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前本彰子の半生をたどるアーティストトークをレポート 「MOTコレクション 竹林之七妍」東京都現代美術館

現在開催中の東京都現代美術館のコレクション展「竹林之七妍」では女性作家に焦点をあてた展示をしており、その中で前本彰子は新規収蔵された作品を中心に個展のような展示を行っています。その関連イベントとして10月19日にアーティストトークを行いました。モデレーターは企画担当した藤井亜紀(東京都現代美術館学芸員)。







はじまり

前本:美術を志すきっかけは中学2年生でヘルマン・ヘッセのデミアンを読んだことです。そこには天職を持つべきと書かれていて、何でも良いから持たなくてはと思って油絵を選びました。金沢に住んでいて、美大の金沢美術工芸大学が近く、絵を描くというのが身近だったからです。金美を目指したけど、現役では落ち、1浪していた時は内灘海岸の近くに住んでいて、毎日デッサンを終えた後には日本海の夕日を見る素晴らしい時間を過ごしていたんですが、そんなことをしていたせいかまた落ちてしまい、京都までなら行けるということで、京都精華大学短期大学(当時)へ行きました。

左が前本彰子。右はモデレーターの藤井亜紀(東京都現代美術館学芸員)。



1980年 23才《インドに行ったあの子へ》

《インドに行ったあの子へ》1980 みそにこみおでん蔵
画像提供:コバヤシ画廊

油絵は平面が体質に合わない感じでしっくりきませんでした。京都大学西部講堂という小屋があって、映画上映や舞踏が行われていて、在学中に時々そのスタッフをしたりして、芝居や舞踏を見てすごいなと。たまたま見た霜田誠二は、パフォーマンスで全裸になって仰向けになり小刻みに震えながらうーうーうなってるだけなのにそれはまさしく表現になっていて、キャンバスを張り油絵の具を塗れば芸術のようなものになるという呪縛から抜け出せなかった自分にはショックでした。

そういうこともあり卒業制作では形式的に150号の油絵を描きつつ、アパートでは初めてのレリーフ作品を作っていました。内灘海岸で一緒に夕日を見ていた親友がインドへ行って行方不明になってしまったのでそれを思い作ったもの。のちの「プライベート・プレゼントシリーズ」の始まりです。今見るとまるでビートルズのアルバム「ABBEY ROAD」の横断歩道ですね。その制作で体中の体液が入れ替わるような熱い感覚をうけて、私のしたかった表現はこれだと確信しました。

横浜にあるBゼミ・Schoolへ通うことに。京都から関東へ。Bゼミは彦坂尚嘉や柏原えつとむ、もの派以降の人たちが教えていて、作品と言うより個性的な人柄に惹かれてそれぞれのゼミを取っていました。毎日作家や評論家が講師として日替わりで来て学生が自由に選択できて、ゼミも半日、昼から夕方までずっと一緒にいて、話したり、考え込んだり。私自身もその後講師として20年そこに通いました。

当時のBゼミには具象を描く人が全然いません。色面と構成などの抽象ばかり。そして理論が重要で口が立たないと勝てないというかほとんどの学生は口ばっかの理論派。そんな場所へさっきのようなとぼけたレリーフを持って入っていったので、どうなるかと思ったらめちゃめちゃ受けました。ニューヨークへ行った安齊重男が現地でキース・へリングが活躍していて、ニューペインティングが流行ってるぞと状況を紹介していたことも後押しになったようで、もはや救世主のような扱いだった気がします。



1981年 24才 「Bゼミ学外展」

神奈川県民ホールギャラリー

画像提供:前本彰子
画像提供:前本彰子

そういうこともありBゼミ学外展では入ってすぐのとても目立つ良い位置に作品が置かれました。画像の作品が初めて作ったドレスの作品です。高橋由一の作品から来てるように匂わせて、実際はたまたま新巻鮭を売る単発のバイトをしていたから。そんな箸にも棒にもかからないようなものをあえて作っていました。その状態に自分の存在理由がありました。

この頃から7年くらい、人が怖くて、すごく大変な時期が始まります。人に会えないし、緊張して貧血起こしたり、ひとりで電車にも乗ることができない。美術シーンでは発表も華やかでBゼミの授業ではなんとか講義していたけど、毎回死んじゃうかもしれないと思っていました。若く一番良い時期なのに全然人生を楽しめてはいなかった。


―自分の周り全てが半透明な厚いゼリーで包まれているというか、絵を描くときだけなんとか腕の部分だけ開いて筆を伸ばして絵を描いて、それが終わるとすっと閉じてしまうような感じ。作品はそこに存在しているけど、自分が隔離されている。でも絵を描いているときが一瞬でも唯一社会と繋がる方法でした。自分が本当に存在しているのかどうかが心配で、姿が確認できるようにいつも机の前に鏡を置いていたのもこの頃です。



1983年 26才 

《Japanese dinner》 1987
画像提供:コバヤシ画廊

人前でごはんを食べるのはあさましいという感じもあって……食べたいのに食べられないというテーマでもいくつか作りました。金沢の実家はお料理屋さんでこんな食器がたくさんあった。
Bゼミや精神科のワークショップでしていたネタはすべてこのつらい時期に自分のためにしていたこと。ネガティブなことを書き出すとか、自分の人生をグラフにしてなにが良かったかとか。これらは集約されて「実践!ゼッタイお姫さま主義」という本になっています。転んでも必ず取り返します。
(もう絶版ですが、都現美の図書室にはありますよ)



1982年 25才  《井土ヶ谷シンドローム》

「Bゼミ学外展」神奈川県民ホールギャラリー

《井土ヶ谷シンドローム》 1982
画像提供:前本彰子

キャンバス枠から出ることがテーマで、ドレスの初期作品から麻布を貼って作っていて、ここではキャンバス枠からドレスが出ている。広い会場だからインスタレーションやってしまえ、と。この作品も6畳間で作っていましたが、こんな作品でもインスタレーションにしてしまえば埋まるじゃんって思いました。アトリエが狭くても大きな空間をつくることは自在です。
これはアパートの部屋に大きなムカデが1匹出たことがきっかけ。それが怖くて怖くて、震えながらおまじないのように負けじと大きいのをたくさん作りました。



1982年 25才 《GILT SISTERS》

《GILT SISTERS》1982 高松市美術館蔵
画像提供:前本彰子

実家が料理屋で普段から日本的な建具が身近にあったからか、枠がふすまみたいに。シンデレラのお姉さんのようなイメージ。中身はからっぽで、ただギラギラしていて。



1983年 26才 「宝珠夜会」

コバヤシ画廊

《BLOODY BRIDE》1983
画像提供:前本彰子

今も継続して展示をしているコバヤシ画廊が別のところにあった時に借りて展示をしました。これが初個展。貸画廊というシステムにはすごく助けられている。相手に選ばれて展示をするんじゃなく、自分で選んで好きなことが展示できました。


「限界芸術'83年の位相」(たにあらた企画) 

村松画廊

《蘇州夜曲》
画像提供:前本彰子

同じく貸画廊の村松画廊での展示。宝珠夜会とは別のドレスを出して、舞台の一角のような。ここで使われている招き猫、ちょっと憶えておいてくださいね。



1984年 27才 「不凍港」

コバヤシ画廊

画像提供:前本彰子
《Water in My Mind Ⅱ》1984
画像提供:コバヤシ画廊
《BLOODY BRIDE II》1984 高橋龍太郎コレクション
日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション 東京都現代美術館より
撮影:東間嶺 Ray Thoma

次の年のコバヤシ画廊での企画展。「不凍港」。《BLOODY BRIDE II》には宝珠夜会で出したドレスと、あの招き猫が再利用されています。高橋龍太郎コレクションに入って、今、展示中ですね。

これらはシドニービエンナーレへ急遽出展要請があり、自分はインスタレーションか小作品しか作っていなくて、海外でインスタレーションは出来ないだろうし、国際展ともなれば小さいの一個だしても他の作家はきっと大きいだろうから目立たない。そこで同じサイズの大きなパネルを2枚作り、1点はインスタレーションをパネルに、もう1点今まで作った小さいものを一つにまとめた作品を作りました。ビエンナーレから作品が戻ってきた後に、コバヤシ画廊の企画展へ出しました。この時のコバヤシ画廊は今と違って画像程度の小さい空間で、右の作品は個展の初日に売れました。すぐに売れることもあれば、左の作品は売れるのに40年かかっています。
いま売れなくてもその後、長い年月を経て、保管していれば売れることもあるから。若い人はめげずに頑張って大きいものも作って欲しいと思います。



1985年 28才 《宝珠物語》

《宝珠物語》1985
画像提供:コバヤシ画廊

狭い部屋で100号3枚並べて制作していて、1枚どかさないとドアが開けられずトイレ行けないような状態でした。平面は得意と思ってないけれどもこれはうまく出来ました。この時も精神的にはずっとつらい状態のままです。それが色々描き込んでありますね。
購入してもらったのですがその方が亡くなりその後遺族がオークションに出され現在海外にあります。

長年やってると関係した画廊がどんどん無くなって、コバヤシ画廊は唯一残ってるけど……。コレクターさんも変わっていくし、何かを当てにすることなく時代と自分自身に合わせて変化していくことが大事かなと思ってます。



1986年 29才 「monologue-dialogue」 

なびす画廊

なびす画廊での戸谷成雄との二人展(戸谷は10才ほど年上の作家)。多数出してるように見えますが、さらに反対側の壁には《大紅蓮》というドレスのインスタレーション作品も出している。戸谷さんが大きな白い床置きの作品なのに、《大紅蓮》を壁いっぱいに掛けたら色の反射で部屋が真っ赤になってしまって、戸谷さんの白い作品が……。
グループ展はバンドの対バンだと思っているので絶対負けないと昔から思って出しています。新宿眼科画廊で今現在も若い作家たちとやってますが(アーティストトーク当時)、同じように絶対負けねえ!という気持ちです。
(編集注:展示画像は都合により掲載していません)

この頃に超少女として美術手帖で紹介されている。



1986年 29才 《山吹譚》

《山吹譚》1986 
画像提供:前本彰子

精神的につらい状態は変わらず、電車にも乗れないからバイトもできませんでした。それでもう美術だけで食べていこう、できないなら餓死してもいいと美術家宣言をしました。それで作ったのが神棚作品。人に見せるというより、自分を支えるため自分のために作ったものです。自分の神さまとして毎日お参りしていました。それを画廊で見せたら意外とウケて売れたんです。それで何点も作って売って、なんとなくそれから食べていけるように。
画像の作品は映画「ロビンソンの庭」へ出しました。もう売れていたものなので貸出してもらいました。

この頃は市川の江戸川のほとりにあった、向こう岸に東京の見えるエレベーター無しのぼろマンションの5階に住んでいたんですが、人生のグラフをつけるとこの頃が一番幸せでした。なにも持ってないし、精神状態は悪いけど、見つめていられるものがありました。本当に作りたいものだけを作れて充実していました。困ったときの神棚作りはこの時に見つけました。



1986年 29才 《大紅蓮》

山本政志監督 映画「ロビンソンの庭」より
画像提供:前本彰子

映画「ロビンソンの庭」(監督 山本政志)は、80年代、ニューウェーブムーブメントの映画。スパイラルで三人展をやっていた時に山本政志監督たちが来て、映画の参加を依頼してきた。いかにも怪しい人たちで大丈夫かなと不安だったけど、思った以上に作り込んでいてくれて。映画少年たちのアツさを体感しました。


藤井さんが着ているINUのアルバム「メシ喰うな!」のTシャツ、この町田町蔵(後の町田 康)も準主役で出演してて。彼はこの暫くあとに芥川賞を取りました。
映画が撮れたら全て良いみたいな感じ。みんなで映画を仕込んでる姿をみて、それを見てとても刺激になりました。



1988年 31歳 《死ぬまでダンスしたい》

画像提供:コバヤシ画廊

ずっと精神的につらい状態で、なんで電車くらい乗れないの!とわざわざ駅まで行って停まっている電車にくっついたりもしてみました。病院には行かず、努力して、自分に与えられた何かだと考えて自分で何とかしようとしていて。

そんな状態がふっと無くなったのはバリ島行ったのがきっかけ。バリ島の人たち、めちゃ優しくて、ちやほやされるのが心地良くて。着いて飛行機降りた途端、今まで何だったの、みたいな。細胞がばらけてそのあとにつぶつぶが寄ってまた人型になって自分が再生されたみたいになりました。身体中から涙が出ました。何が起きたのかは今もわかりません。たまたまその時がピークだったのか。



1988年 31才 《Silent Explosion―夜走る異国の径》

《Silent Explosion―夜走る異国の径》1988 愛知県美術館蔵
画像提供:コバヤシ画廊
「Silent Explosion―夜走る異国の径」 インスタレーションビュー
画像提供:コバヤシ画廊

ここ最近、愛知県美術館に入ったもの。バリ島で楽になって、人生やり直せると思って、それでドレス作って、結婚もしちゃえって。個展の前に結婚式があったんですが制作でコンプレッサーを使い青い絵の具をぶっかけてるからブライダルエステすると皮膚から青い色がでたりする。結婚式より展示の準備が大事。今もそうですが搬入搬出で全てのスケジュールを決めていました。
《Silent Explosion―夜走る異国の径》は、あるフェミニズム批評家から、女性の情念があふれ出て……と書かれましたが、元々は個人的恋愛エピソードが発端の作品。できあがった作品は人が好きなように読み解けばよいと思っています。いつも個人的に大事なことをテーマに作ってます。そうじゃないとリアリティが持てず完成までのテンションが保てない。



1989-91 32-34才 「Against Nature:Japanese Art in the Eighties」

サンフランシスコ近代美術館ほか全米7カ所巡回

Against Nature: Japanese Art in the Eighties
MIT List Visual Arts Center
https://listart.mit.edu/exhibitions/against-nature-japanese-art-eighties

サンフランシスコでの展示は当時バブルだったからか作家全員の渡航費とホテル代もでました。舟越桂さんもお元気で、大竹伸朗さんはお子さん生まれたばっかで……。出展作家はみんな若くて元気。メンバーは文句なしでよくて、私も精一杯つくった。作品のセレクトは展示主催者で、送った作品の展示は任せていました。



1992年 35才 《深海のアネモネ(Sea anemone)ーEAT UP THE HEAVEN!》

《深海のアネモネ(Sea anemone)ーEAT UP THE HEAVEN!》1992
東京都現代美術館蔵
画像提供:コバヤシ画廊

東京都現代美術館へ収蔵されていま展示されています。画像をみたら分かるけどすごいでかい。黄色の棒状のものはスポンジを詰めながらミシンで延々とひたすら縫い針金でねじる地味な作業を続けて作ります。狭い部屋の中、パーツパーツで作るから何してるか分からない状態で全体像もよく分からない。そんなときに気分を変えるために最後の方の工程であるところのラメをぶっかけてキラキラにする。気分が上がる。「先にパフェ」という魔法。美味しいとこを少しだけ先にやっちゃう。


展示ではあたかも世の中を救う女王様のように立っていますが、めちゃ好きなバンドがいて、あわよくば見て貰いたいというその人への下心のみで実は作りました。作り始めはリアルじゃないと作れません。できあがった作品からいろんな物語を皆が読み解くことになります。そこから物語が広がれば良い。
でもこの時期は、こんなに頑張ってる割に自分の評価が低いのが不満でした。そして妊娠して子供も生まれます。



1998年 41才 《私の子供は私が守る》

《私の子どもは私が守る》1998
画像提供:コバヤシ画廊

多摩美で非常勤講師、Bゼミ講師、さらに精神科でのワークショップ。そしてエッセイ、小説を執筆してて。アフリカンダンスも習い始めました。家では子育て、猫と亀も、夫もいて。それくらい忙しくしていないと自分がなくなるような気がしていった。子供のパワーがすごくて、泣くなんて恫喝みたいなものだし、子供はしょっちゅう熱出すし。私の人生はこのまま医者の待合室で終わってしまうと思うくらい大変で。大変なことが逆に大きな作品の制作を始め色々なことを私にさせました。



2002年 45才 《パンドラの箱の中で》

《パンドラの箱の中で》2002 東京都現代美術館蔵
画像提供:コバヤシ画廊

今から見れば中間地点。子供が小学生になり、人生をふり返ることに。人間という動物の体から逃れようがないのかなと。自我などむしり取られるような。



2005年 48才 《MIND BREAKER》

個展「身代わりマリー」コバヤシ画廊

《MIND BREAKER》2005
画像提供:コバヤシ画廊

華やかさも無く、ひたすら自分のつらさが出ている作品です。あまりにリアルすぎて昇華しきれずうまくいっていないので、敢えてお見せしました。作品は清春の曲、展示のタイトルは大槻ケンヂの曲から。でも鬱々としながらも作れているからまだマシ。



2005-10年 48-53才 「DARK SEED」の活動

画像提供:前本彰子

この頃は私の個展なんてもう見なくて良いでしょ、という気分でした。そこで多摩美の元教え子と一緒にはじめたのがDARK SEEDというユニット。知ってたり良いなと思う作家に突撃してあなたの闇の部分で作ってほしいと展示をお願いして。中ザワヒデキさんとはゴールデン街のすみれの天窓というお店で行いました。

子育てのために木更津にいたけど、おしゃれ要素が全然なくて心が渇ききっていました。年相応のファッション誌を見ても全然興味ない服ばかり。そこで偶然KERA(ケラ!)を見つけて、CUTiEとかZipperとか、ストリートファッションの存在にとても救われました。その流れでゴシックファッション(ゴス)。DARK SEEDとは別の方向から見つけたファッションで、PTAも精神科のワークショップ講師もそれで行きました。
今にして思えばゴスを着ていた頃は、自分の心のお葬式をしていたようなものでした。それと、精神科の患者さんはなかなか手強く無防備ではいられなかった。黒を着ていると体温が下がる気がするけど、鎧のようで守られてるようにも感じました。

当時はSNSなどやってはいなかったので、直接メールなどで連絡してお願いしたい作家さんと喫茶店で。初対面で会うときもゴス服で行きました。それでDARK SEEDなんですけど……なんて言われてすごい嫌だったろうな。
このときは企画側で作家やスペースも自分で選んでいました。それまでは他人の展示にはそんなに興味なかったけど、この時期は気になった展示はすぐ見に行ったり、画廊巡ったり。ぼうっと見てるのではなくチャンネルが切り替わったように違う見かたで見るようになりました。

ストロベリー・スーパーソニックでも作家に展示をしてもらっていますが、お願いするときに気をつけていることがあります。そのひとのイメージとしての作品だけを出して貰うと、単なる駒として扱うことになりそれは作家に対してとても失礼なことです。なによりその先に作家の伸びがありません。好きに走って貰えば良いし、どんなタイプの作品が来ても良い。大事なのはその作家がその時に作りたいものを作って前を向くことです。
ストロベリーはそんな冒険の場でもあります。



2006年 49才 《植物園 ― あなたの傷のかたち》

《植物園 ― あなたの傷のかたち》
画像提供:前本彰子

これも大槻ケンヂの曲から。


2016年~  59才~ 「ストロベリー・スーパーソニック」

ストロベリー・スーパーソニック 店内
撮影:東間嶺 Ray Thoma
ストロベリー・スーパーソニック 店内
撮影:東間嶺 Ray Thoma
ストロベリー・スーパーソニック アーティストガチャ 
撮影:東間嶺 Ray Thoma
《私が殺したK》1984 みそにこみおでん蔵
ストロベリー・スーパーソニック ギャラリー
撮影:東間嶺 Ray Thoma
ストロベリー・スーパーソニック 外から入口を見る
撮影:東間嶺 Ray Thoma


10年飛んで、ストロベリー・スーパーソニック。この頃、飼っていた猫が数年おきに2匹亡くなって、子供たちが大学へ行き家から出て、他人には言えないけどいろいろなことが大変で、そのピークがストロベリーを開くまでありました。
個展をやる気がなくなって、DARK SEEDなどのグループ展を企画しますが、そのあとも色々あって心身ともに疲れきり、その後結局7年ほど作品が作れなくなっていました。
今考えればその理由のひとつに、自分で作った美術という枠組に捕らわれいたことがあり、それで作れなかったんだとも思います。作品は作りませんでしたが、手は動かし続けていて、それが羊毛フェルト。それを作っていたら近所の可愛い雑貨屋さんが置いてくれて、身につけてくれる人が現れていきました。自分が作ったものを他人が付けているのを見るのは、シンプルに嬉しかったです。

ストロベリーの前に「女子カフェ」もしていました。辺鄙な木更津で女の子しか入れない隠れ家のような喫茶店。人口の半分を拒否したのですぐ潰れてしまいましたが楽しかった。ストロベリーの前身ですね。ベリーダンスもやっていて新宿で5年習ってから木更津で7年教えていました。

しかしどうやっても木更津の家に居るのが息苦しくて、居場所を探してたどり着いたのが高円寺でした。高円寺は変な格好しても誰も人のことなんて気にしない、なんて素敵なんだろうと思いました。
4畳半のアパート借りて、羊毛フェルトをチクチク作りながら週の半分そこに居るという往復生活をしていましたが、あまりにも生産性がないので店舗物件を借りてお店にしたらそれで少しでも売れるかもと思い、ストロベリー・スーパーソニックを始めました。美術の作品は相変わらずつくれなかったけど、自分のシェルターみたいな安心できる場所をやっと見つけられたんです。お店では泊まれないので家から通っていました。

当初、ストロベリー・スーパーソニックと作家前本彰子を区別して隠していましたが、梅津庸一さんのパープルームTVなどに出てついそんなことも言っていたらそのうち当然バレていきました。
それで、ストロベリーの片面に白い壁紙を貼って、知り合いの作品を展示したりしているうちに、色んな作家も出入りするようになって、画廊なんかだとお互い緊張するけど、ストロベリーなら最初からリラックスして話せるし友達になれます。作家の作品が偶然を伴い手に入るアーティストガチャもあります。



2019年 62才 個展「80年代の美術 4 前本彰子」

コバヤシ画廊

80年代の美術 4 前本彰子 インスタレーションビュー
画像提供:コバヤシ画廊
80年代の美術 4 前本彰子 インスタレーションビュー
画像提供:コバヤシ画廊

作品が作れずストロベリーをしていた頃、世間では80年代回顧展があったみたいで、でも私はそんなの気付いていませんでした。それらの展示へ前本が出ていないことを問題視したコバヤシ画廊が企画した展示です。お声掛け頂いた時に新作を作れないが……と言いましたが、古い作品が良いということで旧作を引っ張り出してみたら、それが予想外にすごく良かった。
《BLOODY BRIDE II》を作ったときはそれはそれで苦しい時期だったけど、この頃の私はこんなにちゃんと向き合ってる。作れないなんて言ってぼーっとしてる場合じゃないと今の自分が励まされました。
もし私に才能があるとすれば、きっとそれは自分が自分の作品をすごく好きなことでしょう。逆に言うと好きになれるまで作り込まないと出さない。そこまでしたから後で自分が助けられたんだと思います。



2020年 63才 個展「宝珠神棚」

コバヤシ画廊

《全部欲しい千手観音》2020
画像提供:コバヤシ画廊
《片恋》2020
画像提供:コバヤシ画廊
《Gorgoneion》2020
画像提供:コバヤシ画廊

コバヤシ画廊でまた個展をできるようになったものの、作品を作れるのだろうかという不安が。その時に前もそうだったように、神棚なら作れるなと思いウォーミングアップのつもりで取り組みました。コロナ禍だったけど、コバヤシ画廊はお正月ぐらいしか閉めないし、展示できるならたとえ人が来なくてもいいやと思って。これで再稼働します。コロナ真っ最中なのに思いのほか多くの方々がいらしてくれて、そんな危機的な状況も高じて話題にもなりとても有意義な個展になりました。



2021年 64才 個展「紅蓮大紅蓮」

コバヤシ画廊

紅蓮大紅蓮インスタレーションビュー
画像提供:コバヤシ画廊
《火ノ魂国奇譚》2021
画像提供:コバヤシ画廊

過去の作品に加えて平面、過剰につぐ過剰な展示です。過去の作品は若い頃の自分の思いばかりを表面に出す作品。新作は、沈み込んでいたところから出てきたら世の中が大変なことになっていて、震災後の始末や天災もあり、戦争が始まり。ここはなにか自分が言っていくべきなのではと思い作ったものです。


2021年 64才 《悲しみの繭》

《悲しみの繭》2021―2024
画像提供:コバヤシ画廊
《悲しみの繭》2021―2024 部分
画像提供:コバヤシ画廊

ミャンマーのクーデターで最初の犠牲者になった19才の女の子のために作りました。日々のニュースを見ながらリアルタイムで作っていたので、亡くなった人の数の蝶が毎日どんどん増えていき、作り切れなくなってしまいました。今もその蝶の数は増え続けています。



2022年 個展「極楽水宮」

コバヤシ画廊 

極楽水宮インスタレーションビュー
画像提供:コバヤシ画廊

新旧作品を混ぜて作品構成しました。当時、ウクライナ侵攻が始まり、その時はそれがピークだと思っていましたが……。
あまりに酷いニュースばかり聞いて疲れてしまってみんな大変だけど、そのクタクタな心と体を地下のコバヤシ画廊を水底とみたてて、そこで一度心を整えてまた戻ろう、という祈りの場所としての展示でした。


2022年《犠牲者はいつも正気》2022

《犠牲者はいつも正気》2022
画像提供:コバヤシ画廊

メインルームの壁の裏側にあったのがこの《犠牲者はいつも正気》。
人を殺すのは正気ではいられないはずで、それは自分の魂を殺すことになります。ウクライナはもちろんのこと、このあとロシアの人々や美しいロシアもどうなるんだろうという思いで作りました。WARはwe are right 、自分たちだけが正しいと心を閉ざすからこうなってしまう。この作品も《悲しみの繭》のようにまたあらためてインスタレーションを組んでいつかどこかで展示してみたいと思ってます。



2023年 個展「花留姫縁起」

コバヤシ画廊

花留姫縁起インスタレーションビュー
画像提供:コバヤシ画廊
花留姫縁起インスタレーションビュー
画像提供:コバヤシ画廊
《NORIKO》1986

包み隠さず「STOP THE WAR」と言いたいために作りました。私は活動家ではありません。普通に暮らしていて当然感じることをきちんと言っているだけです。
大切なものを守るために戦っているうちに殺戮の怪物となった兎姫と、とにかくやめようという花留姫。もし私が自分の子供を殺されたら相手を殺したくなるだろうけど……人としてそのような怒りを繋げるのは……理屈ではなく、瞬発的に怒りに支配されるのもどうなのかという思いで。

中央のドレス《NORIKO》は過去にスパイラルの三人展へ出したもの。他の男性作家がドレスの後ろにバリケード風な作品を設置しホール中央にドレスを置く予定になっていたのに、ドレスを設置した翌日の展覧会初日に見に行ったら徹夜でバリケードを作品周辺に張られてしまいドレスが全く見えなくなっていました。バリケードを壊せば他人の作品を破壊することになるし、あんなに苦労して作ったドレスが……そのときはどうしていいか分からず結局私には何もできませんでした。そして40年近くたったあとに、それなら今この作品を再び出そうと。戦い合うのはどうなの、瞬発的に怒ることはどうなんだという数十年掛けた私の問い掛けです。
この作品は壁から自立した記念碑的なドレス作品。全ての立ち上がる女の子たちのために、その頃まだ小さかった姪の名前をタイトルに付けました。『NORIKO』。



2023年 個展「誰もみな神さま」

ひいなアクションgallery(金沢)

誰もみな神さま インスタレーションビュー
撮影:東間嶺 Ray Thoma
誰もみな神さま インスタレーションビュー
撮影:東間嶺 Ray Thoma
《パンドラの箱の中で》2002 東京都現代美術館蔵
撮影:東間嶺 Ray Thoma
《悲しみの繭》2021―2024
撮影:東間嶺 Ray Thoma
ひいなアクションgalleryを外から見る
撮影:東間嶺 Ray Thoma

地元から離れてもう久しく、両親も金沢を引き払ってきてるし。でもまだ私はやってるぞ、みたいな気持ちもありました。
この展示は能登半島地震が起きる前の年。《悲しみの繭》も出しました。非情な弾圧のことをその都度思い出して欲しいと思って。今現在の都現美の展示でも出しています。
この作品を置くことで、何処であってもそこが追悼と祈りの場所になって欲しい。



2024年 《龍姫の水ノ卵》

「龍姫の水ノ珠」コバヤシ画廊

《龍姫の水ノ卵》2024
《龍姫の水ノ卵》を展示した「龍姫の水ノ珠」インスタレーションビュー
《龍姫の水ノ卵》2024 一部

宮野かおりさんという若い作家とある時に話していたことがきっかけになってできたテーマです。女性の作家は出産などで発表が止まりがちになります。そのような大変な時は、誰かが誰かをカバーできるといいなと宮野さんと話していて、これまで私は一人で解決しようとしてきたけれど、妊娠とか介護とか人生の大変な時期には、美術発表の上でも誰かが休んでも他で頑張るというみんなでひとつの生命体のような感じになればいいなぁ、と。龍姫はそれを具現化した姫です。「あたしに任せとき!」という感じ。一人一人の「点」でなく数人という「面」で考えれば、それは強度な壁となって世界を押せるのではないか、という夢のような話をしていました。その数ヶ月後に彼女の妊娠を聞き、これを作ったのです。宮野頑張れ!みたいな作品。もちろん私自身や多くの女性たちに向けたエールでもあります。
そんなシスターフッド的なグループ展を私も12月に企画しています。



2024年《Armour Queen》

「GIRL’S TALK」 新宿眼科画廊

 GIRL’S TALK インスタレーションビュー
《Armor Queen》2024 一部
《Armor Queen》2024
GIRL’S TALK インスタレーションビュー

新宿眼科画廊で出産直前の宮野かおりが個展とゲストグループ展をしていて、そのグループ展へ出しました。女の子について考える内容の展示で当然私が最年長。そんな展示でも私は絶対負けないというつもりで参加、宮野作品を以前購入していたので、その返歌として戦う鎧の王女のドレスを作りました。
私ぐらいの年齢とキャリアだと、もはや数年に一度、美術館で個展をさせていただくという感じになるのだろうけど、そんなのよりも今はまだいろんな年代の人と、負けないぞという気持ちで対バンでやってたほうが、時代を肌で感じられるし面白いでしょ。

展示をもはや毎月のようにやっていますね。やりすぎとか出し過ぎとか思われてるだろうけど、作れなかった時期があるから。
出さないと作品がたたないし、お呼びが無くても、病めるときも健やかなるときも。むしろ病めるときがネタになる。転んだ時に掴んだ石とか草とかこそがまさしく自分のもの。ふわふわ浮いてる夢や野望なんて掴むことができないものでなく、いま手にしているものこそが、自分の本当の持ち物ですもん。


左:藤井亜紀(東京都現代美術館学芸員)、右:前本彰子




MOTコレクション
竹林之七妍
 
特集展示 野村和弘 Eye to Eye—見ること
東京都現代美術館
2024年8月3日(土)- 11月10日(日)
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mot-collection-240803/


MOTコレクション「竹林之七妍」 前本彰子コーナー インスタレーションビュー

手前:《深海のアネモネ(Sea anemone)ーEAT UP THE HEAVEN!》1992
東京都現代美術館蔵
撮影:東間嶺 Ray Thoma
撮影:東間嶺 Ray Thoma
《パンドラの箱の中で》2002
東京都現代美術館蔵
撮影:東間嶺 Ray Thoma
《私の子どもは私が守る》1998
撮影:東間嶺 Ray Thoma
中央:《悲しみの繭》2021―2024
撮影:東間嶺 Ray Thoma
撮影:東間嶺 Ray Thoma
撮影:東間嶺 Ray Thoma




日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション
東京都現代美術館
2024年8月3日(土)- 11月10日(日)
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/TRC/


日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション インスタレーションビュー

撮影:東間嶺 Ray Thoma
《BLOODY BRIDE II》1984 
高橋龍太郎コレクション
撮影:東間嶺 Ray Thoma


見出し

イラスト:松村早希子



特に表記のない画像はみそにこみおでん撮影

レビューとレポート




参考