シュルレアリスム宣⾔100年 シュルレアリスムと⽇本 板橋区立美術館 レポート
ヨーロッパから紹介されたシュルレアリスムは日本へ大きな影響を与えた。その展開を戦前の最初期から戦後まで、作品と豊富な資料を交え紹介する展示が板橋区立美術館で開催されている。 4月14日まで。本記事は3月24日までの前期展示を取材した内容となっている。
序章 シュルレアリスムの導入
1924年シュルレアリスム宣言を発表、理性に制御されない無意識界の探求し不可思議なものを賛美する詩人アンドレ・ブルトンから芸術運動は創始された。1920年代後半には日本にも影響、詩の領域にまず表れた。西脇順三郎らを発端に、のちの北園克衛である橋本健吉らもシュルレアリスム詩の翻訳や創作を行い、若き詩人瀧口修造はブルトン著「超現実主義と絵画」を翻訳刊行した。
第1章 先駆者たち
1929年の二科展へ東郷青児、阿部金剛、そして古賀春江がシュルレアリスム的な作品を展示、注目を集め、雑誌「アトリヱ」は超現実主義研究号を刊行、二科会へ同種表現が広がった。本格的な導入はマックス・エルンストの作品に触発された福沢一郎による絵画群が独立展に出されたことであった。
東郷青児《超現実派の散歩》1929年 第16回二科展
タイトルに超現実派とあるが本人はシュルレアリスムを否定しており別のモダニズム要素があったようだ。この斬新な作風は二科の新傾向となった。
古賀春江《鳥籠》1929 第16回二科展
福沢一郎《他人の恋》1930
本作を含めた第1回独立展へ出展した作品群は衝撃を与え、日本へ初めてシュルレアリスムの本格導入をしたと言われる。福沢はシュルレアリストと自認はしなかったがテキストを書き前衛運動を擁護し主導する立場となった。
第2章 衝撃から展開へ
1932年からヨーロッパのシュルレアリスム絵画の実作を多く展示した「巴里新興美術展覧会」が日本各地を巡回し衝撃と影響を与え、また独立美術協会では同研究所の「飾絵(かざりえ)」、分離した「新造系美術協会」という最初期シュルレアリスム絵画グループを生む。
瑛九《眠りの理由》1936
杉田秀夫はフォト・デッサン集「眠りの理由」を刊行し瑛九として活動を始める。レイヨグラフやフォトグラムの技法的影響を受けているが、切り抜いた紙などを用い紙に鉛筆で描写するように印画紙へデッサンを試みている。
第3章 拡散するシュルレアリスム
1930年代以降、結成されたJAN、アニマなど複数の絵画グループによる実験的制作や執筆、他分野との交流は既成の公募団体の枠には収まらない小グループの屹立する時代を予感させ、また日中戦争が始まる1937年に福沢一郎は「シュールレアリズム」を刊行、また美術シュルレアリスムの世界的展開を伝えた「海外超現実主義作品展」を批評家の山中散生、瀧口修造により同年開催し日本各地を巡回、シュルレアリスムを巡る状況は高揚をみせていた。
福沢一郎《人》1936 第7回独立展
福沢は小松清の行動主義へ共鳴し絵画を通じて社会へ関わることを試み、また著書「シュールレアリズム」の中ではブルトンから、エルンスト、ダリ、ボスを紹介、日本の禅についても論じている。
展示室中央。多くの資料や作品を一望できるため、まさに「拡散するシュルレアリスム」の状況をビジュアルで確認できる空間となっている。シュルレアリスムに関する様々な小グループが出現、多くの画家がその表現を行い、関連するテキストが出版され、また詩人も参画し、ジャンルオーバーなことがよく分かる。
杉全直《跛行》1938 第2回貌展
ダリに影響を受け、地平線や奇妙な物体や生物を写実技法で表し、またダブル・イメージの手法も試み、時代や社会に対する不安や個人の内面を象徴的に表そうとしている。
ジュンヌ・オムと絵画は帝国美術学校の学生が絵画的ポエジーの燃焼を求め結成し、京都帝国大学の河北倫明も参加した。
詩人である北園克衛は1935年にVOUクラブを結成、画家や音楽家らとジャンルを超えて交流、戦後まで主宰した機関誌「VOU」では先鋭なデザインも手掛けた。
第4章 シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで
1938年以降、ヨーロッパの直接の影響から離れ、円熟した作品がみられるようになり、遅れてシュルレアリスムに参加したダリの影響もうけ、地平線やダブル・イメージの作品も発表された。1939年に小グループが集結、美術文化協会が結成されたが、軍事体制が本格化し、1941年福沢一郎と瀧口修造がシュルレアリスムと共産主義の関係を疑われ拘束、画家達は動揺しシュルレアリスム影響のある作品を排除、会の存続させた。また画家は相次いで従軍、統制組織も結成され、自由な発表は困難となった。
1933年第20回二科展から前衛傾向作品を第九室へまとめて展示したことから、1938年、吉原治良らを発起人に九室会が発足したが、抽象とシュルレアリスムが一室に共存した第九室の可能性は時局により否定された。
吉井忠《二つの営力・死と生と》1938 第1回創紀美術協会展
桂ゆき《土》1939 第26回二科展
靉光《眼のある風景》1938、靉光《二重像》1941
独立文化協会を脱退した福沢一郎を中心に美術文化協会は結成された。しかし1941年に福沢は治安維持法違反で拘束されてしまう。前衛団体と国策という矛盾の中で会の継続をはかりつつ、画家は表現の可能性を探った。
吉井忠の日記には福沢と瀧口が拘束された直後の様子や、誤解の受けそうな本を処分したことなども書かれている。
第5章 写真のシュルレアリスム
1930年代、シュルレアリスムのコラージュ、モンタージュ技法やオブジェを被写体とする写真が発表されるようになり、1937年の海外超現実主義作品展は写真家の関心を更に高め、ナゴヤ・フォトアバンガルド、福岡のソシエテ・イルフなどが結成され、展覧会、撮影会を行い、カメラ雑誌を通じ地域グループを超えて語り合ったが、ピークは1937~39年で、軍国主義の時代から実用的な記録写真撮影という戦争協力が求められた。
久野久《海のショーウィンドウ》1938
久野久や高橋亘らがソシエテ・イルフを名乗り活動、「ローカリティを主張する」と述べ、福岡周辺の写真が多いが、写真に限らない展覧活動を行っていた。
下郷羊雄
超現実主義写真集「メセム属」
第6章 戦後のシュルレアリスム
終戦を自宅や疎開先で迎える者がいる一方、戦地で強烈な体験をし、シベリア抑留を経験数年後に復員できた画家もいたが、GHQによる占領から自由や民主主義の下に美術界の活動も復活、前衛美術を標榜する美術文化協会が1945年、二科会は46年に展覧会を開始、アンデパンダン方式の展覧会や団体の枠を超えて画家が参加した日本アヴァンギャルド美術クラブの誕生など、活動が盛んになった。
鶴岡政男《鼻の会議》1947
阿部展也(芳文)《飢え》1949 第3回美術団体連合展
岡本太郎《憂鬱》1947 第32回二科展
山下菊二《新ニッポン物語》1954 第2回平和美術展
本展図録は論考も充実しておりおすすめ。
そして展示期間中に多くの講演会も企画されシュルレアリスムの研究成果を確認できるようになっている。詳細はWEBで確認してほしい。
前衛表現として日本で大きなムーブメントを起こしたシュルレアリスムだが、戦争の時代と重なり弾圧されてしまう。しかしそこでリセットされたわけではなく、戦後も引き継がれているという本展からの指摘は、戦後の現代美術史を考えるにあたってもシュルレアリスムという視点は重要なことを示唆しているのかもしれない。
見出し画像
『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本
板橋区立美術館
2024年3月2日(土)〜 4月14日(日)
前期:3月2日(土) ~ 3月24日(日)
後期:3月26日(火) ~ 4月14日(日)
午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日月曜日
講演会などの詳細な情報はこちらで
https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000016/4001737/4001747.html
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