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新潟県立近代美術館2023年度第1期コレクション展「没後50年 横山操展」レビュー 志田康宏

横山操(1920-1973)は、新潟県西蒲原郡吉田村(現・燕市)生まれの日本画家である。代表作とされる《塔》(1957年、東京国立近代美術館蔵)に表れているように、1950年代当時流行していた前衛書道やアクション・ペインティングに通じる荒々しい線を用いる日本画家という評価が定番であり、力強い筆線をダイナミックに用いる画家として認識されていると言えよう。新潟県立近代美術館常設展示室にて2023年4月~6月に開催された「没後50年 横山操展」は、そのような評価を踏襲し力強い線の特徴を踏まえつつも、金銀箔を用いた軽やかな実験的描法や、イメージとは異なる意外な画業に注目するよう誘導する巧みな展示構成がなされ、操のあまり注目されてこなかった一面にも光を当てんとするテクニカルな展示であった。


展示室1「第2章 再出発―青龍社での活躍と脱退」展示風景。右が《新山》。


横山操は、若い頃に画家を目指して上京、洋画と日本画を学んだのち、20歳で川端龍子の主宰する青龍社に参加するも、同年に徴兵されてしまう。終戦後にはソビエト連邦のカザフ共和国(現在のカザフスタン共和国)に抑留され、4年半にわたり石炭採掘の工員(鉱夫)として強制労働を経験した。帰国し画業を再開したのは1950年、30歳になってからであった。

操の特徴である力強く荒々しい筆致の作風は、1950年代後半、30代後半の桜島や昭和新山の噴火する姿を捉えた作品が始まりと言える。

《炎々桜島》は、旅先で遭遇した桜島の噴火に取材した作品である。幅454cmの大画面の作品で、第28回青龍展で最高の青龍賞を受賞している。黒々とした墨とダイナミックな筆さばきで、火山の圧倒的なエネルギーを描き出した大作である。《新山》は北海道・洞爺湖畔で1944年から火山活動が続く昭和新山を描き出した作品。山全体を写すのではなく、真っ黒な山塊と猛々しく煙り立つ噴煙をパノラマ写真のように切り取ることで、火山の荒々しさをよりいっそう強調した描き方になっている。

このような荒々しい作風は、42歳で描いた《十勝岳》を最後に控えめになっていく。《十勝岳》は青龍展に出品しようとしたところ、川端龍子の作品よりも画面が大きかったことで会員たちから龍子より小さくするように注意され、結局青龍会を退会するに至ったきっかけとなった作品である。青龍社では、川端龍子の標榜する「会場芸術」を旗印に、とにかくやたらに画面を大きくする風潮があり、操もその作風で龍子にも評価されていたが、時代の変化とともにその理念の意義は薄らぎ、また会の人間関係などにも以前から違和感を覚えていた操は、「ほとんど直覚的に、或いは本能的に脱出してしまっていた」[1]という。《十勝岳》の出品に対する社人の反応に反発し青龍社を脱退した操はその後、大きく作風を変えることになる。


展示室2「第3章 無所属時代―自らの原点を見つめて」展示風景。
左が《雪峡》、右が《雪しまく》。


青龍社脱退後の操の作風は、1950年代後半から部分的に用いていた金銀箔を画面全体に敷き詰め、大胆でありながら繊細さも持ち合わせた画面構成が特徴であるといえよう。吹き荒れる吹雪を描いた《雪しまく》や《雪峡》では、銀箔や銀泥が画面全体を覆う吹雪の表現に用いられている。一方で《秋》では画面全体を覆いつくす金箔により、畑一面に実った麦穂をスペクタクルに描き出している。ダイナミックな筆さばきの濃い黒色が印象的であった従来の作風に慣れた目には、画面全体を覆う金銀の作品の出現はとてもインパクトのある変化として受け取られる。大胆な画面構成力は相変わらず発揮しつつも、吹雪や麦穂を描き出す繊細な手仕事からは、画業が新しいフェーズに入ったことも感じられる。


展示室2第3章展示風景。右が《秋》。


画面を覆うかのように全面に金銀箔を使う作品もある一方で、一見裏方に徹して目立たないものの、よく見ると効果的に金銀箔を利用している作例もある。

展示室2第3章展示風景。右が《高速四号線》。


1964年の東京五輪開催に向けて景観を変貌させていく東京の光景を捉えた《高速四号線》の地に用いられた銀箔は、伝統的な銀箔貼りの画面とは異なり、垂直・水平のグリッドに必ずしも依存しない。画面中央にそびえたつクレーン部分の背景には、クレーンの斜線に沿って斜めに銀箔が貼られている。このことは、銀箔をただのプレーンな背景としてではなく、モチーフを引き立てるための補助線のように用いていることを物語っている。対照的に、画面中央に真っすぐにそびえたつ東京タワーを捉えた《TOKYO》では、タワーの垂直線に合わせて縦横にきっちりと銀箔の背景が用いられている。こちらは一見、伝統的な銀箔貼りの屏風絵の地のようにも見えるが、《高速四号線》の銀箔の使い方を鑑みれば、東京タワーの垂直線をいっそう強調するために銀箔をグリッド状に貼っているという操の狙いが読み取られる。

このように見てくると、操は画業の中で特徴的な黒(墨ではなく安価な黒の顔料や風呂屋の煤が使われていたとされる)だけでなく、金や銀もその使い方をさまざまに変化させ多用していっていることが読み取られる。金ははじめ噴火する火山の山肌の一部に、後には麦畑の輝く麦穂の表現に用いられた。一方で銀は雪や川面などの描出に用いられることで、大気や光の表現に用いられている。言うなれば、脈動する山塊やたわわに実る麦を描く際に用いられた金は「エネルギー」や「生命」を表し、雪や川を描くのに用いられた銀は「光」や「空気」を表していると言えるのではないか。そして銀についてはさらに、モチーフを浮き上がらせるためのいわば強調線にも用いられるようになった。

本展においては、操が金銀を効果的に用いたことを観客に示すかのように、1959年に描かれた2枚目の《炎々桜島》へのライティングが秀逸であった。右後方上方から強めの照明が当てられることによって、観客が本作と正面に相対したとき、山肌に用いられた金箔や、たなびく雲を描き出すために用いられた銀箔がギラギラと光り輝くように見えていた。金銀箔が特徴的に用いられた作品であるからこそ、その特長を活かすように工夫された展示方法が見事であった。


《炎々桜島》(1959年)展示風景


晩年の操は、幼いころに故郷の新潟で見た風景や水墨画の伝統的表現に関心を抱くようになり、雪景色などを水墨画で描くようになった。またかつては「実生活から遊離した富士山なんかに興味はない」[2]と豪語していたものの、後年には「赤富士」の連作に取り組むなど、日本画の装飾的表現への関心も示した。徴兵や強制労働というハンディキャップを背負いながらもエネルギーに満ちた画業を展開した操であったが、脳卒中で倒れて右半身不随となり、1973年に53歳の若さで急逝した。


本展はこのように、横山操という力強い線の画家としてだけではない部分にも光を当て、画業の変遷や特徴をひとつひとつ納得しながら知っていくことができる見事な構成の展覧会であった。


第3室「別章 『中央公論』表紙絵と屏風絵」展示風景


本展で特に象徴的であったのは、操が1966年から2年間務めた雑誌『中央公論』の表紙絵の原画のシリーズをまとめて紹介していたことにある。このシリーズは、油絵のような絵具の厚塗りにより、強い立体感や濃密な色彩の画面が強い印象を与える作品群となっている。雑誌表紙に用いるための小画面であることもあり、緻密で繊細なその作風からは、線をダイナミックに用いた青龍社の頃の大画面の作品や、金銀箔を巧みに用いた後期の水墨画や富士の絵が印象的な画業のイメージとも大きく異なり、まるで別人であるかのような作風にも感じられる。操は駆け出しの頃にポスターの仕事に携わり、復員後はネオン会社でデザインの仕事をしたという経験から本シリーズに独特のデザイン感覚が発揮されていると説明がなされるが、あまり知られていないこのような表紙絵の仕事を、実物を以て説明する説得力を持った展示となっていた。


今回の新潟県立近代美術館での横山操展は、自分のこだわりを貫きつつも、その時々の状況に応じて画業を変化させていき、かつては否定していたものにも挑んでいく作家の変化をわかりやすく教えてくれる良質な展示であった。そしてその心情的変化を観者に納得させるため、照明や解説など展覧会としてのテクニックにも工夫を凝らしながら、説得力のある構成がなされた優れた展覧会であった。


横山操展担当学芸員:長嶋圭哉(新潟県立近代美術館)
画像:筆者撮影



[1] 横山操「悪人たらんとし」『藝術新潮』13巻10号、1962年10月、p.59
[2] 「新しい日本画」『新潟日報』1959年6月13日


新潟県立近代美術館2023年度第1期コレクション展
没後50年 横山操展
会期:2023年04月11日(火) ~ 2023年06月18日(日)(終了)
会場:新潟県立近代美術館
https://kinbi.pref.niigata.lg.jp/tenran/collection-ten/collection-2023-1-2/




志田康宏(栃木県立美術館学芸員)
1986年生まれ。栃木県立美術館学芸員。専門は日本近現代美術史。主な企画展覧会に「展示室展」(KOGANEI ART SPOT シャトー2F、2014)、「額装の日本画」、「まなざしの洋画史 近代ヨーロッパから現代日本まで 茨城県近代美術館・栃木県立美術館所蔵品による」、「菊川京三の仕事―『國華』に綴られた日本美術史」(栃木県立美術館)など。


レビューとレポート第49号