幽谷霧子とお日さまに対する僅かばかりの考察
※G.R.A.D.編のネタバレまで含みます。
※既出でしたらごめんなさい。同じ考えの人が居るということでお許しを。
はじめまして。
この度シャニマス投稿祭なるものを知り、すぐにアカウントを取得し、そのまま書いている次第です。シャニマスは始めてからだいたい1年以上で、true回収も大抵出来る程度には整っているところです。
挨拶はこれくらいにして、本題へ。もっとも、大上段に構えるようなタイトルですが、一人のプレイヤーの戯言として、ご笑覧下されば幸いです。
シャニマスでお日さまといえば、プレイしている皆さんは当然ながら幽谷霧子(以下、霧子)を連想なさるかと思います。彼女のプロデューサー(以下、P)が、「霧子が、お日さまなんだ……」とつぶやくシーンは、良くも悪くも有名かと存じます。そもそも、霧子をプロデュースすると、このPが明らかに霧子にベタ惚れした状態(一部では気色悪いとも形容される)からスタートするなど、他の子をプロデュースした際とは明らかに異なる描写がなされているのも特徴かと思います。
さて、この文章で提起したいのは、霧子とお日さまの関係、言うなれば、霧子とってお日さまとは何か? という疑問です。この疑問について、ゲーム内で提示されているコミュを中心に眺めながら、考えていきたいと思います。
コミュ1. 【天・天・白・布】おひさまと布
冒頭に紹介した、「霧子が、お日さまなんだ……」が出てくるコミュです。霧子は病院の寮に住んでおり、その病院でボランティアに勤しんでいます。その一環として、大量のシーツを天日干ししているところでPが現れます。彼はシーツの合間に居るはずの霧子を見失ってしまいますが、霧子が見つけてくれます。「お日さまが……教えてくれるんです……」という言葉から、Pは影を連想します。そこから、Pは、お日さまの匂いが付いたシーツが所狭しと並ぶ光景から、霧子こそがお日さま、つまり、お日さまの使いであると連想するという展開です。
お日さまの匂いというのは気持ちいいものです。日がな一日病院の中にいる入院患者に、せめてそれを感じてもらおうとする霧子は、確かにお日さまの使いかもしれません。
ここでは、お日さまは優しく暖かな存在として描かれています。この後、霧子はPを太陽で温まったベンチへ誘導しています。
コミュ2. 【菜・菜・輪・舞】坂道
しかし、霧子にとって、お日さまは優しい面だけのものではないようです。
陽炎が立つほどの暑い日、2人は坂を登っています。立ち止まり、代わりばんこに扇ぎ涼を取ります。そして、出発しようとする時に、プレイヤーに選択肢が提示されます。ここで、Pがカバンで影を作るのを選択すると、霧子が次のように言います。
「……暑い人のおかげで……涼しいところができて……そうやって……いっぱい命が……生きてます」
お日さまに対し、受けて立つ人々が居るおかげで、生き永らえる人たちが居るとも読めます。病院に住む霧子らしい考えでしょうか。ここでの、お日さまは、人間に試練を課す、自然の厳しさの象徴のようです。
コミュ3. G.R.A.D.編 パン~お日さま
それだけではありません。お日さまは、霧子にとって、自然に存在する天体以上の存在なのかもしれません。
アイドルを目指すか、医者を目指すか。霧子は進路に悩んでいます。霧子はお日さまに対し、「お日さま……わたしは……(以下略)」という、出場したくても怪我で叶わない者を見て、現在自分の置かれた境遇を思い悩む、懺悔にも近い言葉を吐露しています。
されど、お日さまは何も語ることはなかったようです。
悩める霧子にPは耳を傾け、諭します。どちらかを選ぶのではなく、今はどちらも目指し続ければ良い。霧子がどうすべきか分かるその時まで、霧子にとって、大事だと思うことを、全て取り組むべき、と。
光合成に関する問題を解き終え、模試が終了し、退出した後、霧子はお日さまに、自分のこれからを宣言し、大会前のコミュは終わります。
霧子にとってお日さまとは?
青森という地
この題について、まず、霧子が青森県出身という点に着目してみます。特技にりんごの皮むきを挙げるくらいの彼女ですから、かつて暮らした青森の地の環境は彼女に影響していると考えるのが自然でしょう。尚、青森県は広く、西部(弘前や津軽)と東部(青森や八戸や下北)で気候や風土が全然違うのですが、あまりそこにはこだわらないことにします。
青森の冬は厳しい。特に西部では豪雪に見舞われます。また、寒さもひとしおです。その中で、たまに訪れる冬の晴れ間は暖かなものに感じるでしょう。夏は東京ほど暑くないものの、30℃を超えることもあります。日差しを辛く感じるときもあるでしょう。しかし、陽の光を浴びて、りんごは赤く色づきます。太陽は命に彩りを与えるものなのです。これとコミュ1、2と合わせて考えると、霧子にとって、お日さまは生き物を見守る大きな存在なのでしょう。
お日さま信仰
けれども、霧子とお日さまの関係性は、それだけでは説明しきれません。コミュ3にあるように、霧子はお日さまに問いかけます。半ば自らにも問いながら。ここに、私は一種の宗教性を感じました。もがき苦しむ者を目の当たりにして、自らやその信条を問う求道者という構図です。また、G.R.A.D.編では『パン』という単語がよく出てくるのも示唆的です。キリスト教において、パンはイエスの肉体を意味するので、非常に重要なものです。医術はキリスト教に限らず宗教全般とは現代でも切っても切れない関係を持っていることから、霧子の持つ世界観とも関係があるのではないかとも考えました(もっとも、霧子はステンドグラスを見たことがなかったと言ってますが……)。
宗教性を盛り込んだ作品は、媒体問わず数多ありますが、この手のジレンマはよく現れます。例えば、数年前に再び映画化された小説、遠藤周作の『沈黙』では、(『沈黙』については、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%BB%99_(%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C)などを各自参照していただく)、このようなシーンがあります。江戸時代初期のキリスト教弾圧期の日本に密航した宣教師の主人公は、幕府に捕まり、棄教(転ぶと表記される)を要求されます。そして、棄教を宣言しても拷問に苦しめ続けられる一般信徒の呻き声を耳にしながら、牢屋の中で自問します。神にも問いながら。教えに殉ずるか、民を救うために転ぶか。二律背反です。夜が明け、最終的に主人公は後者を選び、踏み絵を踏むことになります。寧ろそれによって、神の沈黙の意味(=神は民の苦しみを分かち合うためにある)を知ることとなります。そして、切支丹屋敷に収監され、生を終えます。
霧子はどうでしょうか。怪我のせいで大会に出たくても出れないアイドルに出くわし、罵られた後、自問します。自らの信条(≒お日さまの教え、もしくは霧子の世界)に殉じ、教師の薦め通りに医術を志すべきか、それとも、アイドルを目指し続けるすべきなのか(当初、霧子は自分を変えるためにアイドルに応募した)。この二者択一に囚われる格好になります。
霧子は、Pの言葉により、決断を先送りにし、どちらも追い求め続けることになります。模試を終え、レッスンに向かう道すがら、お日さまに、アイドルを目指し続けることを宣言します。また、模試の問題には、光合成を題材にしたものがありました。光合成は、太陽エネルギーをもとに、植物が、二酸化炭素と水からブドウ糖を作り出す反応です。ブドウ糖は、炭水化物の一種、つまり、パンの成分の一つです。優勝後、霧子はPに「霧子は、最初のパンをつくったんだよ」、「霧子もパン、もらっていいんだ」、「迷ったっていいんだ(中略)答えが見つかるまで」という言葉をもらいます。その後、霧子は「いちばん最初に……パンをくれたのは……(プロデュース当初のPを回想)」と述懐して、G.R.A.D.編は終わります。
この点から考えると、霧子にとってお日さまは、自分に寄り添ってくれるもの、いわば心や考えの拠り所、ひいては信仰の対象なのかもしれません。だからこそ、コミュ1で、「お日さまが……教えてくれるんです……」と霧子は言ったのではないでしょうか。霧子が水やりをするゼラニウムさんやユキノシタさんは、光がなければ、生きていけません。霧子もお日さまが必要なのです。しかし、G.R.A.D.を越えて、心の拠り所をお日さまのみならず、Pにも求めることが出来ました。また、霧子はパン、即ち希望を与える存在、つまり、誰かにとってのお日さまになれることに気付きました。植物の光合成のように、光から希望を作り出し、しかもそれを誰かに与えられるのです。
結びに代えて
霧子はお日さまへの信仰を棄てたのでしょうか? おそらく、それはNoでしょう。お日さまはこれからも霧子に寄り添い続け、霧子の価値観を作り支え続けるでしょう。それよりも、霧子が自分の中のお日さまに気付けたことが重要ではないかと考えます。問い続け、求め続け、誰かに与えつ与えられつの存在。それが幽谷霧子であり、それを自覚したのですから。そういう点では、冒頭に紹介した、「霧子が、お日さまなんだ……」というPの言葉は的を射たものだったのかもしれません。
そして、17歳の霧子が描く独特な世界観に惹かれた、霧子P諸兄にとっても、霧子がお日さまであるのは不変でございましょう。世にお日さまがあらんことを。
雑感
キリスト教というと、大浦天主堂や潜伏キリシタンで長崎が有名ですが、霧子の属するグループには、長崎出身の、器とバストがでかすぎる子が居ます。彼女が霧子の世界の理解者であるのは、実は自明なことなのかもしれません……。
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