「地べた」
今日のキーワード「地べた」
今思い返せば、違和感はあった。
もやもやと、ふわふわと、形のない違和感。
起き抜けにそれを感じた僕は
「なんか変だな」
と、口にしてみた。
しかしその正体はわからないままだった。
もそもそと布団にくるまりながら、わきに置いてある目覚まし時計に目を移す。
そして、天を仰いだ。
「あー、やばうぃ」
遅刻しかけていた。
わかりやすく、的確に、遅刻しかけていた。
慌てて学生服を羽織りながらリビングに出る僕。
すると、先ほどの違和感がふたたび香ってきた。
「おはよう。テストの時間は大丈夫なの?」
母が地面に這いながら掃除機をかけていた。
「…ナメクジ」
僕は思いつくままに発音してみた。
それ以外に言いようはなかったと思う。
「遅刻なんてしたらなぁ、大変だからな」
その声に振り返ると、
父がカーペットに寝転がりながらコーヒーをすすっている。
かなりの量をこぼしながら。
「…ナマケモノ」
そうとしか見えなかった。
うん。
しかし、その時の僕は両親の異変について
深く考えることができなかった。
朝寝坊のせいで開始時間に遅刻しかけていたし、
何より、今日という1日に人生史上最大のプレッシャーを感じていた。
その結果、いつもより低い両親をそのままに
僕は家を飛び出した。
この時にもっと深く考察していれば
大事にはならなかったかもしれない。
しかし、そんな余裕はなかった。
そう、今日はセンター試験。
ティーンエイジャーたちのコッロセウム。
僕は英語が得意なのでこのような言い回しを好んで使う。
自分自身の成功を勝ち取るために、
僕は玄関のドアノブを回したんだ。
ガチャっとね。
しかし、外に出るとすぐに異変に気がついた。
「…低い」
文字通り色々なものが低くなっていた。
建物にはじまり、樹木や標識まで。
いつもの通学路で僕よりも背の高い物は無くなっていた。
振り帰ってみると、さっきまでいたはずの自宅も
胸元ほどのサイズしかなかった。
しかし、時刻は刻々と進んでいく。
僕は違和感を抱きながら道を歩き始めた。
すごく不思議な感覚だった。
自分よりも高いものがない世界。
本来であれば怖がるべき状況の中で、僕は興奮を覚えていった。
まるで巨人のようだった。
なんでもできるような気がした。
道ゆく人たちは全員地べたを泳ぐように進んでいた。
僕の両親と同じように。
それは見ようによってはとても滑稽で、僕は鮭の川昇りを思い出した。
気まぐれに、足元にいたスーツ姿の男性を踏んづけてみた。
ほんの気まぐれに。
「…やめてくださいよぉ、坊ちゃん…」
「やめないよ」
「私なんてあなた様に比べれば下も下、地面すれすれの人間なんです…」
「そうかもね」
「もっと有意義なことに時間を使ってくださいよぉ。お金あげますから。お金あげますから。お金、あげますから」
大人がこんなにお願いしているところを初めてみた。
なんだか、すごく、笑えた。
僕は彼の望み通り、「人を踏みつける」という特殊な行為を中断した。
足を離すと、彼はまた地べたを泳ぎ始めた。
群れから遅れをとった子鮭のように。
興奮はなかなか冷めなかった。
上に立つ人間とはこうなんだろうと思い、気分が大きくなった。
僕はどんどんと歩いていく。
もう怖いものなんて何もない。
全能感に従って、自分の欲望に従って。
センター試験の会場はもうすぐそこだ。
できる、できないはずがない。
僕が解けなきゃ誰が解く。
そんな強い気持ちで僕は会場に到着したんだ。
その瞬間、空から何か声のようなものが聞こえてきた。
「それまで。筆記用具を置き、回答用紙を前に回してください」
目が、覚めた。
腕が自分の体重で圧迫され、しびれている。
頭もぼーっとしている。
事態の把握には少し時間がかかった。
机のわきに置いてあった腕時計に目を移す。
終了時刻ぴったりに重なる針。
目線をゆっくりと、机の中央に戻す。
白紙の答案。
そっか。
やっちゃったか。
あの光景は、夢だったのか。
1番高くありたいという受験生の無意識を投影した夢。
敵は自分自身ってか。
やかましいわ。
もうぐちゃぐちゃっす。
「答案用紙を提出してください」
わかってる、出しますから。
僕は殴りつけるように1問目の空欄にこう書いた。
`来年、やったる`
完