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特別じゃない世界で特別な日常を

最近、ようやく人生というものが分かってきた。

それは、世の中は楽しいこととか、キラキラしたものとか、夢や希望で溢れているわけではなくて、
平凡で、ある意味で「つらい」と思えるような物事で溢れていること。

1人でなんでも出来るようになると、逆に今までの人生は、周りや他人から「与えられ」「支えられ」ていたんだと気づく。

最低限の生活を保つためには、週の大半で仕事をこなし、部屋の掃除をしたり、買い出しをしたり、誰かと当たり障りのない会話をしたり。
毎日、多くのタスクをこなさないと、日々は維持できない。

私は成人年齢を過ぎた頃でも、まだ見ぬ「夢の世界」のようなものに憧れていた。
私には使命があって、何か特別なものがあって、この日々の先に、明るい何かがあることを。
いつか、恵まれる日が来ると、目の前の現実をある意味斜めから見て、「自分はこうじゃない」と、何かに酔っていた。

でも、違った。私には与えられた使命など無いし、何か特別なものがある訳でもない、社会の中の、他の人間と同じような、「只の」生き物であった。

一方で、それに気づいたことで、別のことも分かった。
周りの大人は、こういう世界の中で、大人たちなりに、私の周りを「幸せ」や「恵まれた」状況に整えてくれていたこと。
毎日ご飯が出てきて、風呂を沸かしてくれて、学校も最後まで通わせてくれていた。
独り立ちして分かる。これは簡単に出来ることじゃないし、「愛」がないとできない。

私は「空想の未来」を見ていたばかりに、足元にある幸せを、愛を、受け取ることが出来ていなかったのだ。


フィルターを外した私は、ただの平凡な生き物でしかなかった。
けれど、私の世界の中では、「特別」になることができる。
自分の食べたいものを買い、会いたい人と会い、毎日布団から出て、仕事に向かう。

自分の好きな色も、服も、食べ物も、一番理解しているのは私だ。
自分が、されて嫌なことを一番知っていて、それを回避させてあげられるように行動できるのも、私しかいない。
自分が、過去に負った傷を一番知っていて、一番傷ついて、でも今でも前を向けるように、がんばっているのも私だ。

私はずっと、パトロンを探していた。
自分のことを、「特別」にしてくれる誰かを。
その中で、親は私のことを「特別」にしてくれた。
これが家族なのかもしれない。
でも、社会でも「特別」にしてもらいたかった。
だから、性格の良くない「大人」たちに、利用されることもあった。
その特別は、「私の」特別では無かった。だから居心地が悪かった。

自分の人生を「特別」に出来るのは、「私」しかいなかった。

これに気づくのに、だいぶ時間がかかった。
それもまた、「私」であり、「自分」なのだろう。

毎日何かを食べて、仕事に向かい、日々を維持する。
こんな毎日が、今後もずっと続くのであろう。
この毎日は、全然「特別」に思えなくて、つまらないほどに平凡である。
でもこの平凡が、私にとっては、特別なのだ。


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