NPCの終わらない戦争
NPCとはNon Player Characterの略称で、ざっくりいえば、対戦ゲーム中に出てくるキャラクターだ。対戦で操作している人がいないキャラのことを指している。
ゲーム画面中のNPCとPCを見分ける事自体は比較的簡単だ。そのキャラクターがNPCなのか否かは対戦してみれば、明らかに人間相手の時の戦い方とは違うので、その当事者にはすぐ分かる。そんなNPCは、知っている人には自明なのだが、だがよくよく考えると、どういう存在なのか分からなくなってくる。まして初見の人に説明するのは簡単ではない。
対戦ゲームでは卒なくガードし、隙は見逃さずに突いてくるのが一般にはCPUが操作するNPCだ。ただし設定次第でいくらでも難度が変えられるので強いか弱いかで判断するのは意味がない。強くても弱くても、プログラムされた通りの事しかしてこないという一点ではNPCの行動は定型化されていて、とても分かりやすい。NPCは与えられた役割そのものが存在意義なので、活躍するべく与えられフィールドでは憎らしいほどに有能に立ち回るが、ゲームのステージが変わるとあっさり消えて、影が薄くなったりもする。
一般の善良な家庭人には到底信じられないかもしれないが、寝食を忘れてゲームの中に入り浸るゲームフリーク達にとっては、NPCは家族や級友と何ら変わらない。ロールプレイの世界にどっぷりと浸かって関わる彼等にとって、NPCは家族や同胞と何ら変わらない存在感を持って認識されている。彼等はCPUが村人や家族やパーティの仲間の役割プログラムを実行しているだけだが、それはどこかで知っている風景と何が違うのかと、一度、本気で考えてみるといいかもしれない。わからない人は、家庭人としてプログラムされたNPCを理想的な家庭像として信仰しているので、いくら説明しても理解する気がないのだ。
気付いている人には思い当たる事があるはずだが、NPCの存在の仕方は、現実の人間の存在の仕方と本質が何も違わないのだ。普通に順調な人生を生きてきている人は、自分には意思があって、目的があって生きているように思っているが、一つ一つをよくよく確認していくと、NPCのように存在している事を自覚していないだけの存在かもしれない事にやがて気付く事になるだろう。
予め用意された家族、友達、最初から全てが、ほぼ決まっている。容姿や身体の強さ弱さ、持病、通う学校、友人関係、使える能力や性格、努力できる資質すらも最初に与えられた環境の影響から大きく外れる事はない。産まれた瞬間に決まる親ガチャ、国ガチャというやつだ。誰もがそこからスタートして、ほぼ予定通りのルートをなぞるだけのキャラ人生だ。予定通りに列車の客席から何十年か眺めているだけの人生。これは、キャラ選択から始まるNPCの人生とどこが違うのか?
NPCの問題は今世紀の人間が、自分たちが何者かと疑問を持った時に本気で取り組まなくてならない課題になってくる。人間は本当に自分の意思を所有しているのか?自分だと思っている意識が自分自身ではなかったら?という問いだ。
観測が現象に影響すると、しばしばスピ界隈で引き合いに出される有名な二重スリットの実験があるが、人間の意思が現象に影響しているのではなくて、観測する事が現象に影響を与えている事ははっきりと言い切って良いだろう。引き寄せの現象などもあり得ない。それでもわからない疑問点はあって、ここからが難題だ。そもそも観察しようとする人間の意思の出処が正体不明で、それ等全てが正体不明の現象の一部に過ぎないとしたらどうだろう。観測する事、観測しようする意思を所有しているのが人間側ではない可能性についてはまだ言及されていない。
こうした人間の意思の有り様の問題は、早晩、科学的視点からも重大な問題になってくる筈だ。光速を超える量子もつれ現象は、我々が別々に存在すると思っているものが、本来、同じものであったというところへ収束していくしかない。方向性としてそちらに向かう事はほぼ確実だ。
我々の世界で平面に描かれる円が虚数軸上では、対面する二つの放物線になって見えるように、この世界では二つの別物に見えるものが、虚数空間では一体であってもおかしくはない。個別に存在していると思っていたものがそうではなかったら?人間は自分の意思さえも所有していなかったとしたら、観察者とは誰なのか?
虚数世界では時間のスパンは空間距離として現れる。次元と時間を別物とする考え方自体が通用しない。なので5次元と時間や6次元と時間のように、空間と時間を分けて論じる事には有意義さを感じない。我々の感じている時間は、虚数部分が観えてくると距離だからだ。
例えば、あなたがいつものように道を歩いてる、何かの偶然で、虚数世界に迷い混んでしまった。虚数世界をそのまま進んで行くと、いつの間にか時代を遡ってしまっていた。原始時代より少し文明が進んだ世界に入り込んだようだ。そこでは人々が火の周りに集まって、亀甲占いをしている。
しばらく眺めていると、占者が言った。未来では遠くの人と普通に会話ができる。人が鳥のように空を飛び、魚のように海を進む事ができる!巨大な地震が何度も起こって人が大勢死に、町が破壊される!と。それを聞いたあなたは、そうかもしれませんねと答えるしかないだろう。当たり前過ぎて、当たっているとすら言いたくない。未来人からみたら、現代人の予言ごっことかスピリチュアルはこんな感じだろう。
観察者とは誰か?問題はNPCであるかどうではないという事だ。誰それがNPCで、自分だけは違うという見方が根本的に間違っている地点から話を始めないといけない。全ての人間は本質的にNPCなのだとみて間違いないからだ。極端な事をいえば、人間が全員NPCだとしたら人間の起こす犯罪は成立しなくなってしまうのでは?という問題提起も以前からある。
自動運転の法的問題は、人間の存在の仕方の問題と底通している。事故が起きたときの責任は?運転していたのはAIで、目的地までの運転を指示した同乗者に罪を問えるのか?という問題だ。故意犯が成立しなくなるのは勿論だが、自分の意思で動いていないのならば過失責任すら成立する事が怪しくなってくる。電車事故で運転手の責任が問われるのは、まあ普通に分かる。では電車にたまたま乗り合わせた乗客に責任があるかといえば、いかに無理筋な責任追求になるかは分かるだろう。
典型的な人間以外のNPCキャラの一つにオークがある。一般に緑色で獣のような牙のある蛮族だ。よく言えば質実剛健、内向的で抑圧された社会制度を持つ。オーク族は戦いの中で死ななければならないといった独特の慣習を持ち、ゴブリンに比べると種族的なプライドが強いようにみえる。抗戦的で地味で勇敢で粗暴な種族だ。
このゴブリンに知恵がついたのがオークのイメージだ。見た目も険しい種族だが、善良なオーク種は鍛治を生業とする。どちらかといえば組織的に集団でエルフの村を襲うのがオークというのが標準的なイメージだ。だからオークはエルフの森を焼く。一般にはあまり良い印象を期待できないのが普通だ。エンタメ環境ではオークは元はゴブリンだったようだ。オークの設定は元は一応、エルフ族なのだが、ゴブリンには他に明確な設定は見つけられなかった。オークは比較的新しい設定だ。エルフが拷問されて暗く歪んだ姿がオークだ。堕ちたエルフがゴブリン化したものがオークという位置付けで概ねいいだろう。
ちなみに範馬勇次郎がオーガと呼ばれるが、オーガはオークの事を指しているようだ。主人公が倒すべき、憎々しい程に強い最強設定のNPCキャラと考えればなるほど納得はいく。この手のキャラに必要なのは複雑な感情ではなくてわかり易さだからだ。
日本でオークという概念が定着してきたのはせいぜい平成の後半になってからだ。それ以前には別のカテゴリーの中の別にあった概念だった。ゴブリンだ。ゴブリンは古い西欧の妖怪だから、オークをよく知らないと見分けがつかない。オークの起源を探してみたがどれも比較的新しい。The Elder Scrollsで広く知られるようにになったが、起源は指輪物語のようだ。オークの世界的認知に貢献したのはスカイリム辺りのキャラ設定と考えられる。
スカイリムの世界観では、エルフが善、オークが悪という単純な設定はない。種族間の戦いは当たり前で、利権が絡むとエルフ種も人間種のノルドを皆殺しにしたりと、普通に戦争をしたりもするので、エルフは狭義のよい妖精ではない。更にエルフには亜種が多くある。エルフと一言にいってもハイエルフ、スノーエルフ、ウッドエルフ、ダークエルフなどある。ちなみにオークもエルフの一種に分類される。
スカイリムの世界ではエルフが善なる存在で、オークが悪なる存在という単純な話ではないという点にはよくよく注意が必要だ。スノーエルフのように、住まう地域によって見た目から変わってくる。エルフは一般に呪われると醜く、愚かで野蛮な魔物のような姿になる。まるで、エルフが奴隷に使っていたゴブリンのようにだ。それは彼等の種族の自尊心にとって到底我慢のならない事だろう。
オークとゴブリンとの明確な違いが分からない人が結構多いのでないか。戦争が始まるまで、ゲームと無関係な人はオーク種をさほど注視しておらず、明確な設定を理解しようともしなかった。オークに似たゴブリンはハイエルフのアルトマーが使っていたエルフの奴隷だった。オークは比較的新しいキャラ概念なので、まだ社会的に定着途上という感じだ。
スカイリムの神話では、太古のエルフ族の神トリニマックはデイドラ公ボエシアに騙されて喰われてしまう。トリニマックもデイドラ公も不死なので、消化されたぐらいでは死なない。侮辱されたトリニマックは、蛇のような神デイドラ公ボエシアの排泄物から呪いの神デイドラ公マラキャスとして復活する。その排泄物の遺骸を身体に塗ったエルフ達がオークになったと言われている。それ故、オークの中には、侮辱される前の戦いの神トリニマックをオークの祖先と考える者、心の捻じ曲がった呪いの神デイドラ公マラキャスをオークの祖先と考える者がいる。どちらにせよ、オークは神話レベルで呪われた種族という設定なのだ。
オークの王国でも中央に住むエリートNPCにとっては栄光あるエルフの末裔か、奴隷種かは死活問題になってくるだろう。これがオークのナショナリズムの根底にある。一方で、オークの連邦国に力で併合された異民族のオークが存在する。一つ二つ前のバージョンにすらアップデートされておらず、昔ながらの格差の谷にいる彼等の存在は、中央のオークにとっては目障りで厄介でしかない。主流オーク族にとっては、機会があれば戦場で使い捨てにしてしまいたいオークが大勢いるという構造がある。ゴブリンのようなオークの存在はオークのプライドを傷付ける。
オークによく似たゴブリンはオークよりも更に人間から遠い感じだ。暗いところに棲んでいて、醜く不潔で卑屈な獣人のイメージだ。プライドはなく言葉も不自由で、卑属な野獣に近い存在だ。
エルフの村を襲って虐殺を何度も繰り返すオーク達は、オーク族の自尊心の拠り所だった太古のエルフ族の系譜を捨ててゴブリンへと落ちて行く。オークには個がほぼないのだから、種族の設定が全てで、種族の自尊心が失われれば、踏み留まる事ができずに落ちるしかない。そんなエルフ族への復讐心だけで動いているオークはもうゾンビと変わらない存在に落ちる。生者の血と肉を欲して生命を踏み躙るようになっていくのだ。
社会意識を持ち組織化されている面ではオークは人間に近いが、量産型キャラで自分や同族の命の単価が安い点が現代の人権思想とは決定的に違う。オークはオーク族である事に自己同一性を持ち、オークの太郎や花子である事への執着が我々よりも弱い。こうしたオークが単身で冒険の旅に出るというRPGの話は、どう考えてもやはり作りにくいのだ。オークの少年を主人公にした冒険ものはゲームとしては可能だが、アニメ作品や映画作品としては成立しない気がする。簡単にいえばオークには現代人並の心の活動がないので、我々が観るに堪えるものにはならないからだ。
そして、スマホの画面を見ながらでなければ道も歩けない現代人もまた、オーク同様のNPCの存在でしかないようにみえる。空虚な自分の意識と向かい合いたくないがために、常にスマホから流れる情報に接触し続けていなければ間が持たない現代人が、家制度に縛られた旧時代人よりもマシとは思えないのだ。
オークの社会に屋号の制度のようなものがあるのか分からないが、所属集団に自己同一性を委ねるオークにとっては、現代人のような主体ある個人は現実感の薄い存在だ。望む望まぬに関係なく、国ガチャの不運によって、彼等は蟻や蜂に近い存在の仕方をしている。
とはいえ、我々の社会の個人の差異を、役職や収入額、乗る自動車で社会的ステータスに置き換え可能なものだとしたら、それしか他人と自分を分ける違いがないのなら、オークと我々にも大した差はないとはいえるのだけれども。自動車の市場価格=社会的評価という価値観はいったい何だろう。わかりやすさに逃げた評価というしかない。
車種=ステータスというヒエアルキー、車種だけで社会的地位を判断してしまう人がいるが、実際、そう簡単な話ではない。例えば、よく外見が似ている3種類の車があるとしよう。誰もがA車(新車標準グレード700〜800万、全長5m)という車種に乗りたがるが、お金がない人はB車(新車標準グレード300〜400万、全長4.7m)に乗るとか、もっとない人がC車(新車標準グレード100〜200万、全長3.7m)に乗るといった感じの価値観だ。突っ込み所が無限にある安っぽい話なのだが、なぜかこの評価を安易に使いたがる点には眼をつぶってしまうのだ。
まさか一括払いの金額=年収とでも思っているのだろうか?大雑把には比例傾向にある可能性はあるが、ほぼ関連はない。なぜなら無理してでも、インチキしてでも所有している風に見せたい人が少なからずいるからだ。それなら自動車ローンなる商売が成立しているのはなぜだ?年間100万払いの10年ローンを組めば年収300万でもA車には乗れるだろう。そんな損をしてまでそんな見栄を張ってA車を所有したい気持ちは全く理解しかねる。誰もが巨大な車に乗りたいわけではないのだ。見た目のかわいさで小さい車が好きで選択する場合もある。冷静な判断ができれば、ステータスより自分の生活の最適を選択する筈だ。
都会の狭い駐車場や、3ナンバーでは入れないホテルの駐車場に合わせて選んでいる可能性だってある。全長5m以上の駐車スペースは都会の駐車場に当たり前にあるわけではない。都会の道路の状況で大きい車を敬遠するのは普通の事だ。個人的な事情を考慮しない、見栄っ張りなステータスに何の意味がある?と思うのだが、よくよく考えてみれば、これも地域格差による価値観の違いである可能性もある。駐車場や道路幅に心配の必要のない田舎ならでは通用する価値観であるからだ。
実際、B車をグレード最上位のハイブリッド4WDのフルオプションにすれば、A車の上級グレード以上の値段になる。少しオプション付けただけで+200〜300万なんて普通の事だ。また、A車の中古ならば、C車並の金額のものも存在している。車種で見栄を張りたい人は、こういうものに飛びつくのだろう。こうした理由から、車種だけでは案外わからないものだ。
新車で購入して所有している事が前提のように見せて、実は幾らでも抜け道が用意されている。それを利用して年収の高さで見栄を張りたい人のために用意された評価基準だろう。リボ払いで高いものを買えると思ってしまうような、単純な計算すらできないわけでもあるまい。自分には何か足りない、もっと社会的に評価されたいという気持ちが、冷静な判断より勝ると、負け博打に手を出すという手口に引っ掛かってしまうのだ。
現在では車は自分で所有しなくても乗れる。リースや共同所有という手段があるので、こんなもの参考にすらなるまい。ステータスなんかに左右されずに好きな車に乗ればいいだろうの一言で終わりだ。主語が大きいという批判はこういう場面で使われるべきなのだ。日本人全てがこの基準に従って生活している前提なのだから、こんないい加減で傲慢な基準はないからだ。
社会的ステータスなんて気にせず、好きな車に乗ればいいし、余裕があるなら好みでトッピングするのは自由だ。だからといって、必要以上にお金をかけて改造する事を全肯定しているわけではないのは断っておくが。本人が本当に好きでやっているのなら他者からの評価は必要ない筈だ。ボンネットを黒く塗った車を見るたびに、平凡にみえて他とは中身が違うってイメージがほしいのだろうなと、妙に冷めた気持ちになる。それは本来、車の事じゃないんだ。でも直視したくないという事なのか。
本来ならば車ではなくて、自分に投資すべきもの、自分の子供に教育のために投資すべきものだったかもしれない例は結構あるような気がする。それこそが社会階級による価値観の縛りかもしれない。持ち物の付加価値に自己評価を委ねる現代人もまた、オークと五十歩百歩の存在者には違いない。オークが現代世界のアップデートができていない人間の写し鏡になっている面があるという点はなかなか耳が痛い筈だ。
旧時代人と現代人の差は、ただ、アップデートできているか、いないかのだけの違いである。アップデートされてない側からすれば、自分には与えられなかった、与えられた側の嘘くさい個人の生涯などどうでも良く、自分には理解できない欺瞞に満たされた幸福を謳歌する別の部族の末裔は目障りで、逆恨みの対象ですらあるだろう。まるで、社会的成功者を妬み、復讐心を燃やす、多くの日本人の生態のようにだ。
オーク族で主体を持って生きられるのはオークの族長や王だけだ。それ以外のオークは、個人としての存在の仕方が薄い。自分が存在している実感も、部外者や敵が現実に存在しているという実感も薄いので、どうしても自分の命も他人の命も安くなる。虫の個体の命のように簡単に殺せるし、簡単に殺される。オークの国は法治国家ではないので、オークのような存在には人権思想も馴染まない。
設定上のオーク族の起源は太古のエルフ族だった。オーク族は、自分たちが呪われた存在という伝承を持っていて、少なくとも王は、族長はその事を自覚している。王、族長になるとオークの出自が、神に比肩する長命の太古のエルフから人間並の寿命しかない獣のような存在に零落してしまったオーク族の伝承を知らされているだろう。
そんなオークにとって、更なるゴブリンへの転落は絶対に避けたい転落だろう。その際に問題になるのが、オークの中に、質の悪いゴブリン並のオークが少なからずいる事だ。オークの過去の栄光を一応は信じてるいるオークの王は、機会があればこいつ等をなんとか間引いてしまいたいと常々考えていた筈だ。
太古のエルフとの繋がりはオーク族が頼るべき最後の気概だ。始祖の国が別の国になるなど寒気がするはずだ。オークは思うだろう、我々をゴブリンに落とすつもりか。そんな勝手は許さない。そんなオーク達はエルフ族の村を襲って虐殺をしてしまった。なにしろ、末端にいるオーク達は、何百年もアップデートされておらずろくに規律すら守れない質の悪いオークが多いから、放っておけばそうなる。
オークの老婆は言う。オークの王がエルフの村を襲撃させたが、王と戦争をさせられているオークの民は分けて考えると奴らは言うが、我々はオークの王と同じ気持ちだ。それを聴いて敵側は一瞬、驚いた顔をするかもしれない。オークの老婆の思惑通りにだ。だが、それはすぐに哀れみの眼差しに変わる事になる。
オークの老婆がオークの王と思っている者は、我々の世界と同じ価値観の中で生きている事を我々は知っている。彼はあなた達とは一緒ではない。自らの国の敵側と同様の経済原理で生きていて、権力と金儲けが大好きだ。あなた達と共有するためのナショナリズムなど本気で信じてはいない。
オークの老婆は、ナショナリズムの立場からその言葉を発する事で、善意で助けにくる相手が臆する事を期待していたのだが、その言葉は老婦人の直径3m以内にしか届かない。誰もあなたの味方ではない。あなたが身内と思っているオークの兵士達は、例えば、誰かがあなたが敵国に通じていると疑いをかければ、簡単にあなたを苦しむように拷問して殺すだろう。オークの王が、勝ち目のない戦争を続けるのは自らの保身と、その障害になりそうな大勢の質の悪いオークを、ただすり潰すために戦場に送っている事も我々は知っている。
彼は結果的に敵の手先きだ。王のふりをして、あなた達を間引くための仕事を熱心にやってくれた。とても愚かだが、敵対するこちらから見れば、結果的にだが一定の功労者ではある。あなた達の国を終わらせ、旧世界を支えていた多くの民を効果的に減らして、現代世界に仇なす者の時代を速やかに終わらせる事に尽力したからだ。
わかりやすく言おう。あなた達の王こそがオーク族の最大の裏切り者だ。もし、あなた達の国がこの先、僅かばかりでも残るとすれば、彼こそが史上最悪の売国奴と評価される筈だ。だから、オークの王と、あなた達民を分けて判断する事は我々のみならず、あなた達の立場からも完全に正しい。今のあなたの言葉がそれを裏付けている。
現代世界では常識の範疇だと思うが、敵の兵力を削る事が目的ならば頭部や胸部に弾丸を数発撃ち込むだけで兵士の頭数を減らせる。もっと合理的な判断ができるならば、弾の消費は少なく、尚且つ敵兵士の四肢を撃ち抜いて動けなくするだけでいい。動けない負傷兵で敵軍のお荷物が増え、敵戦力は確実に削れるからだ。殺さないで助けられる程度の怪我を負わせた方が、少ない手間で効果的に敵の戦力減になる。現代の戦争はそれぐらい合理的に判断していて当然だ。
機関砲を広範囲に撃ち続ける機銃掃射や焼夷弾を隙間なくばら撒く絨毯爆撃は、敵がどこにいるかわからない、何をしてくるかわからない場合に取らざる得ない手段だろう。敵の影に怯えて明らかな無駄玉を撃たされている時点で、戦術的には押されていると考えた方がいい。強引に続ければ、勝ったところで辛勝がやっと。戦い続ける事に見合うものがあるかを考えれば、高確率で疲弊する前に撤退しか道はない。
都市の住宅街にミサイルを大量に撃ち込むような兵器の無駄使いは、元身内への復讐のための嫌がらせであって、戦争行為ではない。意図的な破壊と虐殺を戦争と呼ぶのが定義として適切ではない。露骨なオーバーキルは、敵の軍事力を削ぐためには効果的ではない。敵の兵士を拷問して苦しめて首を切り落とすやり方と同様に、過激な行動にそのものに意味を求める人間のやる事だ。その望みは復讐であり、自分達とは別の世界の個人から、何かしらを奪い取りたいのだ。
彼等は個の生を否定したい。個の首を取る事が手柄であり、それが復讐の手段になる。戦時の非日常の中では残虐で悲惨であるほど卑屈になった劣等感は満たされたような気がするが、敵に向けた加害は、敵に写した自らへの攻撃なのだ。日常へ戻れば投影すべき対象がなくなり、その構図が自分に返ってくる。そしていずれ長くPTSDに苦しむ事になるだろう。
日本の古来の戦は家対家の戦いであるので、家を代表する個人が戦死しても家督を継ぐ者が存続する限りは家は続く。一時的に当主を欠いても致命的ではない。後継ぎが血縁者である必要もないので、お取り潰しにならない限りは!どうにでもなる。個人の比重が軽いといえる。家の代表者の戦死よりも戦の召集に参加せずにお家断絶になる方がより一大事である。結婚も、妾制度や養子制度も、お家の存続のために必要な制度だった。こうした基盤があるからこそ神風のような戦術も、それなりに現実味が出てくる。
今でも、古い文化圏に生きている民族にとって、個人の意思や権利など嘘くさいものなのだ。なぜなら彼等は未だ数百年前の世界を生きているからだ。方向が違う筈の日本の右翼思想の強い人達がオーク族と近い価値観を共有してしまうという現象はこのためだ。政治的に右か左かには意味がない。左右のどちらにも該当者が少なからずいるからだ。
2024年の現在ですら、民族単位で100年や500年の間、意識のアップデートがないという事が普通にありうる事がここ数年の出来事で露呈した。昭和初期のサザエさんで描かれる大正〜昭和の一般家庭は、現在の日本の基準から見れば完全にアウトな事を普通にやっていたので、何を今更?驚かないよっというのが昭和生まれの標準的感覚だ。
それでも、あそこに描かれた世田谷一戸建ての磯野家は、庶民の生活レベルからみれば、相当に上品な上流家庭だったという点が恐ろしい。昭和のリアルさはアパッチ野球軍や星一徹家の生活に描かれていた描写の方だったからだ。
都市部から離れた田舎は、つい半世紀前まで江戸時代、場合によっては古墳時代と変わらない暮らしをしていた。整備された道路、上下水道、都市ガス、電気、商店のどれも揃っていない筋金入りの田舎の場合、縄文時代並みの生活になる。大陸の奥の閉ざされた場所に住んでいれば200年前や500年前の人間がいても全く不思議ではないのが我々の世界だ。野蛮なオークの行ないは、旧時代の人の営みの投影像に他ならなかったのだ。
このゴブリンに知恵がついたのがオークのイメージだ。見た目も険しい種族だが、善良なオーク種は鍛治を生業とする。どちらかといえば組織的に集団でエルフの村を襲うのがオークというのが標準的だ。オークはエルフの森を焼くに象徴されるように、一般にはあまり良い印象を期待できない。鍛治を生業として好戦的で残虐といえば古代スキタイ人のイメージだ。
どこからがオークで、どこからがゴブリンなのかの区別が付けられなかったのだが、オークは元はゴブリンだったようだ。オークの設定は元は一応、エルフ族なのだが、ゴブリンにはその明確な設定は見つけられなかった。オークは比較的新しい設定だ。エルフが拷問されて暗く歪んだ姿がオークだ。堕ちたエルフがゴブリン化していったものがオークという位置付けで概ね間違いないだろう。
ちなみに範馬勇次郎がオーガと呼ばれるが、オーガはオークの事を指しているようだ。主人公が倒すべき、憎々しい程に強い最強設定のNPCキャラと考えればなるほど納得はいく。この手のキャラに必要なのは複雑な感情ではなくて強さとわかり易さだからだ。
そんなNPCの強さや優秀さを問うのは無意味だ。設定次第で超優秀なNPCから腐ったマダオを演じるNPCまで自由自在なので、NPCだから有能とか無能とか人間の感情がないとか愛がないとかの説明には意味がない。NPCは大統領にもホームレスにもなれる。子供や老女、麻薬中毒者や精神疾患者も演じられるし、必要なら笑うことも泣く事も簡単だ。ただし、正しくプログラムがアップデートされればである。
NPCには善意も悪意もない。与えられた役割をプログラム通りにこなす事が全てだ。感情も思考もペラペラに薄くて読みやすい。キャラ設定の通りに解釈していけば簡単だ。全てが型通りなのだ。役割自体が彼等の存在理由なので、与えられた仕事が虐殺や拷問であっても何も感じず、正確に仕事をこなせる。役割そのものが人格だからだ。
通常、NPCは国ガチャや親ガチャによって与えられる環境次第で自動的に設定が決まるので自分の意思などなくても困らないのだ。だから覚醒は口だけで、本気で目覚める気などさらさらない。覚醒前と覚醒後に人格的連続性が維持される者だけが「目覚めました」と言えるからだ。嘘を着いているというよりも彼等の遠い願望が、現実を超えて出てくる言葉だ。彼等はなぜか口を揃えて目覚めました、あなた達も目覚めてくださいと言う。これは不誠実から発している言葉と言える。
覚醒ごっこの「目覚めました」は他者への威嚇のために使われている言葉でもある。自分が他者から言われて最も怯む言葉を他者に向ければ、きっと同様に恐ろしいと感じると勘違いしている。そんな威嚇をしたところで、当の他者にとっては、そうですか、それが何か?でしかない事には理解が及んでいない。陰謀論者達にとって最も恐ろしいのは、自分が目覚めていないのに他者が目覚める事なのだと自白している。
では、NPCが目覚めるにはどうすればよいか?例えばオーク族が目覚めるには、初期設定の自尊心ごと一度死んでしまう事だ。オークとしての生を完全に否定して終わらせてしまう事だ。汎用の初期設定が引き上げられてしまった後に何も残らなければ死んで終わりだが。現在の我々は、個体が意思を所有していない前提から考え始めないといけない地点にきている。
もしデバイスが壊れても、クラウドに記録が残っていれば理屈上、再生は可能だ。自意識が自分の持ち物でないのなら、過去に生きていた人間の意識も保存されている事になり、我々の現在と同時に存在している。歴史的にも時間は存在しないという結論が出てくるだろう。
事象の前後で中身が丸ごと入れ替わってしまっても、それでも自分が維持できていれば、それは目覚めたと認められていい。そもそもオーク自体がエルフが死んで呪われたまま生まれ変わったような存在なのだから、その工程の失敗作の代表がオークなのだ。既に述べたように、オークの存在自体が新興宗教の被害者のようなものだったのだ。だから境遇の近いオーク族と妙な親和性があるのかもしれない。
悪い意味で、この手法を使って覚醒を偽造してきたのが数多くの新興宗教だ。普通、医療以外で“覚醒”なんて言葉を使う人を常識的な人間とは思わないだろう。そんなパワーワードは良識ある人が一般生活上で無闇に使う言葉ではない。SNSなら、覚醒の文字を見た瞬間にブロックした方がいいワードだ。プロパガンダという言葉を使って敵側を工作員と非難する者自身が、胡散臭いプロパガンダのための工作員であるのと同じ理屈だ。バレていない、バレてもいけると思ってしまうところがオークのオークたる体質なのだ。オークの共同体の中ではそれなりに優秀なオークが仕掛けてくるのだろうが、予想に反して、ほとんど通用しない。彼等には理由がわからないだろう。それがオーク族の限界だ。NPCとしての基本データがアップデートされていないという事なのだ。NPCには自分で戦争を止める事ができないのだ。
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