ちょっとできるようになったと思ってた大人の二回目の一人旅〜ああ松島や松島や編〜あとがき(〜一つの記事にまとめました版に添えて〜)
(本編はこちらから☺︎)
ーあとがきー
旅に出る時、みんながみんな終始うきうきわくわくしながら過ごせているんだろうか。
書いていて、あまり悶々とした気持ちを書くのはどうなのだろうか…と思いつつもその時その時のリアルな感情を書きたくて、というか、無意識のまま書いてるとどうしても絡んでしまうのでそのまま書いた。
人って色んな思いを抱えて旅をするんじゃないだろうか。
そう考えたら、悶々とした気持ちを書くことは、旅のリアルにもなるのかなって。同じ気持ちの人がいたら、あなただけじゃないよって言いたいし、あなただけじゃないよって言ってほしいのかもしれない。
ただ、不思議なんだけど、旅の間は心ここに在らずの時間が多くて、楽しめていないのが悲しくて、旅に集中したいとかなんで自分は…とか考えたりしちゃってたんだけど、
帰ってくると、「振り返ったら楽しかったなあ。」になるのだ。
いやほんと、旅の最中にそう感じたいものなのだが。
帰ってきてから振り返ると、楽しい時間だったなって思うのだ。
結局どこにいこうが、「自分」はついてくる。
いつまでたっても「自分」がついてくる。
自分探しの旅ってよく言うけれど、確かに実際行った先の経験で何か道が開けることもあるかもしれない。
けど、結局どこへ行こうが「自分」からは逃げられない。
「自分」が変わらない限り、何も変わることはないのだ。
行った先での何かが変わるキッカケになることもあるだろう。
けれどそれってもしかしてすごく運がいいことなんじゃないかな。
「旅先で自分を変えるキッカケに出会う」を期待して、それに運命を委ねるのって、危ういんことなんじゃないだろうか。
あるかわからない「何か」を求めて旅するのって、運任せというか、たまたまのラッキーを求めているにすぎないんじゃないだろうか。
そしてこれはきっと旅に限った話じゃない。
「どこへいこうが、自分からは逃げられない」
抱えている問題を解決できるのは、「自分」しかいないのだ。
(もしかして少しだけ旅慣れした結果、旅の最中にもかかわらず自分の内へ内へと入ってっちゃったのかなとも今思った)
悶々と過ごす時間が大半の仙台の旅となってしまったが、行きたかった所は全部行けたし、景色は綺麗で目も楽しかったし、ホテルは怖くなかったし、牛タン美味しかったし、
振り返るとめちゃ楽しい旅じゃないか。。
(ただ、ビジホの廊下の雰囲気は苦手かもしれないと気付いた。)
文中でも書いたけれど、
海鮮丼を食べてた時にしょぼんと悲しくなってしまったとき、
一人でも行動出来るけど、誰かといっしょだとより楽しいって思うんだなって思った。
薄々思っていたこれをちゃんと自覚した時、ちょっと自分とちゃんと向き合えた気がした。
寂しいって感覚を受け入れられたなって。
あと、寂しいって思えるくらい、人に対しての壁が薄くなったんだなって思った。
変な話、みんな大嫌い!って考えだったら、寂しいも何もないと思うのだ。
トゲトゲした気持ちがあったら、人と居たいとか思わない。
人からの愛情とか優しさとかを受け入れられるようになって、有り難さに気が付いて、有り難いって思うと同時に、一人が寂しくなった。
何かを見て、綺麗だなあって思った時に、誰かと分かち合いたいなあって思った。
誰かといっしょに、綺麗だねとか、楽しいねとか言い合いたいなって思った。
伊勢の旅と松島の旅を経て、旅に出ると普段忘れがちな大事なことを思い出すことができるって分かった。
これはきっとずっと、これから自分が旅に出る時の理由のひとつになるだろう。(そもそも忘れちゃだめなんだけど。)
あと、量少なめの海鮮丼だと食べたいのが一種類食べられないから、食べたいの全種類+そうでないのももりもりの海鮮丼にしちゃったけど、今度からはやっぱ食べたいものだけ食べようって思った。お腹苦しかった。。
松島、素敵な所だった。また行きたいなあ。写真見返すととても素敵なんだ。
鹽竈神社のご利益を、三大橋と天通院のご利益を、授かりたいものです。
そして私はこの数日後、また旅に出る…
To be continued...