ジャコウウシを追いかける。
「あの山の斜面に、ジャコウウシが何匹か見える!!」
どこから出したのか、顔より大きな双眼鏡を覗き込みながら、ヘンリックが叫んだ。彼の家族は1人ずつその姿を確認して、私にも双眼鏡が回って来た。
「え?どれ?」
私には全く見えなかった。
私がいるのは、ノルウェーのDovrefjell国立公園。2016年8月11日。
ジャコウウシは太古から地球に生息する哺乳類で、北極に近い地域に生息している生き物らしい。日本人の私には全く馴染みがない。体長は成体で1.4~2m、体高は1~1.5mほど。
私がよく理解しているのは、ジャコウウシを刺激したら死を意味するという事。最速、時速60kmで走ることが可能なので、強靭な体に激突されるような事はまずしない方が良い。
この国立公園では、ジャコウウシの群れが何組か保護され、自然ガイド付きのサファリも行われている。ヘンリックの家族はみんな、トレッキングやキャンプが大好きで、今年の夏はこの地を訪れていた。
余談だが、私は2015年に、ニュージーランドでヘンリックに遭遇し(この言葉は正しい)珍鳥のキゥイが見られるスポットに案内したのが縁で、この年はノルウェーを訪れていた。
「ニュージーランドの自然が気に入ったなら、ノルウェーに来いよ!更に壮大だからね!」
全くその通りだった。
Dovrefjell国立公園は、壮大な自然の王国で、見たこともない景色が広がっていた。森林限界より遥かに上のこの地では、 低木や苔が大地を覆う。湿地も多く、気をつけないとぬかるみにズボッとはまるが、その湿地の影響で苔が美しい。レインディアモスという苔が広がる場所を歩くと、まるで雲の上を歩いているようにフワフワとして心地が良い。その苔はまるでフィルターのように、流れる水を濾過し、豊かな水源を作り出している。実際に小川の水はそのまま飲むことが出来た。純粋なミネラルウォーター。ノルウェー人は自分たちの国土に流れる水を誇りに思っている。
さて、ヘンリック一家のキャンプ旅に混ぜてもらった私。この日は、間違いなくジャコウウシを探す旅になりそうだった。かなり遠くの山の斜面にジャコウウシの姿を見つけて、一家皆んなその方角に進んでいた。
10kmほど歩いて、目的の山の斜面にたどり着いた。ヘンリック達はどうやってジャコウウシを近くで見られるか、作戦を練っていた。
斜面の下側から近づいて気がつかれた場合、蹴落とされる可能性は高い。遠回りして、上から近づけば、隠れながら限界まで近づける可能性はある。
そうして、作戦は決行された。
木が生えていないため、割と登りやすく苔はいつもクッションの様だった。緩やかな斜面をしばらく登ると、ジャコウウシ達がいる場所のほぼ真上まで来た。といってもかなり距離はあるので、もう少し近づきたかった。幸い、群れの前にはちょっとした谷の様なものがあり、その向かい側に降りていっても直ぐには近づかれない様な地形になっていた。それでも、無頓着に近づくのは危険なので、希望者だけホフク前進で近づく事にした。
私とヘンリックのみ、近づいて写真を撮る事にした。怖いもの知らず。
フワフワの苔の上を腹ばいで滑り降り、後30mの所まで近づいた。その姿を想像すると、今でも笑ってしまう。私たちの目の前には身を隠す小さな岩場と谷があり、その先でジャコウウシ達が草を食んでいた。2人とも大興奮でカメラにその姿を収める。
一番体の大きなオスがこちらをじーっと見ている。私はカメラを通して、そのオスを見つめ返した。その瞳は穏やかで、温かさすら感じた。
そのオスの出で立ちは、ウシの先住民族の様に見えた。彼がゆっくり食事をする姿は、平和に満ちて、勇美だった。
「うわー!すごい!こっちを見てるよ!!」
「ラッキーだね!こんな近づけるなんて!!」
十分写真を撮って、ヘンリックと私はまたホフク前進で家族の所に戻った。笑いと興奮が収まらなかった。こんなに大きくて穏やかな野生動物を、目の前で見たのは初めてだった。
旅の目的は達成。
私達はまた、ジャコウウシが見えない斜面の方から、来た道を引き返した。群れがいた斜面が遠く見える様になった時、私は振り返って目で見た光景をまた思い出した。
この場所に来れて良かった。
私が東京のオフィスで忙しく働いていた時も、彼らはこうして穏やかに草を食んでいたのだろうか。地球を全体的に捉えた時、数え切れない程の沢山の命がそれぞれの時間を過ごしている事に気がつく。何かモヤモヤした時は、またこの場所での事を思い出そうと思う。
こうして17kmの小さな大冒険は、無事に終わった。
頂いたご厚意は、さらに世界の発酵を見て、伝えて、開拓する為に使わせて頂きます。