りからはその給金で買い物をしていると思われていた。
大学に進学すると由美絵は伝手を利用してパパ活をする側からアテンドする側へ回った。コネを辿って男性達や、彼らと繋がりを持ちたい女性達が知り合う場を提供したり、より良い出会いのためだったりもっとくだらない異性に対する相談を請け負うコンサルタントのようなものだ。
一定の質が担保される相手を紹介できることや、的を射たアドバイスをすることで知られた由美絵は在学中に起業し「恋愛コンサルタント」を名乗るようになった。
出会いの場に同席したり、相談相手として異性と接する事が多い由美絵は無目的な酒の席に着くことは少なかったが、そういった関係に飽いて時折ただ世間話をする相手を求めてバーに立ち寄ることがあった。
そのしょぼくれた面を見た由美絵は、高典を今夜の晩酌相手に決めた。
新部 高典 (にべ たかのり)
由美絵が見つけたスーツの男。
菜っ葉服を思わせるほどにしわが寄ったシャツを着た男
雨も降っていないのにずぶ濡れになったかのような雰囲気を漂わせ駅前に座り込んでいた。由美絵は高典の姿を見て、しわが寄ったシャツから菜っ葉服を連想した。
由美絵が気に留めたのはしわの寄ったシャツを含め、それ以外の身なりは驚くほど整っていたからだった。シャツもそうだが脱がれた藍色のジャケットと揃いのパンツの生地は上物でジャストサイズのオーダーメイドだろう。ひょっとしたら本切羽ではないだろうか。シャツの袖口にはシンプルだが高価なカフリンクスで留めている。ブラウンの革靴も長年磨いてきた独特の風合いがある。
誰もが目を背けるどんよりとした雰囲気を漂わせながら、丁寧に揃えた衣類に身を包んでいる男、それでいてシャツはどうすればそうなるのかと思うほどにしわ々という不思議さに由美絵興味を惹かれた。
なぜシャツにしわをつけたのか?
衝動的。怒り。
駆け出しの頃、未熟なりに給料だけは貰っていた高典は舐められないように身なりを整えていた。力不足で上司に尻拭いをさせた時に衝動的に脱ぎ捨てたシャツを丸めて床に叩きつけた。
数日後に放置していたシャツに気づいて広げた時に、ついたしわに妙な感慨を覚えた。まっさらだったキャンパスの様なシャツにつけた自分自身の未熟に対する怒り。それが刻まれたシャツを高典はそのままにしておく事にした。もちろん洗いはしたけれど、襟以外にはアイロンをかけなかった。
普段は壁にかけているそのシャツを、高典は時折身につけている。自分の怒りを思い出すために。
薄青色のシャツの襟を正してラウンジを去る