ポケモン世界の食事情
アニメの食はしばしばストーリーと強く結び付いていて、その後の視聴者の嗜好に強く影響する事がある。古いところではポパイのほうれん草の缶詰がそうだ。これは狙ってやっていたものだ。ハクション大魔王とハンバーグ、ドラえもんとどら焼き、キン肉マンと牛丼、ヒロシと寿司、鉄朗(おいどん)とラーメン、煉獄杏寿郎と牛鍋弁当、冨岡義勇とぶり大根、サトシとコロッケ、ピカチュー とケチャップ、キャラが美味しそうに食べていて、ストーリーと結び付けられるものは、余計に美味しそうに見えてくるものだ。それぞれに物語りがあり、キャラの生み出す物語と結び付けられる食品達には魅力がある。食品メーカーならタイアップを狙いたいところだ。
ポケモン世界では、果実はゲーム上の重要なアイテムに位置付けられていて、特性を持った木の実としてきっちりと設定されていて種類も豊富だ。仮に、この現実世界から引っ越ししても果物には不自由しない程度にはある。モモンのミは桃型、オレンのミはオレンジ、オボンのミはザボンで、元が何かは想像が付きやすくなっている。
ではポケモン世界には桃やオレンジはないのかというと、しばしば登場する市場の中に、我々の知るものと同じ、通常の果物が存在している。市場いっぱいの果物は、ポケモン世界の食環境が豊かである事を示している。
どうやら、両方とも存在しているのだ。S &Mではモクローがスイカやメロンを食べるシーンがあった。モクローはスイカやメロンを嬉々として食べていたし、アニポケBWの市場には新鮮な果物が並べられていた。モーモーミルクというアイスクリームにもできるミルクも存在する。
では、ポケモン世界の食肉事情はどうだろう。ポケモンを食べている描写も過去に何度かあったが、設定が曖昧だった頃にうっかり床を踏み抜きかけた感が否めない。あれはおそらく失敗だろう。やっちまったなっというやつだ。
結論からいうと、ポケモンは食肉に適さないのだ。コイキングの活け造りは想像画としては登場したが、忘れていないか?ポケモンは弱ると小さくなるのだ。きっと忘れている‥制作側さえうっかりしていた節がある。
個別に見れば、食用に適しているポケモンは確かにいる。豚肉の有力候補バネブーは、脚部のバネの動きで心臓を動かしているので、止まれば死んでしまう仔豚に似たポケモンだ。止まればすぐお肉という、食肉用に特化された鬼畜な存在のポケモンだ。
グルトンはハーブの香りのするブタに似たポケモンでいかにも高級豚肉候補だ。こんな食べられる気満々のポケモンは他にもいる。カモネギは、オレを食ってみろと言わんばかりのネギを背負ったカモだ。名前がカモネギだぞ!?もう明らかに煽っているだろ。
牛肉の第一候補ケンタロスは、モンスターボールを投げれば野生のケンタロスに当たるほど、荒野には大量にいるバッファローのようなポケモンだ。しかもオスしかいない?つまり肉用に品種改良されている可能性があるのだ。この設定だけなら確実に食肉に向いている。肉は固そうで食えたものではなさそうだが。オスだけでどうやって増えたんだ?細胞分裂??
そして、ここで大前提が阻んでくるのだ。ポケモンは弱るとモンスターボールに収まる程小さくなってしまうという大原則だ。元気に動いていた時に1,000kgあった牛肉が10g以下に減ってしまうのでは使えない。生産性の点でも流通面でも全く採算に合わないので、商売として成立しない。これで成立する筈がないのだ。あったはずの肉が極端に縮小してしまうのだから。一人前の食肉を調達するために、一体、どれだけのポケモンが必要になるのか?こんな効率の悪い食肉生産が商業的に成立する筈がないのだ。
それ故にポケモン世界の住人は基本的にポケモンを食べてはいないといえる。ポケモンの身体の食肉に依存しなくても、旧世界の食品が十分に流通していて、その確保は容易であるという事だろう。
旧世界の生きた牛を再生しなくても、牛肉の塊を直接再生すればいいだけの話なのだ。リンゴやオレンジの樹がなくても、直接果実だけを再生すれば済む話だ。化石から生物を再生する事のできるポケモン世界の遺伝子操作技術ならば当然できるだろう。
仮に、我等の世界に相当する時代が終わり、その後に出現したポケモン世界だと仮定して、それらをあえて残そうとしたのか?もし、我々の世界が同様の運命で滅んでしまう運命にあるなら、日々食べているものの中から何をチョイスして残すべきか少しばかり考えてみたくなってきた。
これは、博物館の展示で、当時の人々が何を食べていたのかという展示の内容を考えてみればいい。一般の庶民が平日に食べているもの、どこにでも普通にある安価で誰でも知っているものが対象になる。既に海外からスシ、スキヤキ、テンプラとして十分に認知されているものは、収録済みとしてここでは省くかせてもらう。おでんやお好み焼きなど、代表を簡単に決めると軽く内戦を招きそうなものも今回は除く。牛すじは?ちくわぶは?ソーセージは?広島か大阪か?もう聞いただけで目眩がしそうだ。
現代の日本の外食でいえば、おにぎり(シャケ、梅、昆布)、いなり寿司、ラーメン(昭和の簡単なもの)、ハンバーグ定食、カレーライス(日本食)、カツ丼、牛丼、きつねうどん、月見蕎麦、餃子ライス(日本食)、チャーハン(醤油ベースの卵とネギとハムの入った昭和風)、幕の内弁当、海苔弁当、コロッケパン、焼きそば、ざっとこんなチョイスになるか。
また、カツ丼のカツは、カツ単品でも成立し、ハムカツ、メンチカツ、カツサンド、カツ定食、カツカレーなどの多様なバリエーションが存在するので、サムネに使う1カットの品目を選定するのはとても難しい。
うどん、蕎麦も同様で素うどん、ざる蕎麦やかけ蕎麦がプレーンになるが、油あげを載せたきつねうどん、生卵を落とした月見蕎麦は、文化の象徴的なポジションとして名称も悪くないから採用しておきたい。
一つの料理についても派生型が多数存在しているので、その全てをデーター化してしまうのがいいが、その中から看板となるプロトタイプの抽出が必要になる。ここでは牛丼を例にしてみよう。牛丼といえば有名なチェーン店毎にさまざまな差別化を図る、激戦区の外食の一つだ。チーズ牛丼、ネギやワサビを載せてみたりとしのぎを削る世界だが、サムネにするなら、一番シンプルな、ただの牛丼だろう。そのただのシンプルな牛丼の成立が簡単ではないのが今世的な問題になっているのだ。どういう事か説明していこう。
ここからしばらく、ポケモン世界から離れて牛丼について考えてみたい。結構毒づく部分があるので予めご承知おきの上、不要なら飛ばして読み進めていただきたい。
ここに牛丼の好きな3人がいるとしよう。野菜嫌いで肉しか食べたくないA、糖質制限の熱狂的信者で、ご飯は一切食べないB、過去に牛肉アレルギーを発症し、牛肉(そのもの)が食べられないC。3人の注文は店側にとっては無茶苦茶だ。ここは、そんな難しい注文でも受けてくれる牛丼屋さんだ。
Aは、玉ねぎ抜きの牛丼を注文した。世の中には野菜嫌いが結構多くて、中には牛丼の玉ねぎがなぜ入っているのかわからないと言う人がいる。彼は自分が肉好きと信じて疑わないが、実は味はよくわかっておらず、肉の姿形をしたゴムが入っていても目隠しをしたら高確率でわからない人だ。
肉料理に玉ねぎが多く用いられる理由は、玉ねぎが肉を柔らかく食べやすくし、玉ねぎにも肉の脂が染みて、味のない肉の旨味が玉ねぎに移り、相乗的に美味しくなるからだ。牛丼の肉は玉ねぎと汁と一緒に煮込んだから成立するもので玉ねぎ抜きの牛丼はありえない。では、玉ねぎ抜きの牛丼という注文を受けた店員はどうするか?盛り付けた牛丼の中から玉ねぎのかけらだけを拾うしかない。玉ねぎで柔らかくなった質量だけの牛肉と、溶けて肉の脂と混ざった玉ねぎの汁が染み込んだご飯。いずれも玉ねぎの手柄で美味くなったものだ。そこから玉ねぎを抜くとは、半分旨味の抜けた肉の質量と歯応えだけを美味しいと評価しているという事で、実は味は大して気にしてないのだ。作った側からみれば、味のわからないワガママな客でしかないだろう。
Bは、牛丼のご飯を一切食べずに残す。以前、牛丼からご飯を抜いてほしいと頼んだところ、牛皿にしましょうか?と訊かれるが、牛丼が食べたいので牛丼を下さい!と返答し、ご飯だけを残すようになった。なんのためのご飯なのか‥でも一杯分の料金は頂いているので認めないわけにはいかない困ったお客さんだ。あえてご飯入りを注文する意図はなんだろう。Bは減量中の格闘家の類ではない普通の人だ。ご飯の入った牛丼の方が美味しいという自覚があるなら、少なくともBはAよりは味がわかってはいるといえる。ただ、糖質制限という宗教を強く信仰しているので、教義に反するご飯は食べないのだ。あえて食べない自分の行動に、牛丼の美味しさ以上の達成感を求めているのがBだ。
Cは十数年前にマダニに咬まれ、なぜか牛肉アレルギーを発症した。牛肉が食べられないのだ。それでも、長い年月を経て、牛肉の匂いのついたエキスのご飯なら食べられるようになった。牛肉本体はまだ食べられない。Cの夢は、子どもころに食べたステーキが食べたい、すき焼きが食べたい、牛丼が食べたいだ。牛肉が食べられない事情を店の人は知っており、ご飯を盛った丼に色の濃い玉ねぎを敷き詰め、汁を多く入れて出してくれる。Cはそれを米粒一つ残さずに食べて帰ってゆく。実のところ、一番、牛丼を美味しく食べているのはCなのだ。
個人の好みと言えばそれまでだが、Aは牛肉の生命としての価値を美味しさだと捉えているようだ。Bは牛丼が好きで、牛皿ではなく牛丼が好きなところはなかなか拗らせてはいるが、ご飯のあるなしの違いを感知できているのは迷惑だが評価に値する。
あえて暴論を吐くが、牛丼にとって、玉ねぎ抜きは人道に反する暴挙で、ご飯抜きは邪教に相当する。そして、たとえ牛肉が食べられなくても、牛丼の美味しさは成立するのだ。幾つか理由があるが、人間の味覚のバリエーションを豊かにしている素材の多くが実際、植物由来だからだ。
渋みやえぐ味の強い植物と食肉の相性が良さそうなのは直観的に分かると思うが、人間が知覚できる味覚のバリエーションはほぼ植物由来といっていい。(海産物については別の機会に述べたい)というのも植物は動物に対してある種の誘因性や毒性を獲得していて、味覚に働きかける点を考慮すれば当然の効果だといえよう。マスタードにしろわさびにしろ、胡椒、唐辛子、砂糖、ニンニク、生姜‥全て植物だ。味がするとすれば、塩を除けば、それは植物由来だ。コーラやジンジャエール、コーヒー、紅茶すべて植物なのだ。植物から動物への刺激信号が人間の味覚の生物的位置付けになる。人間の感じる四大旨味成分の内、肉にあるのはイノシン酸由来の旨味ぐらいだ。
肉はそれすら鰹におよそ及ばないのだから、食材として過大評価されているのは間違いない。生命だった素材というイメージだけで美味しいと思われている節がある。本来、胡椒や塩すら振ってない生肉や生魚を人間が旨く感じる筈はないのだ。肉や魚の熟成という視点もあるが、生物の細胞組織が壊れ始めたぐらいの方が、栄養的にも吸収し易い筈で、人間の味覚は、そうした道理に適うようにできている。生物として、自分の身体に危険を及ぼす毒を旨いと感じるようにはできていない筈だ。
野生動物ではない人間が、寄生虫のリスクを引き受けてまで生肉を食べたいと感じる理由はない。そうさせるのが物語なのだが。
ネット界隈では有名な話だが、絵を上手く描けるようになるにはどうしたらいい?の答えが、神絵師の腕を食べればいいだ。まあ、冗談なのだが、結構本気なのもわかる。動物を食べればその動物の生命も取り込めると本気で思っている人は結構いる。だから生肉にこだわる。分かりやすいのは、反ワクチンの陰謀論者がだいたい生肉肯定者で、砂糖や添加物の強行な否定者だという点だ。要は宗教教義なのだ。
細胞は一度分解されてから、還元されてから吸収されて再構成されるので、生命をそのまま取り込める筈はない。それはレゴブロック(自分はダイヤブロックだったが)を一度バラバラにしてから、別のものを組み立てる工程に似ている。子供の時にブロック遊びが身についてないと、細胞の分解、再構成のイメージが難しいのかもしれない。
話をポケモンに戻すと、草ポケモンというカテゴリーがある。文字通り植物属性のポケモン達だ。これは完全に自分の独断だが、ポケモン制作側は、草ポケモンに何か特別な価値を付与しようとしている気配を感じる。時を超えるセレビィも草ポケモンだ。ほのお系やはがね系には戦闘力や耐久力で劣るくさポケモン達だが、数百年、数千年単位で時を超え種を繋ぐ植物の時間は、動物の時間感覚とは全く別物だ。植物は動物からみれば動けない不自由な存在に見えるが、植物の時間単位で見た場合、動けていないのは動物の方かもしれない。
植物の豊かな日本製のアニメ故の、草ポケモンへの傾倒が、ポケモン世界を豊かにしている。もし、ポケモンが砂漠や荒野が大部分を占める国で作られていたなら、こうはなっていなかったろう。
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