何もしなくても良いという話
「自分にご褒美」という言葉が定着したのっていつなのだろう。最初に聞いたときから違和感を覚えた。
私の場合いつもそうなのですが、その言葉の持つ何かが不協和音を奏でていることにまず気づく。理由はわからないけど、とにかく気味が悪いのです。
そもそも、自分へのご褒美ってなんだろう? 何かと理由をつけなくても、自分を労ったり、いたわったり、うっとりしたって良いではないか。そういうことの日常使いって、背徳的なものなのでしょうか?慎みがないのでしょうか?
私が育った家庭は、父が特に良いもの好きで、美味しいものが大好きでした。父の両親(私の祖父母)も明治生まれではあるけれど、好きな食材をお取り寄せしたり、伊勢海老のパスタが美味しいと言われる真鶴のお店に、自宅のある横浜からわざわざ車を走らせて食べに行くというような人たちだった。私が小さい時も、父は馴染みの鮨屋から「いいネタが入った」と連絡をもらえば、私たち母子も呼び寄せて一緒に鮨屋ののれんをくぐったものでした。
外食をした翌日に母が知人と何気なく話せば、「あら?お給料日だったの?」と言われるのだと不思議がった。給料日まで待たなくたって、美味しいものを食べに行きたいわよねえ、と。
「自分へのご褒美」なんて言わずに、好きな時に好きなものを買えばいいのに。こういうことが言いたいのだと思う。
でもどうして「自分にご褒美」という言い方があり、今ではすっかり市民権を得たのだろうか。色々考えたのですが、きっとその前提には「自分を甘やかしてはならない」とか「慎ましく生きることが美徳」のような「欲しがりません勝つまでは」的な、時代錯誤も甚だしいとばっさり斬れないバックグラウンドがあるのかもしれない。
英語でもそういえば、自分を甘やかすという表現はある。I spoil myself. I treat myself. I pamper myself.....でもそこにはベースとなるストイックさのニュアンスは感じられない。もっとIndulge (欲望に忠実になる、快楽に身を任せる)色が帯びているのかもしれない。きっとそうだ。だって
「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」(平兼盛 拾位集)
と「しのぶ」=堪えること、が慎み深く美しいという前提のある文化だったから。(それはそれで美しい。)
私は思うのだけど、私たちって本当はみな尊い存在で、自分の存在価値だとかを誰にも証明することなんてしなくて良い。でもどこかに、何かをした代償として自分の価値をはかるみたいなところがあるのではないかしら?
私にも「何も成し遂げていない」とか「まだまだ不十分」だなんて思う時もあったわけで、でもそういう時には決まってそのようなくだらない考えを打ち消す出来事が起きるのです。
夫から突然差し出されたプレゼントに理由を問えば、そんなものない、という。Just because だと。しいて言えば彼がそうしたかっただけで、それは私が何かをしたとかの引き換えではなく、私を喜ばせたかった。そう、私は私であること以外、何もする必要なんてないのでした。
私がまだ20代のある夏、その時の恋人に突然ビーチにピクニックに行こうと持ち掛けられた。途中、食材や飲み物などを買い込んで、車に詰め、ビーチに着いたら、彼は太陽の日差しと相性が良いといえない私に簡易テントのような日除けを作ってくれたり、甲斐甲斐しくピクニックの用意を始めた。何か手伝いましょうか、と言う私に、彼はこう言いました。
Just sit here and look beautiful. (そこに座って美しくいて。)
なので、私はそのとおりにしました。Beautifulは彼の主観なので、私にはわかりませんが、とにかくただ座ってそこにいて、というので、そうしたのです。特に何をすることもなく。そう、何もする必要がなかったのです。私であること以外に。(彼は私をBeautifulと形容したことは、私がここに書いているからお分かりのように、印象を残しました。20年以上経っても。そのほかに起きた彼との色々なよろしくない出来事さえ打ち消すかのように(笑))
こういう経験がそういえば私にはいくつかあって、そこには共通したメッセージがいつもあったのです。それは「何もする必要はない」ということ。自分に「ご褒美」とエクスキューズをつけずとも、そうしたかったらそうすれば良い。だって私は何をしなくても良いのだから、そのままで尊重され大切にされるのですから。
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