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寿司とコーラとデペイズマン ー「視ることのアレルギー」シエニーチュアン個展とみどり寿司レビュー 石川嵩紘

■対話する寿司

2021年9月29日から10月9日まで、相模原のパープルームギャラリーとみどり寿司にてシエニーチュアン個展「視ることのアレルギー」が開催された。

このタイトルは1995年にセゾン美術館で開催された「視ることのアレゴリー」を彷彿とさせる。(ちなみにカタログのデザインも「視ることのアレゴリー」をオマージュしたものである。)個展に寄せたシエニーチュアンのステートメントにおいて「私が絵画や美術を思考する過程でやっぱりどうしても語っておかなければならない感覚がある。ずいぶん昔から付き合ってきた疾患の事である。気づくと私の目の前にはショッキングピンクの鮮やかな色面が迫り立っている(中略)」と告白しており、観る行為に潜在する強迫観念をアレルギーになぞらえてタイトルが付けられている[1]。

本展の特筆すべき点は、パープルームギャラリーだけではなく、隣のみどり寿司を会場としていることだ。寿司屋の店舗内に、シエニーチュアンの作品が展示されたのである。

パープルームギャラリーの来場者の多くはみどり寿司で食事をすることを楽しみにしている。ぼくもそのうちの一人だ。これほどまでに親しまれているみどり寿司であるが、パープルームとの交流が始まったのは比較的最近である。梅津庸一によれば、かつては「回らない寿司屋」は高級なため行けるわけがないと考え、回転寿司をよく利用していたのだそうだ。みどり寿司の暖簾を最初にくぐったのは数年前の正月という。回転寿司が休みの中でたまたまオープンしていたのがみどり寿司だった。恐る恐るみどり寿司に入ると、思いのほか価格も安く、おいしかったことから頻繁に通うようになる。その後、みどり寿司がアルバイトを募集した折に、シエニーチュアンが応募したことで、関係はさらに深まっていった。彼女が同店で働いていることも、みどり寿司で展覧会を開催した理由の一つである。パープルームとみどり寿司といえば、2020年の緊急事態宣言下で開催された「常設展」も記憶に新しい。パープルームギャラリーの来場者をみどり寿司へ積極的に誘導し、みどり寿司を共に盛り上げたことは話題となった。このあたりの事情は、梅津自身の手による「ゲンロンα」の記事に詳しい[2]。

みどり寿司は気軽に寿司を楽しめる良店として地元から愛されている。1貫(2個1組)がだいたい200~500円と価格も庶民的だ。ぼくは行くといつも200円の《納豆巻き》を注文する。納豆に刻んだシソが入っているので清涼感があり、露払いにも締めにもぴったりなのだ。また《ねぎとろ巻》もオイリーなマグロと端正なシャリのバランスが良くおすすめである。一品料理では《アンキモ》があると、ついたくさん食べてしまう。みずみずしく丁度良い蒸し加減のアンキモに、自家製のまろやかなポン酢がかかっており、大いに食欲をそそる。


アンキモ 撮影:安藤裕美


いわゆる「コスパの良い」みどり寿司であるが、それが魅力のすべてではない。ネタも下手な都心の寿司屋より新鮮である。大将が自ら市場で仕入れたり、時には釣ってきたものをさばいているため鮮度が良く、たいていどれを食べてもおいしい。大将は光り物が好きなのだそうだ。ぼくもにぎりならば光り物が好きなので、イワシやしめ鯖があると僥倖と呟きながら注文票に記入をする。


納豆巻き 撮影:筆者



気が付けば、ぼくはすっかりみどり寿司の休業日を避けてパープルームギャラリーに足を運ぶようになっていた。美術鑑賞と寿司を食べることが自ずとリンクしていたのだ。両所を訪れたことがある人であれば、共感いただけるのではないだろうか。
近くにはそれなりに流行っているラーメン屋など他の飲食店もあるのだが、パープルームギャラリーのビジターからはみどり寿司ほどの支持を受けていない。そう、みんなもラーメンではなく、寿司が食べたい。なぜこれほどまでにみどり寿司は魅力的なのだろう。


そもそも、寿司の本質とは何であるかを考えてみると、その一つは「対話」であるように思う。つけ場に立つ職人にその日のおすすめを聞き、会話を楽しみつつ、オーダーメイドに寿司を握ってもらう。座敷では寿司を囲みながら、客同士の話が盛り上がる。寿司屋には対話が溢れている。
個人的にこんな出来事が心に残っている。ネゴシエーションを必要とする話し合いで、寿司屋の座敷を会場に選んだことがあった。参加者も緊張していたのだが、出てきた寿司について感想を述べあっていると柔らかい雰囲気となり、和やかに話し合いを終えることができた。これは寿司でなければできない芸当であろう。一つ一つのネタが個性的で、色鮮やかな寿司は話題に事欠かない。そして膝を突き合わせ、時に寿司をつまみながら無防備に食事をすることで気持ちも解れていく。寿司を食べているとゆるやかに対話の姿勢が生まれるのだ。そういえば、パープルームギャラリーでは来場者一人ひとりにパープルームのメンバーが作品解説をしてくれる。メンバーが鑑賞者と対話するパープルームギャラリーと、客と談笑する大将の声が響くみどり寿司の空気はどこか似ているのかもしれない。


■対置されるアイコン

シエニーチュアンの個展に話を戻そう。本展の作品のほとんどはパープルームギャラリーに展示されている。《剣とレモン》と題された作品群を中心としながら、抽象画の小品を加えた形で構成されている。シエニーチュアンは、支持体に多様な種類の布を選択する。布に木炭、油彩、スプレーなどのピグメントをこすり、しみ込ませることで固有の素材感を際立たせる。それと同時に、おぼろげな色彩を与える点でもこの手法は有効だろう。今回は木材に布を張り込んだ垂れ幕状の作品もあり、これはオールオーバーな画面作りから逸脱する試みといえる。このように作品からは様々なアプローチを見て取ることができるのだが、シエニーチュアンによれば「自分自身が器用であるために、あまり制御の効かない支持体を選ぶことで、一人将棋になることを避けている」のだという[3]。確かにシエニーチュアンは器用な画家なのかもしれない。みどり寿司の会場に展示された長細い矩形の作品はヴァルダ・カイヴァーノのようないわゆる「ペインタリー」な画風を思わせる。その路線を忠実にシミュレートすることはできるのだろうが、あえて制御の効かない支持体に描くことでエラー(予測を超えて広がる絵具の染みや汚れ)が発生する。そのエラーに向き合わざるを得ないというある種の即物性によって、先行する絵画文法への抵抗を企てる。


視ることのアレルギー パープルームギャラリー展示風景 Photo by Fuyumi Murata


作品に共通しているのは、木炭で描かれた線がとてもエモーショナルで、脳裏で明滅するイメージをそのまま取り出したような生々しさがあることだ。これは、シエニーチュアンがオートマティスムを用いて制作していることに起因している。オートマティスムは自動的に手を動かし描画することによって、作者の無意識を画面上にあぶり出すという手法である。アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」で述べているのは反芸術的アプローチとしてのオートマティスムの可能性であったが、とりわけ絵画においては絵を描く行為に内在する表象性・身体性といったコードを取り払うことが難しく、徐々に手法としては衰退していった。後にオートマティスムは、その動的な部分に重きを置いたアクション・ペインティングへ発展することとなる。その観点では、シエニーチュアンの絵画は身体性よりも、無意識の領分を色濃く反映したものであるといえるだろう。描かれている具体的な対象よりも、結果として画面に刻み込まれた記号的な要素が重要なのだ。

このアイコニックな要素はシエニーチュアンがもともとキャラクター絵画を制作していたことに関係があるだろう。パープルームギャラリーで発表するようになった2019年の頃からキャラクター絵画を離れ、現在の抽象的な画風へと接近していく。本展の出品作の中に登場する剣、レモン、十字架といったアイコンはキャラクター絵画の残留物に見えなくもない。シエニーチュアンは「キャラクターには意図以外存在しない」[4]と述べており、その対極に位置する手法としてオートマティスムを援引している。網膜的な抽象表現に対置された剣やレモンが醸し出す違和感の肌理は、シュルレアリスムにおけるデペイズマンのようにも思える。


■デ・ペイズ・マン

デペイズマンとはシュルレアリスムの手法である。日本語では「転移」とも訳されるが、そのニュアンスは原典と少し異なる。フランス語でdépaysementと表記するが、これは動詞のデペイゼ(dépayse)を名詞にしたものだ。「dé-」は分離するという意味の接頭辞、「pays」は国や故郷の意味がある。すなわちデペイズマンは「本来あった場所(国)を離れ、異なる環境に置く」ことを意味している。それにより一種の異化が起こり、鑑賞者は作品と同化することを妨げられ、違和感を植えつけられる。現在は美術以外の分野でも広く用いられている言葉であるが、もともとはブルトンがエルンストのコラージュ小説「百頭女」に寄せた前書きで述べた概念である[5]。デペイズマンはシュルレアリスムの根幹を成すエレメントとして広く取り入れられてきた。

シエニーチュアンの描くアイコンに一種のキャラクター性を見るのであれば、デペイゼすることによって、現在のキャラクター絵画の文脈に安易に回収されることと距離を置いていると解釈できる。皮肉なことにキャラクター絵画は、オーガナイズを試みたカオス*ラウンジの退場によって理論部分が後退し、急速に様式化が進んでいる。これまでキャラクター絵画にアプローチしていなかった作家や、ストリートアートの文脈において、その手法を(半ば無自覚的に)導入するケースもちらほら見かける。キャラクター絵画を構成する要素を分解して描かれた作品に様式美を透見する。具体的には、画面中央に大きく描かれたキャラクター、奥行きがない背景、アニメのセル画を想起させるようなレイヤー分けした色彩……といった部分だ。キャラクター絵画の隆盛はマーケットの要請によるところも大きいだろう。30~40代のアートコレクターが増加したことにより、彼らの青春時代の原風景であるアニメやマンガといったサブカルチャーに寄せた作品の売買が盛んになっている。このバックグラウンドは若い作家についても同様であり、美大で学ぶファインアートの文法よりも、幼少期から親しんでいるアニメの方が親和性が高い。需要がある上に、容易に同調できるキャラクター絵画が広がりを見せることは理解できるが、表層のみを引用した作品に美術の表現として引っかかりを覚えてしまう。シエニーチュアンもこのようなマーケット主導の昨今のアートシーンに疑問を持っており、自身の作品が商材と見なされることへの疑問を表明している。(そのため、本展の出品作品は原則すべて非売である。)

流行するキャラクター絵画は、アメリカで大衆に広まったコーラのようでもある。コーラはもともとコカインを研究していた薬剤師が発明した薬物中毒の治療用ドリンクだった。アルコールの代表品として局地的に飲まれていたものが、のどごしの良さや爽快感を加えたことで人気商品となり、アメリカの資本主義を象徴するアイコンになった。仄暗いコーラの出自は歴史から切り離され、今ではポピュラーでありふれたものとして流通し続けている。

シエニーチュアンの絵画は、シュルレアリスムの手法を実装することで、キャラクター絵画の持つ「のどごしの良さ」からの回避を試みる。彼女の作品に見られるぼかしがかかったような美しい階調は、繰り返し描いては消すことで得られるものだ。それはどこか曖昧で儚い。ここには、美術家として作品を制作することへの逡巡が塗り込まれているように思える。

実のところ、ぼくの心を捉えたのはパープルームギャラリーよりも、みどり寿司での展示であった。寿司屋に設置された3点の絵画はまさにデペイゼされた状態にある。通常の展覧会のように整然と展示されているわけではないため、みどり寿司での鑑賞体験にはどこか居心地の悪さが残る。ぼくはどうしても、空間の中で異化されたシエニーチュアンの作品に、パープルームという共同体の存在を重ね合わせてしまう。パープルームは現代美術の世界においては空隙地といえる相模原で活動を続けており、それ自体が一種のデペイズマンでもある。みどり寿司での体験はそのことを強烈に印象付けた。


視ることのアレルギー みどり寿司展示風景 Photo by Fuyumi Murata


視ることのアレルギー みどり寿司展示風景 Photo by Fuyumi Murata


■日常における変革

そもそも、なぜデペイズマンやオートマティスムといった概念をシュルレアリストは重用したのだろうか。それは、芸術の形式性を否定することによって人間が本来持っている想像力を探求するために他ならない。1920年代の戦時フランスにおいて、デペイズマンもオートマティスムも人間性を回復するための手段として誕生した。人がお互いを理解するためには、形に縛られず自由に対話をすることが必要である。そのために言葉を交わすことができる余白の持つ意味は大きく、そこが守られている限りは致命的な争いも起こらないはずだ。

みどり寿司に展示されているシエニーチュアンの作品は鑑賞し難い。そのため、来場者は食い入るように作品を観る。一方で、寿司を食べる一般の顧客は絵画が頭上に展示してあることに関心がない。その視線は交わらないが、大切なのは同じ空間に彼らが存在しており、対話が芽生える可能性があることなのだ。パープルームギャラリー来場者とみどり寿司の顧客は、そのままパープルームと相模原の関係に換言し得るだろう。

マルクス主義に強い影響を受けたブルトンの考えるシュルレアリスムとは、日常に変革を起こすための装置であった[6]。そう考えると、シエニーチュアンの日常であるみどり寿司と、美術活動の拠点であるパープルームギャラリーをひとつなぎにしたのはごくごく自然な流れだったのかもしれない。
「シュルレアリスム宣言」からもうすぐ100年が経とうとしている。国も時代も異なる相模原で、ストレートなシュルレアリスム的実践が行われているという事実は、さまざまなことを考えさせる。

そんなパープルームも施設の老朽化を理由に現在の場所から退去を余儀なくされている。移転先はまだ決まっていないが、いずれにせよ2022年度中には移転しなければならないという[7]。相模原圏内に移転するのかも未定であるため、パープルームとみどり寿司というパッケージを楽しめる時間にも限りがある。まだ相模原に行ったことがない方は、是非パープルームギャラリーの展覧会に合わせて足を運んでみてほしい。

本展は、シエニーチュアンやパープルームの活動を考える上でも重要な機会であったと思われる。彼らの活動が、現代アートというエッジに隣接しているだけではなく、芸術の根源的な部分に根ざしていると実感できるものだった。より良い作品を追い求めつつも、地域や周囲といった日常と向き合う真剣な姿勢は「のどごしの良さ」を求める昨今の現代アートの在りかたと端を異にしている。たとえパープルームが相模原から離れたとしても、そのスタンスが変わることはないだろう。それはまたデペイズマンとなり、新しい対話の始まりを意味しているのだから。


[1] シエニーチュアン「私はだれかのみてきた幻想が好きだった。」『
パープルームギャラリー』https://parplume-gallery.com/%e8%a6%96%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%ae%e3%82%a2%e3%83%ac%e3%83%ab%e3%82%ae%e3%83%bc/ [公開日 2021年9月]
[2] 梅津庸一「展評――尖端から末端をめぐって(10) コロナ禍と『常設展』」『ゲンロンα』https://www.genron-alpha.com/gb051_05/ [公開日 2020年7月17日]
[3] シエニーチュアンと筆者のSNSでの交信より抜粋、2021年12月3日
[4] 同上
[5] アンドレ・ブルトン(巌谷國士訳)「マックス・エルンスト『百頭女』に寄せる前書き」『アンドレ・ブルトン集成第6巻』、人文書院、1974年、pp.251-252
[6] アンドレ・ブルトン(生田耕作訳)「シュルレアリスム第二宣言」『アンドレ・ブルトン集成第5巻』、人文書院、1970年、pp.58-59
[7] 「パープルームが入居する物件の取り壊しが決定。移転先は未定」『ウェブ版美術手帖』https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/24244 [公開日 2021年6月29日]


見出し画像 下駄にのった寿司。鰺など。 撮影:安藤裕美


石川嵩紘(アートディレクター/オーガナイザー)
1985年生まれ。多摩美術大学卒業。大学で日本画を学んだ後、現代美術ギャラリー・爬虫類専門店・百貨店美術営業部の勤務を経て、株式会社ブルーアワーを設立。現在は展覧会の企画や法人のアートディレクションを行う。企画や制作に携わった展覧会として「梅津庸一キュレーション フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」(三越コンテンポラリーギャラリー、2020年)、「絵画の見かた reprise」(√K Contemporary、2021年)、「梅沢和木 画像・アラウンドスケープ・粒子」(リコーアートギャラリー、2021年)などがある。



最近のみどり寿司(2022年8月) 撮影:安藤裕美




編集注:
シエニーチュアン個展は2021年9月末から10月初頭にかけて開催されました。その後、石川嵩紘さんから原稿をいただいたあと、編集部都合で掲載までに時間が経ち2022年8月の掲載となってしまいました。
今と同じくコロナ禍でありながら、当時は緊急事態宣言の下に自粛が求められ、コロナ感染への恐怖や危機感から、外への出歩き展示巡り外食をすることへ抵抗感を感じられていたと思います。そんな中で行われた展示です。ほんの1年前ですがそんな緊張感と自粛明けの開放感を思い出しつつ読んでいただきたく思います。




レビューとレポート第39号(2022年8月)