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ひとのかたち(我の拡張)

人に形は無い。というより、万物に形はない。そもそもモノがある···という概念すら怪しい。どんなに頑丈に作られたモノでも必ず破壊され、分解されていく。モノとは、化学反応、あるいは物理的反応など、様々な力により、一時的に現れた状態をモノという。

モノという概念は現象だ。現象のうち、触った時に比較的反発を伴う力を持つ現象を我々はモノとして形容している。水は我々が感じる反発力が弱いので、モノとは認識はされないが、ペットボトルに入ればモノとして認識される。モノとは、我々が勝手に妄想する概念に過ぎない。

人間もまた、現象である。肉体人類を例にとっても、母親と父親の生殖細胞が交わり発生し、様々な物質を取り入れて成長し、少しずつ劣化して老化し、やがては炎や微生物の力により分解される。そもそも死亡した時点で人間は人間ではなくなる。それは、人間が現象だと認知されている証左でもある。人間の生は、神経細胞を走る脈動。人間とは、生きるという現象である。

人間とは生きる事だ。これに形などは関係ない。そもそも形とは何だろうか。容姿だろうか。いや、容姿だけではない。地位、身分、金の有り無し、価値観、思想、性格、その他すべて、他人から認識されるものが形である。肉体人類の苦しい所は、この形が他人によって決めつけられる所にある。

人に形はない。人の本質とは感じて、表現する現象である。人から見られる社会的地位を見ても、これは自分の思い通りにならないから本質ではない。また、肉体も、やはり老いて朽ちていき、そもそも思い通りの形にはできないから本質ではない。我々の内面、精神や思考、行動ですらも自分の思い通りにはならないから本質ではない。そもそも精神や思考が自分であれば鬱病にはならない。しかし、我が、見て、感じて、考えて、行動したい。自分が何かをやりたいと思うのは、我が認識を認識する以上、我である。

肉体を捨てる行為とは即ち、我の本質を拡張する行為である。本質とは自らの意思の及ぶ範囲であり、物理的な肉体は意思が及ばないので、本質とは言い難い。しかしバーチャルな外見であれば、これは我の意思の及ぶ範囲であるので、我の範囲内であると言えるだろう。また精神においても、意識を完全に機械の上に移し替えた場合、やはり不純な思考が混じり、ともすればうつ病にもなりうる精神を、完全に自らの意思の支配下に置くことが出来るので、これを我とする事も出来る。外見だけでなく、性別、社会的地位、その他一切の我に関する情報は書き換える事が出来るので、我の範囲は限りなく拡張することが出来る。

人は、我の概念を自由に変えたいと思う生物である。バーチャルな空間で自らの望む姿を手に入れたいと思う我々のような人間だけでなく、化粧をする人間、フィルターで自撮りを盛る人間、服を着こなす人間、SNSで過度に自分を装飾をする人間、自慢話をする人間、皆、我の概念を自由に変えたいと思っている。我々は多大なコストをかけて、他を支配し、我を実現している。人が金を欲するのは、我の概念を変革しうる社会的に最も使いやすい道具が金だからであり、金に頼らずに我を実現するためにはやはり肉体を捨てる事が重要である。

万物は現象である。人にも形は無い。しかし、我々人類は、奇跡的にも肉体を捨てるという方法を手に入れつつある。万物は現象であるので恐れることは無い。我は服と同じく着替えられる。自分の望む自分を手に入れ、他者の望む他者を受け入れれば、人類は互いに決めつけ合うことをやめ、融和する事ができるだろう。

ストラテ・ランチャ!

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