挑戦することを「怖い」と思わないのは、棘(いばら)の道を想定していないから
野口英世とかキュリー夫人などの偉人伝を幼い頃によく読まされて、というか読んでいたのだけど、私の感想といえば、「偉人は苦労して大変だった。私は私でよかった」に常に落ち着いていた。
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(私は私でよかったって!今さらだけど、すごい何様貴様発言!?どうやら私、かなりナマイキなチビだったようね。)
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偉人の成功は素晴らしいと讃える気持ちはあるけれど、苦労話が嫌で嫌で、「そんな苦労しなくてもよい私の人生のほうが良い」みたいな子どもとしての純粋な気持ちだったのだと思う。
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でもそのようにみんなが捉えていたわけではなく、むしろ周りの多くは、
「苦労をしなくては成し遂げられない」という一種のサブリミナルメッセージ的なものを無意識にキャッチしたのではないかしら。
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「苦労は買ってでもしろ」とか「かわいい子には旅をさせよ」とかいうので、そういうものか、と。
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(でも旅はいい例えよね。私だったらヨーロッパのラグジュアリーな旅を
お願いしたいわ、なんて思うだろうけれど)
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もとい
「苦労」が「美徳」なのがどうもしっくりいかなかった。でも「苦労」が糧になって、成功したというストーリーは納得。
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「苦労」がマストと受け止めると話がちがってくる。苦労しないと成功できない、に書き換わってしまうと、日常生活のささいな挑戦ででさえ純粋にたやすくトライしていけなくなるのかもしれない。
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だから、(だけではないけど)成し遂げようとすることに対して(その大小は置いておいて)憶病になるのかもしれない。
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もしくはハードルや障害物などを無意識のうちに作りたてて、険しい道を自ら歩もうとする。
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でも痛いのとか辛いのとかって単純に嫌だから、そんなことはできない、という根底の思いがあるから、潜在意識はなんでも言うことを叶えてくれるからそちらの声を優先してくれ、棘の道を超えることをできなくする。結果その先にあるはずの夢に届かない。
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「仮想・いばらの道」は不要!とにかくやってみたらよい。
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そして実際に目の前にいばらの道が広がったら、その時はその時でその通り方を考えたらよいと思うのです。
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石橋を叩いて渡るタイプではない私ですが、これはちょっと、というものはキャッチしているようで、このとおり、今まで死なずにすんでいます。
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挑戦に怖いとかあまり思わないのは、棘の道を想定していないからなのだと思う。
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じゃあ、私、もっともっとやったらいいのよね。自分を喜ばせることを。そうしよう。
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P.S. 私はキュリー夫人の偉人伝が今でも怖いのは、マーニャ(夫人の幼い頃)の母親が結核になってしまい隔離されてしまったことと、ク リミア戦争。(だからいつも「クリ ミア」に反応するの。2014年のクリミ ア併合とか、もう目が離せず現在になってしまい、怖い。悲しい。)