_田んぼ_

「田んぼ」


今日のキーワード「田んぼ」



ばあちゃんが死んだ。
秋の虫が表に出て来て、そろそろ羽音を立て始める頃だった。
ひっそりと誰にも気付かれず、生命力を放出し尽くして、ばあちゃんは向こう側にいってしまった。



その些細な変化に気づいていたのは、家の中でも中学生のワシだけだったかもしれない。
ワシは昔から大きな変化には疎いけど、物事の細かな移り変わりには敏感だったから。



例えば、同級生とたわいもない雑談に興じている時。
誰かが股間をモミモミとさすり出す。これは膀胱がパンパンになってしまいトイレを我慢しているサインだ。ざっと92%の確率でそうなのだ。
うっすらと額に汗をかいていた場合、その確率は100パーセントに跳ね上がる。



そんな仕草を見つけた時、ワシはその友達をトイレに誘う。
なるべく笑顔で、大きな声で。これが肝だ。



そんなアシストのせいか、ワシはみんなから「連れション野郎Mk-2」と呼ばれていた。
どこかにMk-1がいるのだろうか。中学生のあだ名の付け方は適当だ。



世の中には適当なものが多い・・・。
中学生のワシにもわかるくらいなんだから、多くの人が気づいてるんだろう。



あぶねぇ
そんな話じゃない。
ばあちゃんの喪に服したいんだ、こちとら。
哲学者になりたいわけじゃあないんだ。
ごめん、ばあちゃん。



ばあちゃんとのことを思い出すと心に爽やかな秋風が吹く。
ばあちゃんは仕事で忙しい父ちゃん母ちゃんに代わってワシに時間を割いてくれた。
世間一般の孫を可愛がるおばあちゃんとは違い、一度たりともお小遣いとして`お金`をくれたことはない。だけど、その代わりにこの世の理(ことわり)とも言える`金言`の数々を僕に与えてくれた。
それが何よりも嬉しかった。



ワシはその言葉を覚えてる限りノートに綴るようにしていた。今目の前に広げたコクヨーのノートは、ばあちゃんの言葉で溢れている。その1行1行を指でなぞりながら声に出してみる。



「困った時には地面を見てみるといい。そこには色々な生き物がいる。一度寝そべって彼らの視点で世界を見てごらん。 どの生き物も人間よりしっかりと地面を踏みしめて歩いているよ。下を向くことで学ぶこともあるんだよ」 ばあちゃん


ばあちゃんは意図的に下を向いて歩くような人だったな。


「お米は麻薬だよ、食べれば200歳まで人を生かす麻薬」 ばあちゃん


ばあちゃん86歳で死んじゃってるじゃん。


「寝れば寝るほど、私は強くなる」 ばあちゃん


これは面白い。よくわかんないけど。



はぁ。
今読んでも響くものがある。
後半は語気の強いものが多くなった。
ばあちゃんは最後までワシに何か伝えようと命を削っていたんだと思う。



ノートの最後のページに目を移す。
そこにはばあちゃんの最後の言葉が記されている。
正真正銘、ばあちゃんの遺言だ。



「私に会いたくなったら、村はずれの田んぼにいきな。秋風の強い日を選ぶんだよ。私は必ずそこにいるから」



ばあちゃんの遺言。最後の金言。
聞いた時には半信半疑だったけど、今ではどうなんだろう、少しこの言葉にすがろうとしてるワシがいる。



本当に会えるんだとしたら、ワシはもう一度ばあちゃんに会いたい。
「何をしょげとるかね、その下の向き方はいかんよ」って叱りつけてほしい。
寝てばっかりいて学校をサボるようになったワシをどうにかしてほしい。



外では秋風が村中を吹いて回っている。
こんな日なら会えるんだろうか。
そんなことを考えながら、ワシの足はすでに玄関の敷居をまたいでいる。



外には未だ変態的な夏の暑さが残っていた。
今年は特に暑かったからしょうがない。
こんなことなら学ランを脱いでくればよかった。
いや、ワシは学校をサボっているのになぜ律儀に学ランを着ているんだろうか。そうか、ワシ、ばあちゃんが死んだ日に、勢いでパジャマ以外全部捨てたんだった。
何してるんだ、あの日のワシは。信じられない。
進んで苦学生みたいなことするもんじゃないよ。



嘆きながら汗を拭う。
こんな日に出歩くような人は少なく、村はいつもよりも閑散としている。
聞こえてくる音といえば風がトタンをなぞる際のカラカラと乾いた音だけ。



暑くて風が吹いているなんて最悪の気候だ。
組み合わせとしては「淫乱の猿」くらいの嫌さ加減だ。



淫乱の猿・・どこに行けば会えるんだろう。



・・普通に考えて動物園か。
でも、精力のつく餌を定期的に猿に食べさせているような動物園じゃないとダメなわけで。
卵とかささみとかうなぎとか、それらを猿に食べさせてる動物園はもう変態動物園なわけで。
そんな動物園は聞いたことないわけで。
こんな考え自体が中学生特有の論理の袋小路なわけで。
あぁ、ワシは何をやってるんだろう。
ばあちゃん助けてくれ。



ワシは木の枝を左手に持ち、その先を側溝(そっこう)にこすらせながらトボトボ歩く。
フラフラと田んぼを目指しながら。



ばあちゃんの言ってた村はずれの田んぼとは、うちに代々伝わる自前のものだ。すごく小さい。ヘクタールでいうとどのくらいなんだろう、恐らく2ヘクタールくらいだと思う。ギリギリ相撲を取れるかどうかのサイズ感だ。当然なんの作物も実っていない。



でもばあちゃんにとっては特別な場所らしい。
ワシはその田んぼの話を度々聞かされた。
昔はもっと広大な農地の中の1区画だったこと、ばあちゃんの旦那さん、つまり死んだじいちゃんと初めて会ったのがその田んぼの前だったこと、秋になると田んぼの近くに美しい色のカエルが出てくること。



羨ましいよ、ばあちゃん。
ワシにも将来、そんなに熱く語れるような場所ができるんだろうか。
現状では学校のトイレくらいかもしれない。連れション野郎MK-2としては。



そんなことを考えていたら畦道(あぜみち)の方に出て来た。
田んぼはもう目と鼻の先だ。
同時にこの辺りから緑の匂いがきつくなってくる。すごく鼻につく匂い。なんだろう、オナテイッシュに似た、性の匂い。
中学生だから、ワシ。ハレンチなこと言っちまっても勘弁な。



ハレンチなワシとは対照的にこの畦道の雰囲気はなんというか、いつ来ても荘厳な感じがする。
食べ物が実る場所はどこだって神秘的だ。
そして、自分が日頃食べているものの出所を知っていると調子に乗らなくて済む。
この田舎に住んでいてよかったことの一つだ。



横の田んぼに目を移すと収穫前の稲が秋風でグワングワンとしなっている。
少し心配になるくらいしなっていて、パチンコ屋の前に置かれた風船人形みたいになっている。
稲がワシを手招きしているようにも見える。
人間って不思議だ。何でも自分なりの解釈で捉えることができる。



稲に手招きされながら歩いていると一番奥の区画にばあちゃんの田んぼが見えて来た。



あれ、なんだろう。
わしの目の錯覚だろうか。
その田んぼだけがうっすら光って見える。



わしは駆け出した。
すぐに駆け出した。
強くなる緑の匂い。
荒くなる吐息。
学ランに染み込むワシの汗。



足を止めると薄光りした稲がワシを出迎えてくれた。
何だろう、このほのかな明るさは。
LEDで装飾したように光っている。
本当にばあちゃんが来ているのだろうか。



喉がごくりと音を立てた。あんなに強かった風の音が、消えていた。
・・・やばい。おしっこしたくなっちゃった。なんか、ばあちゃんと会えるかもって気の高ぶりから、逆に尿道ゆるんじゃった。ワシは慌てて股間をモミモミとさすり出す、92%。
額にはうっすらと汗がにじみ出て来ている、100%。
あー、ごめん、ばあちゃん、もう我慢できねえ!



ジー
シュッ
・・・ジョボジョボジョボ・・チョロ



畦道に解き放たれたワシの尿がほんの小さな小川を形成した。
こんなに汚い小川は日本にまたとないだろう。湯気もたってるし。
ことを終えて逆に冷静になってしまったワシは、あー、立ちションって久々かもしれないな、悪くないな、なんて考えたりしてた。



すると、目の前の田んぼから小さな生き物が這い出て来た。



・・・カエルだ。その小さな生き物は鮮やかな黄緑色をした雨ガエルだった。
カエルはワシが形成した小便の小川めがけて歩みを進め、ついにはその小川の中で腰を落ち着かせ始めた。この暑さだから水源に飛びついたんだろう。でもごめん、それワシの小便なんだわ・・。先に謝っとくね。何とも申し訳ない顔でカエルを見つめるワシ。すると目の端に新たな影がよぎる。



そう、田んぼから同じ種類のカエルが飛び出して来たのだ。
しかも今度は単体ではない。一匹、二匹、・・ダメだ多いな。とにかくたくさんのカエルがワシの小川をめがけて歩いていく。



何だろう、これ。どっかで見たことある気がするんだ、こういうの。



ウミガメの産卵・・
精子の熾烈な競争・・
ワシはテレビのドキュメンタリーを見ている気分になった。「生命の神秘」ってタイトルがつくはずだ。


すると不思議なことに気づく。すっかりカエルがいなくなった田んぼは元の普通の田んぼに戻っていた。光っていない、くすんだ田んぼ。



・・・そういうことか。
原因はこのカエルだ。この綺麗な色をしたカエルが太陽の光を反射して田んぼが光っているように見えてたんだ。今、光源のカエルたちはワシの小便の中で休んでいる。
だから田んぼは元に戻ったんだ。



ははは。なーんだ、そんなことだったのか。ばあちゃん、秋の時期にこの田んぼが光って見えることを知ってたから、ワシにもその景色を見せたかったから、あんなこと言ったんだね。



いいや、嬉しい。
ちゃんと心がホカホカした。ばあちゃんに会えなくて残念だったけど、ばあちゃんが好きだったこの田んぼ、今日でワシも好きになった。



ワシ決めた。ちゃんとこの田んぼ手入れする。このカエルがずっといてくれるような田んぼを保つよ。うん、学校にもちゃんと行くって。


だからさ、安心していってくれよ。
天国でも田んぼ耕してさ。綺麗なカエル集めてよ。
ワシの顔は晴れ晴れしていた。先ほど家を出た時とは別人のようだと自分でも感じる。

じゃあな、カエルたち。また来るよ。
ワシは学ランを脱いできびすを返し、家路につこうとした。
その時、一層強い秋風が田んぼを吹き抜けていった。
ワシの耳元をビョォっと音を立てて。
その音に紛れて、ばあちゃんの声が聞こえた気がしたんだ。


「あんた、社会の窓が開いてるでな」


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