白が散る
僕はアパートを出て、駅まで歩いている。
刺々しく澄み切った空気が皮膚を刺す。
世界から空が消え、すべての境界線が曖昧になっている。
白いふわふわとした結晶たちが、雑然と降りながら、あたりの草木や地面を整然と染めてゆく。
それらは大気をおしわけるように空から落ちてきて、風が吹くと頬を濡らし、目の前を滲ませる。
歩く度に「ギュ、ギュ」という音が地面から耳まで届く。
駅に着き、改札を通る。
プラットフォームにはまだ誰もいない。
静かだな、と思った。
線路は真っ白に染まっていて、細く長く伸びているレールの線だけがくっきりと浮かび上がっている。
跨線橋の階段を上り、向かいのホームまで行こうとした時、僕はくるみを見た。
歩くのを止める。
くるみは跨線橋の窓から遠くを見つめている。
懐かしい顔だった。
少ししたら彼女は歩き出す。
視界から消える。
頭の中で言葉が浮かんだが、すぐに溶けた。
声をかけられなかった。
僕は階段を降りながら、マフラーを鼻のところまで上げ、ニット帽を深く被った。
彼女は20メートルほど先にいる。ヘッドホンをつけたまま、視点はずっと固定されたままだ。
やがて静寂を切り裂くように向こうのほうから電車がやってきた。
目の前に電車が止まると世界は完全に断絶され、僕たちは永遠の中に閉じ込められていった。
「夜桜、綺麗だね」
隣で彼女が言った。
真っ暗闇の中、人々は友達や恋人やあるいは家族と和やかに道を歩き、屋台で買ったであろう特段美味くもない何かを満足そうに頬張り、美しい背景に目も暮れないほどに談笑を楽しんでいた。
横目で彼らの様子を一瞥し、その後、電灯に照らされて白く光る桜たちを視界に入れながら、僕たちは遊歩道を無言で歩き続けた。
川面に映る桜と提灯の虚像は、不思議と現実よりも艶やかで美しかった。
よく覗き込んでみると、静かに波紋が広がる瞬間があり、そこにも一つの別世界が広がっているのだと思った。
先ほどまでの喧騒がゆるやかに消えていき、人々の熱を夜気が溶かし、静寂が深まった頃、僕は隣にいる彼女に胸のうちを語った。
彼女の白い頬がほんの少しだけ桃色に変わったような気がした。
あるいは先ほど見ていた桜の記憶と彼女の顔がちょうど重なったのかもしれない。
「ねえ、知ってる?桜を使って染色した着物があるの」
と彼女は陽気な声で言った。
「知らない」
完全に話を逸らされたなと思った。
僕は落胆し、絶望した。
これは彼女なりの雰囲気を壊さないようにするための配慮なのだろう。
それにしてもなぜその話題なのだろうと思った。
「私のお家がね、染色家なの」
「染色家?」
「そう。着物、今度見に来ない?すごく綺麗だよ」
次の週に僕は彼女の実家に招いてもらった。
森を背にして佇むその家は、長い歴史を感じさせる重厚さを持ち、あたりの風景とは独立しながらも、妙な調和を感じさせる不思議な外観だった。
隣には大きな栃の木があり、地面に広く樹影を落としていた。
少しすると彼女のおばあちゃんが出てきた。
その時、空気が変わった気がした。
品があるのに温かい、凛としているのに柔らかい、理知的なのに情熱がある。
思わずそんな印象を抱く。
底知れぬ奥行きと幅の広さを感じる。
一人の人間の中に共存させることが困難な要素を、そのおばあちゃんはいくつも抱えているのだろうと思わせるような何かがあった。
おばあちゃんは顔のシワをくしゃっとさせて、
「くるみからよく話を聞いています」
と言った。
彼女が僕のことを家族に話していることをそこで初めて知った。
その後おばあちゃんは僕を仕事場に案内してくれて、そこで着物を何着か見せてくれた。
僕はその美しい迫力に目を奪われた。
まるで辺りが一瞬にして静まるような、息を呑むほどの美しさだった。
今まで見てきたものと次元が違うほどの精彩を放つその着物は、ピンクと形容するのが勿体無いほどの、重層的な色彩を持っていた。
それは、淡いようでいて、燃えるような力強さも内に秘め、華やかなのに落ち着いた深い色だった。
少しの沈黙の後、僕は聞いてみた。
「この色ってどうやって作るのですか?」
「桜からですよ」
おばあちゃんが目をニコッとさせる。
「それは桜の花びらですか?」
「いいえ、これはね、桜の皮から取り出した色なんです」
「はあ、桜の皮なんですか」
てっきり桜の花びらを煮詰めて色を取り出したのだと思っていたが、そうではなかった。
おばあちゃん曰く、あの黒っぽいゴツゴツした桜の皮からこの美しいピンク色が取れるのだという。
「桜というのは、花びらだけではなく、木全体で最上のピンクになろうとしているのですよ」
おばあちゃんの声が弾んでいる。興味を持ってもらえることが嬉しいのだろう。
それにしても驚いた。
花見の時、僕は桜の花びらにしか目がいかなかったが、今度は桜全体を見てみたいなと思った。
家を出た後、僕らは近所の桜の見える公園へ行き、そこのベンチに座って二人で桜を見た。
砂場で何人かの子供たちが楽しそうに遊んでいて、明るい声を響かせていた。
「今日の話は知っていた話?」
と僕は彼女に聞いた。
「うん。前から教えてもらってた。着物の話をするときのおばあちゃん、生き生きしていて好きなんだ」
長い睫毛が陽の光を受け、まるで廂のように頬に淡く影を落とし、儚さと聡明さを際立たせていた。
桜は暮れていく空を背景に光彩を帯びている。
夕陽が射し、花びらは淡い金色に縁取られ、風が吹くとまるで光が散っていくように見えた。
幹からは太く濃い影が伸びていて、影自体が一つの生命体のように、何かを密やかに主張していた。
彼女は桜の木をぼんやりと眺めていた。
僕も先ほどのおばあちゃんの話を思い出しながら桜を見た。
今まで見ていた桜と何かが違って見えた。でもその何かは分からなかった。
彼女は少ししてから、
「桜の花びらって言葉みたいだね」
と言った。
それはまるで一つの自然現象であるかのように、その表情や声の温度は風景によく馴染んでいた。
「言葉?」
「桜の花びら一枚一枚には木全体が反映されているから」
「なるほど」
「言葉の一つ一つもそうなのかなって」
僕は彼女の言葉を頭の中でなぞり思考を巡らせた。
「確かにそういう見方もあるかもしれない」
「前におばあちゃんが言っていた。“言葉からその人が見える”って。私はそれがよく分からなかった。言葉は人間性から分離しているように感じる。だって言葉だけではなんとでも言えるでしょ」
「うん」
「でもおばあちゃんの話を何度も聞いて、意味が分かった気がする。言葉も桜の花びらも同じ。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚で、人間の全体が、ささやかな一語一語に反映されている」
「そうかもしれない」
と僕は言った。
普段目にしている姿や光景は全体のほんの一部なのに、なぜか僕らはそれを全体だと思い込んでしまうところがある。
「ねえ、私のどんなところが好きなの」
彼女は依然として桜の方を見ていた。
あるいはもっと遠くの風景を見ているのかもしれない。
その試されたような質問について、僕は時間をかけて言葉を探そうとした。
沈黙が少し重みを増してくる。
一粒の汗が頬を伝った。
僕は言葉を内側から手繰り寄せて統合し、彼女に向けて発した。
「僕は君と過ごしている時の時間の流れ方が好きだ。いつも時間の概念が崩れていくように感じる。伸びたり、短くなったり、膨張したり、密度が濃くなったり、色付いたり、毎回違うんだ。そしてその時間の流れ方を僕は美しく思う。今までそんな感覚を覚えたことはなかった。」
自分から出てきた言葉なはずなのに、不思議と自分の言葉には思えなかった。
「ふうん。そうなんだ」
彼女は満足しているのか、それとも何か別のことを考えているのか分からない表情を浮かべていた。
空が完全に濃い青に染まった頃、僕たちは別々の道に歩き出した。
散ってゆく桜の花びらがひらひらと目の前を流れた。
掴み取ろうとしたら風が吹き、どこかへ飛んでいってしまった。
なぜかは分からないが、その時、僕らの関係はもう少ししたら終わるのではないかという予感がした。