自己犠牲が愛なはずはない
愛とは自己犠牲だ。自己犠牲こそが愛だ。
よく目にするフレーズだが、僕はこの考え方に違和感を覚えずにはいられない。
自己犠牲は愛ではない。そんなことがあってはならないのだ。
自己犠牲が愛だと考えている人に聞いてみたい。
もしあなたに愛する人がいたとして、その人があなたのためになんらかの犠牲を払っていたとしたらどう思うだろうか。
嬉しいだろうか。悲しいだろうか。
ちなみに僕は悲しい。
僕のために犠牲を払わせてしまって申し訳ないという気持ちになる。
これを逆転して考えてみる。
あなたが相手のために何かを犠牲にしたとして、相手が悲しまない保証はあるのだろうか。
確かに、自分が何かを犠牲にしたとしても、相手が悲しまないようにする方法はある。
それは、嘘をつくことだ。
自分を偽り、何も犠牲になってない自分を演じ続ける。
それができれば、相手が悲しむことや罪悪感を抱くことはないだろう。
しかし本当にそれでいいのだろうか。
自分に嘘をつき、相手に嘘をつくことが果たして誠実なのだろうか。
僕はそうは思わない。
自分を偽ることは、相手に対して失礼だと思う。
何故ならそれは「自分を偽らなければ相手は自分を受け入れてくれないだろう」という相手への不信感を表す行為だからだ。
ただ、自己犠牲が愛だと考える彼らにも彼らなりの考えがあるのだろう。
一度そちら側に立って考えてみたい。
おそらく自己犠牲を愛だと捉えている人は、自分が犠牲になることで、相手に利益や幸福などが与えられることを想定しているのだと思う。
しかしこれは非常に視野が狭い考え方のように僕は感じる。
ここで考えるべき視点は何か。
それは「なぜ自分が犠牲になることしか選択肢にないのか」である。
僕からしてみれば自己犠牲は身勝手な自己判断にしか思えない。
きっと何も犠牲にならない選択肢もあるのではないか。
そのために対話があり、これまでの経験があり、知性がある。
・それを相手が望んでいるのか?
・他のことで代替できないのか?
・そもそも何かを犠牲する必要があるのか?
少なくともこれくらいのことは考える必要がある。
それでも自分を犠牲にすることを選択しなければならないのであれば仕方がないのかもしれない。
しかし、やはり僕はどうしても自己犠牲が愛だとは思えない。
誰かの犠牲の上に立つ幸せを純粋に喜べる人はいないだろう。
愛とは何も犠牲にせず何も奪わないものなのではないか。
確かに彼らは犠牲によって何かを与えているのかもしれない。
しかし愛というのは人に何かを与えることによって自分も何かを与えられるということだ。
つまり、相手を与える者にする行為こそ愛だと思う。
そんなわけで、僕は自己犠牲を愛と考えないし、愛を自己犠牲だとも考えない。
具体に乏しい抽象的な文章なのにもかかわらず、読んでくれてありがとう。